27.魔境の影
「お、目を覚ましたみたいだよ? じゃあボクはしばらく外に出てるから……言っておくけど……清潔な保健室でイケナイ行為は困るよ、七崎悠真君?」
「心配するな。そんな元気は残ってないさ」
斑鳩が囃す口笛を吹く。
「言うねぇ」
斑鳩が退室。悠真は、隣のベッドのティアに声をかけた。
「大丈夫か?」
「……思ったよりは」
ティアが身体を起こす。上質な絹めいた白銀の髪が、たおやかな流水のように胸もとに垂れた。今の彼女は制服ではなく、保健室に常備された医療着を着ている。
「気分はどうだ?」
しかし悠真に質問への返答はなかった。ティアは、ひと言呟いた。
「無様な試合でした」
「無様、か」
互いに無言になる。沈黙を破ったのは、ティアの側だった。
「たった一撃で敗北するなど、この私にとってありえてはならない決着でした」
ティアは自分の右の手首を握り込むと、その手首を睨みつけた。
「あれだけの大口を叩き、あれだけの自負を抱いておきながら……あまりにも、私の負け方は無様すぎました」
「互いの実力を考えれば仕方のない結末だったさ。俺の方はあの一撃に賭けるしかなかった。あれを防がれていたら、その時点でおまえの勝ちは決まっていた」
感情を切り換えるように、ティアが息をつく。
「あの超高速の強打は、魂殻の能力ですか?」
「いいや、違う」
「あなたの霊素値を考えると、霊素による能力ではなさそうですが……どこであんな攻撃を?」
過去の真柄弦十郎を、悠真は両眼に灯す。
「昔、色々とな」
「……どんな壮絶な十七年だったのですか、あなたの人生は」
「経験値とは時間ではなく、密度だ。純度を高めるのは、必ずしも年月がすべてではない」
このあたりは、耳に通りのよい定型の文言でごまかしておく。
「逃げ口上に、老成すら感じますね」
「多分、精神年齢が高いんだろう」
再びの沈黙がおりる。今度は、悠真が質問で沈黙を破った。
「おまえは、なぜあれほどまでに俺との戦いにこだわった?」
「気づいていましたか」
「違和感レベルだがな」
どの道ティア・アクロイドには、なんらかのアプローチをかける算段だった。だから彼女の好戦的な態度は悠真にとって好都合でもあった。
「こだわったのは、私が最強であり続けるためです」
「……最強、か」
「笑わないのですね」
「笑わない? おまえほどじゃないさ」
憮然となるティア。
「あなたのような軽口を織り交ぜてくるタイプは、好きではありません」
「あえて嫌いだと言わないあたり、それほど不快でもなさそうだがな」
ティアが眉根を寄せ、頭痛をこらえる仕草をする。
「……で、なぜおまえは最強にこだわりを?」
自分の腕を見つめるティア。
「……私が”私”であり続けるためです」
「最強であり続けることが、おまえにとっての存在証明か」
「はい、そうでした。ただ、あなたに敗北した時――」
ティアが目を閉じ、耳を澄ます。
「”声”が、消えました」
「声?」
まぶたの下に、薄っすらと琥珀色の瞳がのぞく。
「私を最強へと駆り立てていた”声”……戦いが始まると、私の言葉に重なってくるもう一人のティア・アクロイドの”声”……私とは、似て非なる”私”……」
(敗北への恐怖が、勝利に固執する焦燥を生んでいた……その”声”とやらは、恐怖に怯えるもう一人のティア・アクロイドといったところか)
「それまでティア・アクロイドは、負け知らずだった?」
「ええ」
あの膨大な霊素量なら負け知らずだったのも頷ける。だが――
(世界に散らばる一部の怪物たちとこれまで出会わなかったのは、幸か不幸か……そこばかりは、俺にはわからんな)
「あなたの言うように、最強であり続けることが私の存在証明でした。そして……あなたと蘇芳十色の特例戦の映像を観た時、なぜか、私の存在が揺らいだ気がしたのです」
彼女の感性は果たして、七崎悠真の向こうに蠅王の影を見たのか。ならばその感性は、卓抜した感度を持つと言えるだろう。それもあるいは、尋常ではない霊素量のなせるわざなのか。
「この男に勝たなければ、自分は最強であり続けられない。そう感じ、私はあなたとの戦いにこだわりました……こだわったのだと、思います」
ティアが手首をいじる。
「そしてあなたに敗北したら、戦うたびに私の声に重なっていたあの”声”が消えてなくなりました。ただ、不思議なのですが――」
手首をいじる手が、止まる。
「今は、胸がスッと晴れたような気分でもあるのです」
「最強の座から降りてプレッシャーが消え、スッキリしたといったところか」
「……そうなのかも、しれません」
悠真は、ベッドの上で片足を立てた。
「なら……スッキリしたついでに、俺の方もスッキリさせてもらおうか。おまえが負けた場合は、なんでも二つ言うことを聞いてもらう条件だったからな」
ティアが姿勢を正す。
「何をすればいいのですか? 約束ですからね。なんでも二つ、でしたか……あなたの言うことを聞きましょう。ただし、私に実行可能な内容に限りますが」
大人びた褐色の少女を注意深く見据え、悠真は聞いた。
「誰の命令で、おまえはこの学園に転入してきた?」
ティアの身体の力が抜けたのがわかった。
その反応は悠真にとっていささか予想と反したものだった。むしろ今の質問なら、緊張して逆に力が入るものだと思っていたからだ。
「あなたの”なんでも”は、そんな命令でしたか……正直、予想外でした」
(予想を外したのは、俺の方だが……)
「どんな命令を予想していた?」
「エロ命令です」
「…………」
そうきっぱり回答したティアの内心は読み取れなかったが、質問後に身体の力が抜けたのは、提示されたのが性的な要求でなかったからのようだ。
(やれやれ……思い返せば、俺の言葉選びと話の運び方も悪かったかもな……)
「黄柳院です」
ふとティアが言った。またも、彼女の行動は悠真の予想を飛び越えた。
(これはまた、やけにあっさりと答えたな……)
元々は、こういった状況で質問を突きつけた際の彼女の反応で、自らの立てた予想の正否を見極めるつもりだった。
悠真は、別にティアが嘘をついてもかまわないと思っていた。
大事なのは、嘘をつく状況を最適な状態に整えること。
特例戦の流れを作った思惑の一つもこれであった。
なんでも言うことを聞くという条件を破ってまで、嘘をつく。
特例戦の前の会話で性格を分析した限り、ティア・アクロイドにこの手法は有効だろうと思った。
彼女は表情こそ薄いが、自分の中で設定したルールを破る行為に対しては葛藤を抱くタイプと思われる。
だから、正直さを求められる局面で嘘をつく場合、わかりやすい反応が出ると予想した。
「姿を隠したがっているだろう主人の名を、そんなにも簡単に口にしていいのか?」
「妙なことを言いますね? 私は、約束を守ったまでですが?」
「…………」
「不服そうですね」
「嘘を言っていないのはわかる。しかしおまえからは、あの黄柳院への恐怖を感じない」
「私は所詮、道具ですから。別段、恩義も感じていませんので。黄柳院家は私を使う側で、私は使われる側。それだけの関係です。特別な感情はありません。黄柳院家も使用価値がなくなれば私を処分すると、そう言い切っていますし」
「なるほど、どうやらずいぶんと割り切った関係らしい」
「私は、親にすら売られる程度の人間ですから」
なんの感情もこもっていない声音で、ティアは言った。
「物品としての扱いには、慣れています」