7.王の約定
しばし穏やかな時が流れたあと、冴は手袋をはめ直した。
冴が少年の姿に戻る。ただし、もし初対面で女だと紹介されても誰も冴の性別を疑いはしないだろう。
「そういえば、弦十郎はなぜこの公園に?」
「人と会う約束があったんだが、相手から遅れると連絡があってな。この公園で時間を潰そうと考えていたら、おまえに声をかけられた」
「待ち合わせの相手は仕事関係の者か?」
「大体はな」
「今も、例の便利屋を?」
「ああ、それなりに楽しくやってる」
普段、二人は互いに接触を避けるようにしている。
これは、あの一週間の旅行中に取り交わされた約束だった。
真柄は当初冴の身を案じ、もう自分たちは会わない方がいいと提案した。しかし、冴の方が今後もつながりを持ちたいとせがんだ。
この時の真柄は冴の身の上話も聞いていた。今後は接触を避けた方がよいと思う反面、このまま放置しておくというのもいまいち気が進まなかった。なので、お互い積極的に干渉をしないという取り決めをし、秘密の連絡先を交換し合った。
とはいえ得ようと思えば冴は、これまでいくらでも真柄の情報を得られたであろう。やろうと思えば、ほぼリアルタイムで。
真柄の方も調べようと思えば、冴の情報をいつでも調べられた。けれど互いに”約束”を大事にしていたせいか、二人は積極的に相手の情報を調べようとはしなかった。
それまで交わしたやり取りの内容もこれといって深刻ものはなかった。それは、ただつながりを維持するためだけの”文通”だったと言えるだろう。
ただし一つだけ、冴の側から真柄の生活を一変させかねない提案が何度かなされていた。
「弦十郎」
「ん?」
「例の話……やはり、受ける気はしないか」
「すまないが、難しいな」
冴は残念そうに視線を伏せたが、しかし、その答えはすでに予想済みのものでもあったようだ。
「もし弦十郎が余のパートナーとなってくれたら、これほど心強いこともないのだがな……」
定期的に受け続けている打診。
それは、冴の側近になって欲しいというものだった。
「側近と言っても、それは外へ対しての形式的な地位……余にとっては、同格のパートナーだ。かの”ベルゼビュート”ならば、あの皇龍も納得するであろう」
欧州で黄柳院冴を”再誘拐”し一週間も連れ回した犯人の捜索は、犯人が”ベルゼビュート”と判明した時点で、当主の皇龍が打ち切った。
当時、皇龍はこう言っていたという。
『あの蠅の王を敵に回すメリットはない。何一つだ。それに……一匹の蠅が柳の枝にとまるくらい、我々にとって大したことではない。むしろ、おとなしくとまっていてくれるのなら、それに越したことはない。望まぬ卵を産みつけさえしなければ、あえて振り払う必要もない。使いようによっては、おそらくやつはこの世で一番の”益虫”と言える。使える者がいれば、の話だがな』
その言は”ベルゼビュート”を評価している人間のものと言える。もちろん、言葉に一種の含みがあるのは事実だが。
「冴、おまえの気持ちは嬉しいが――」
「よい、それ以上は言うな」
冴がかぶりを振る。
「弦十郎を困らせたくはないし、余も余なりにわかっているつもりだ……ただ、門はいつでも開いていると……それを、伝えたくてな。いつでも余は真柄弦十郎を受け入れる準備ができている……それを直接、余自身の口から伝えておきたかったのだ」
「昔から気になっていたんだが……おまえは、俺のどこがそんなお気に召したんだ?」
「実は、余にもわからぬ。気づけば弦十郎は余の色になっていた。ただ……一つ言えることが、あるとすれば――」
腹の上あたりに手をあてる冴。
「おまえはそれまで誰も入ったことのなかった余の深いところへ、初めて入ってきた男だったのだ……だからおまえは、余にとって特別なのかもしれぬ」
冴の顔に迷いの色が滲んだ。ややあって、冴は口を開いた。
「弦十郎、余は今からつまらぬことを聞く」
「かまうな。なんでも聞け」
一拍の溜めのあと、冴は問うた。
「……結婚は?」
(なんでもとは言ったが……これはまた、予想外の質問が来たな……)
「あいにく、まだ縁がなくてな」
「その……候補の者は?」
「候補? それは……恋人がいるかどうか、という意味か?」
「……そう受け取ってくれて、かまわぬ」
「そういう意味では、そっちもまだだ」
「そうか」
冴は、反芻するみたいに言った。
「……そう、か」
「冴……ただ、俺は――」
「よい、言わずともわかっている」
「…………」
「弦十郎には、誰か心を寄せる者がいるのだろう?」
「……ああ」
「薄々だが、勘づいてはいた」
冴が微笑む。
「ずっと真柄弦十郎の心の中には、広大な領土を占めている何者かがいると」
「……おまえの勘は、正しい」
「弦十郎の心は自由であるべきだ。その心の自由を、余が奪うことなどできぬ」
冴の目もとが和らぐ。
「それに先ほども言ったが、余はおまえがこの世界にいてくれるだけでよいのだ。そう……ただ、それだけで。だが――」
胸に手をあてる冴。
「少しだけその者が、余はうらやましい」
▽
「そろそろ時間か……弦十郎と一緒にいると、不思議と時が経つのが早く感じるな」
冴が時間を確認し、立ち上がった。そろそろ別れの時間だった。
「冴」
「なんだ」
「おまえが変わっていなくて、嬉しかったよ」
「……余も、少しは成長したつもりだったが」
「成長はしている。確実にな……それでもおまえの中身は、まだちゃんと優しいままだった。まだおまえの色は、ちゃんと”自分”が残っている……魔境の黄色に、塗りつぶされてはいない」
「だがいずれ、その”自分”も妖気を放つ黄金に塗りつぶされる……余には、わかるのだ」
冴が視線を逸らす。
「余は、そのうち――」
クイッ
小さなあごを上向かせると、視線をのがさせぬよう、真柄は冴と目を合わせた。
「――弦十、郎?」
「その時は、俺が塗りつぶしてやる」
優美なまつ毛に守られた琥珀色の瞳が、静かに花開く驚愕を伴って見開いた。
「もし、おまえに残された最後の領域が魔境の黄に侵略されそうになったら――おまえの”そこ”は、俺の黒で塗りつぶしてやる」
蠅をシンボルとする、真柄弦十郎の持つ黒の色。
混じり合った色のほぼすべてをのみ込む蹂躙色。
その黒色に対抗しうるのは、白色のみ。
そして、この世で真柄弦十郎の持つ強力無比な黒を変えられる白を持つ者がいるとすれば、それはおそらく月を彩る白銀の色を持った者であろう。
真柄はしかと、冴の瞳の奥へ自分の意思を注いだ。ドールのグラスアイめいた冴の瞳の奥には、今、確かなぬくもりが灯っていた。
「弦、十郎……」
「しかし、俺は黄柳院冴のその色が好きだ。だから――」
冴の頭を優しく抱き寄せると、その耳もとで、真柄は力強く囁いた。
「できるだけその色は、大切にしろ」
身をあずけるようにして、冴が真柄に寄り添う。
「わかった」
冴が目を閉じる。
「わかったよ、弦十郎」
◇
真柄弦十郎と別れると、黄柳院冴は車へ戻った。
「お戻りになられましたか、冴様っ」
外で待っていた運転手が、そそくさとドアを開ける。
「……すまぬな」
「へ?」
冴は小さく舌打ちをした。
「おまえは、呆れるほど鈍い男だな。今のは、余の気まぐれにつき合わせた件についての謝罪だ」
「えっ――あ、いえ! その……まさか冴様から、そのようなお言葉をいただけるとは――」
「もうよい」
車内へ身を滑り込ませる。
「え? そ、その……冴様っ?」
「これ以上おまえと、益のない会話を続ける気はない」
頭を下げる運転手。
「はっ! し、失礼いたしましたっ!」
ゆったりと冴は、後部座席に腰を降ろした。
「……何を見ている? さっさと出せ」
「は、はいっ」
混乱した様子の運転手が席につき、ハンドルを握る。
車はすぐさま、黄柳院の屋敷を目指して走り出した。
「あの……冴様?」
「…………なんだ?」
「公園では、その……何をされていたのですか? あ、いえ……武城様にご報告する際、戻りが遅れた理由を説明しなければなりませんので……」
流れゆく景色を眺めながら、冴は淡々と答える。
「気分転換だ」
「気分、転換……?」
バックミラー越しに、冴は運転手を睨めつけた。
「余も人間だ……たまにはああいった自然に満ちた公園で、気を晴らしたくなる日もある。何か不服か?」
「いいえ! と、とんでもございません!」
「ならばよい。運転に集中しろ」
「は、はいっ」
(まったく……この車を運転しているのが、弦十郎であればな……)
「……あの、冴様?」
冴は不快の息をついた。運転に集中しろと、そう言ったばかりであるのに。
「貴様――」
「何か、よいことでもありましたか?」
冴は思いとどまった。
「……なぜ、そう感じる?」
「公園からお戻りになってから、何やら、ご機嫌がよろしい印象でしたので……」
(機嫌がいい、か)
「まあ――」
この時バックミラーで冴を一瞥した運転手の頬には、思わず見惚れかけたと取れる独特の薄い赤みがあった。
「悪い気分ではない」




