28.BUG
「彼らは連係プレーをせず、自らの手柄や目的を求め、一人でベルゼビュートを殺そうとした」
屋上にはフードを被った男が一人、立っていた。
「彼らが連係していたら勝てただろうか? いや、そうは思えない」
しわがれた声。老人のようだ。
「この仕事に対するスタンスが、私は他と少し違っている。元々は、途中で姿を消すつもりだったんだがね」
シトシトと細い雨が降っている。
「だが、あのファイアスターターがあっさり敗北したことで、少しばかり考えが変わった」
老人の来ているフードつきの薄いコートは、レインコートみたいに見えた。
フードが外される。
「この鼻をくすぐる伝説の傭兵の香だけは、どうしようもない。どうしようもなく――惹かれてしまう」
深いシワの刻まれた顔。落ちくぼんだ眼窩。鷲鼻。長い年月を滲ませる白髪とヒゲ。その腰には、小太刀が一本。
「名を、天野虫然」
老人は泰然と笑んだ。
蠅の赤目の表面を、水滴が伝い落ちる。
真柄は、構えていた銃の引き金を引いた。
キィンッ!
天野虫然の額目がけて一直線に飛んだ銃弾。それが、いびつな形をした銀色の盾に弾かれた。
骨ばったてのひらと視線を、虫然が雲に閉ざされた天へと向けた。このビルへ入るまでは月が綺麗に望めるほどに晴れていた。しかし今は、雨が遠くの音を消し去っている。
「この年齢で魂殻が発現した人間は、非常に稀だそうだ」
形の定まらぬ水銀めいた液体のかたまりが、硬くなったり柔らかくなったりしている。宙に浮かぶ銀色のアメーバと言うべきか。
「最初はこの力に戸惑った。だが、結局のところ……本質は変わらんと悟ったよ。魂殻があろうとなかろうと、戦人の本質は変わらない。違うかね、ベルゼビュート?」
「……そうかもな」
虫然は小太刀を抜くと、逆手に構えた。可逆性の強い形状記憶合金さながらのあの流体魂殻を、周囲に従えて。
穏やかな戦気を漂わせ、虫然が言った。
「やろうかい、ベルゼビュート」
これ以上の言葉は互いに不要。そう判断した。
天野虫然はここにベルゼビュートがいる理由を求めていない。
あの男は、今、戦うに値する敵を求めている。
それがわかった。
手もとの鞘からするりと刀を抜き放つ。この刀はスクリームのいた部屋のロッカーにしまってあった。おそらく、彼らの仲間が使う武器の予備だと思われる。
(さて、刀でよかったと思うべきか……それとも……)
真柄弦十郎が”刀”や”ナイフ”と”認識”する形状の武器ならば”極弦”の自動発生現象は起こらない。そして、この”認識”は意識的にできるものではなく、真柄弦十郎の意思のほぼ介在不可能な無意識下で行われる。
自動発生現象が起きるのは、真柄の無意識が”剣”と認識した場合のみ。
ただし、もしひとたび”剣”と認識した武器を使用したなら、真柄弦十郎のあらゆる攻撃は、他の武器を使用した時と比べ数段上のキレを見せる。
その分負荷の大きさは覚悟しなければならない。特に五弦以上の”極弦”は、使えば使うほど、自分の身体にもダメージを刻んでいく。
(とはいえ、この相手ではな……)
すでに――”極弦”は、五本。
雨が、揺れる。
踏み込みは、同時だった。
斜めの刀閃を放つ。
虫然が低く腰を落とし、真柄の一閃をかわす。虫然のフードが切り裂かれ、雨の中にその切れ端が放り出された。
その時、流体魂殻が瞬時に長刀の形状を取った。
パシッ
長刀に変化した魂殻を手に取ると、虫然は、雨しずくを吹き飛ばす壮絶な突きを繰り出した。
身を翻した真柄のコートの端を、魂殻の刃が貫いた。瞬時に真柄がコートを力強く引っ張ると、虫然の刃はそのまま生地を斬り裂き、コートは生地に引っかかっていた侵入者をそのまま吐き出した。
低い体勢から一瞬で刀を逆刃に持ち替えると、虫然のあご目がけて斬り上げる。
流体魂殻が分裂し、斧の形をとった。
振り下ろされた重厚な斧が斬り上げを防ぐ。
真柄は身体を捻りつつ回転させる。それと合わせて、刀をほぼ一回転――その回転力を利用しながら、今度は、虫然の頭上から刃を振り下ろす。
小太刀で刃を受けとめる虫然。彼は直後、短槍に変化した魂殻で、真柄のわき腹に照準を定めた。
弾丸さながらの、激震の神速突き。
その捻りを加えた轟烈なる突きは、真柄のわき腹を、ギリギリの距離ですり抜けていった。
あまりの威力に風圧が巻き起こり、近辺の雨しずくが薙ぎ払われる。
下方から叩きつけてきた風雨をマスクで受けながら、真柄は、構わず水平の一閃を放った。槍の腹で受けとめる虫然。
直後、銀の槍が分裂。
分裂した槍は数本の短刀へとその姿を変える。
虫然が魂殻の短刀を掴み、投擲し、また別の魂殻の短刀を掴む。それら動作が繰り返される。
短刀はそのすべてが、虫然が使用しやすい位置に適切に配されていた。
これを、何刀流と呼ぶべきか。
刃を一つ払いのけると、すぐに次の刃が襲ってくる。
洗練され切った連続攻撃。隙の潰し方をよく理解している。経験値に裏打ちされた鮮やかな手つき。
天野虫然の刀が描く動線には、独特の深い呼吸が宿っている。それは、例えば長い年月を経て熟成された蒸留酒の持つ深みと、相通ずるものがあるかもしれない。
深い経験と絶え間ない自己鍛錬。
それらが産み出したその芳醇な刀香は、決して、一朝一夕で得られるものではない。
老化による肉体的な衰えは感じられなかった。むしろ、今を全盛期と呼んでいいのではないか。
終わらない老獪なる刀撃の嵐。
真柄は、次第に少しずつ押され始めた。
天野虫然は流体魂殻を完全に我がものとしている。
無形と有形を行き来する魂殻は、様々な武器へとその姿を変化させていく。虫然はそのすべての武器を、驚くほど高いレベルで使いこなしていた。
虫然はあらゆる武器を使いこなしている。
広範な種類の武器を使用する者は、一つの武器を究めた者に劣ることが多い。しかし天野虫然はそれに当てはまらない。
全一の闘、とでも言おうか。
すべての武器の技術が渾然一体となり、一つの軸をなす濃密な戦闘様式へと昇華されている。
これほど均等な複数の高い技術を得るために、一体どれほどの時間が費やされたというのか。
極めつけに、天野虫然には驕りがない。
ゆえに、隙らしい隙もなく。
(その名が裏の世界に知れ渡るのも無理はない……見事だ、天野虫然。その卓越した技術には、素直に敬意を表す。だが――)
少し前から、奇妙な気配がこの廃棄地区一帯に点在していた。
天野虫然を熟された老成の酒とすれば、こちらは、驚くほどキレの鋭い若々しい酒とでも言おうか。
(三つか、四つ……キリシマセンジンか? いずれにせよ、この気配すべてが敵だとすれば、あまりこの戦いを長引かせるわけにもいくまい……)
この正体不明の気配の影響によって”極弦”の配分にも影響が出ていた。ここで”極弦”を最大限に使うべきかどうかを、真柄は決めかねていた。
だがここで、決意をかためる。
虫然の攻撃を次々と払いのけながら、糸の起点を生成。
言葉の交わされぬ戦いの中、虫然が口を開いた。
「秘蔵の技にようやく手をかけるか、ベルゼビュート」
まだその奥に力を秘めているのを虫然は感じ取っていたようだ。すると虫然が、流体魂殻を自らの身体に取り込み始めた。
「ならばこちらも……この老体を削って、とっておきの秘蔵っ子を出そうかい」
淡く発光する銀色の線が天野虫然の身体に走っていく。
あれが、最終形態とも呼ぶべき戦闘態勢か。
「…………」
真柄は身体の隅々に、引き絞るような感覚を、染み渡らせた。
刃を、後方へ流す。
――ミシッ――
雨の降りしきる中、まるで呼びかけに応えるかのように、糸を編む身体が軋みを上げる。
十の弦が、全身へと、行き渡る。