16.もしかすると、似たもの同士
翌日の日曜日。
悠真はオルガの家の近くまでバスで移動した。
バスを降り、時間を確認する。
(少し予定より早く着いたな……)
とはいえ、早すぎるわけではないし、どうせ料理ができるまでは座って待つことになるだろう。なので、気にせず向かうことにした。
歩きながら悠真は護衛任務の状況を整理する。
学内における黄柳院オルガの護衛は順調と言っていいだろう。ただし敵側の動きがほとんどないため、任務として守ったと言えるのは御子神一也の一件くらいか。
その御子神一也を調べるために動いているアイは今朝、メールで報告を入れてきた。メールには『報告』という簡素な件名と共に一文が添えられていた。
『想像以上に、森は深い』
御子神一也の隠された情報に辿り着くのは難しいという意味だ。情報が文面として残る手段を使う際、アイはこうした暗喩を使うことがあった。
御子神一也の件は思っていたより根が深そうである。
(あとは……今までの七崎悠真の目立つ行動を見て、敵側が”七崎悠真”を探り始めるかどうかだが……そうだな……久住の協力を得て、学園のデータベースにここ最近不審なアクセス履歴があるかどうか調べてみるか)
さすがにそのあたりは久住の協力が必要となる。
その時、悠真は歩くペースを落とした。すると、感じていた気配の方もペースが落ちた。
目的地の近くまで来た時、何者かが尾行している気配があった。気配を消そうとしている感じからすると、一般人ではない。
(気配は、二人……尾行のレベルは二人とも同じくらいか。黄柳院側の監視役だろうとは思うが――)
分析しつつ、オルガの家にさしかかった時だった。
「きゃぁぁぁああああああ――――っ!」
絹の裂くような悲鳴。
声はオルガのもの。
悠真は駆け出した。
家は目と鼻の先だ。すぐさま部屋のドアの前へ到着する。ドアの周囲にこれといった異常は見受けられない。
(裏に回って、ベランダの掃き出し窓を割って侵入すべきだったか?)
しかしある確認をして悠真は驚く。
(鍵が開いている……?)
誰かが鍵を開けて侵入したのだろうか。
(黄柳院家の監視はどうした? 監視の人間が俺の方へ来ていたから、こっちが一時的にノーマークになっていた……? だとすれば、お粗末にすぎるが……)
違和感を覚えながら部屋へ踏み入る。奥の部屋へ視線を飛ばしつつ、悠真は右手側のキッチンの下の棚を片手で開けた。オルガは料理をするから、中には包丁が入っているはずだ。
包丁の存在を横目で確認。いつでも武器として手に取れるよう、意識しておく。
リビングスペースにオルガの姿はない。無人。
(掃き出し窓の方に気になる変化はないし、カーテンにも乱れはない……そもそも、悲鳴が聞こえてから外へ出た様子がない。悲鳴にはいくらか独特の反響があった……つまり――)
バスルーム。
悠真は迷わず、狭い脱衣所のドアを開けた。
するとそこには――壁際によってへたり込む、裸のオルガがいた。自分で身体を抱くような体勢になっている。
「ふへ?」
涙声でひと言だけそう発すると、焦点の定まっていないオルガが悠真を認識。
「あっ――」
ぶわっ
オルガの目もとに、涙が溢れた。
「しし、七崎くん! た、助けっ――」
腰にタックルするような形で、抱きついてくる。
下手に避けるわけにもいかないので、極端な接着に配慮しつつ受け止める。それから悠真は、手近にあったバスタオルを手早く取ると、オルガの両肩にかけた。
オルガは震えていた。全身が濡れており、濡れそぼった金髪は白い肌に貼りついている。明らかに動揺していた。
悠真は視線を動かす。
ドアの半開きになったバスルームの中には、誰もいない。
「何があった?」
「ご、ご――」
「ご?」
「ごき、ゴキブりがぁぁっ!」
(ゴキブリ……)
瞬間、身体の力が一気に抜けていく悠真であった。
誰かがドアを叩いている。
「二つ隣の岡部です! なんだかすごい悲鳴が聞こえましたけど、何かあったんですか!?」
騒ぎの元凶が出てこないようバスルームのドアを閉め、悠真は息をついた。
「説明は俺がしてくる……その間に一旦、脱衣所で軽く着替えておいてくれ」
▽
「あらやだ、あの悲鳴はゴキちゃんのせいだったのぉ! あはは、まあ若いコなら仕方ないわよねぇ! でも、頼りになるかっこいいカレシがいて羨ましいわぁ……」
「すみません。ご心配おかけしました」
「いいのよぉ! 事件とかじゃなくてよかったわぁ! じゃあ、オバサンはさっさと退散するわねぇっ」
岡部という気のよさそうな近隣住民に説明を終えると、ちょうどオルガが脱衣所から出てきた。
無地のタートルネックとスカート。地味というよりは上品な感じである。そしてサイズのせいか、はっきりと胸の形が出ている印象だった。
濡れた長い髪はタオルでまとめている。顔が赤らんでいるのは――あのハプニングのあとでは、仕方あるまい。
「あの――」
唇を震わせて、オルガが声をかけてきた。
「ん?」
「すみません……実は、アレが出たのは今日が初めてのことでして……まさかわたくしの家に出るとは、よ、予想もしていなくて……ゴキブリ用の殺虫剤が、ありませんの……」
「わかった」
悠真は使ってもいいかオルガに確認してから、ゴム手袋とキッチンペーパーを数枚、手に取った。
「まだいるようなら、俺がつかまえて外に出す。その間、おまえはあっちので髪を乾かすなりしていろ。ああ、経緯なんかの話は髪を乾かし終えてからにしようか……風邪をひかれても困るからな」
「は、はい……」
バスルームに入ってゴキブリの姿を捜すと、すぐに見つかった。的確な先読みとスピードで捕まえてから、キッチンペーパーで包み込む。外で放してくるとオルガに断ってから、アパートの裏手へ向かった。
裏手で屈み込み、ゴキブリを逃がす。
ゴキブリは人間からはほとんど好まれない虫だ。仮に何も危害を加えずとも嫌悪されるし、悪いモノのたとえにも用いられる。どこか蠅と似たところがあると、真柄弦十郎は常々思っていた。
視線を滑らせる。
敷地の道路沿いからこちらをうかがっている視線が、二つ。
外回りの営業風の女と、コンビニに買い出しに行った作業員風の男。どちらともその体を装った黄柳院の監視員だろう。
「やれやれ、ゴキブリ程度で大騒ぎとはな……黄柳院オルガにも、意外な弱点があったものだ」
何が起きたかが伝わるよう、あえて二人に聞こえる声量で悠真は独り言を発した。
(あの二人、すぐに踏み込んでくる気配がなかった……あくまで”監視”に限定されていて、状況報告以上の権限は与えられていないのか……?)
部屋に戻ると、悠真はゴム手袋と余ったキッチンペーパーを処理した。今、オルガは脱衣所で髪を乾かしているようだ。ドライヤーの音が聞こえてくる。
「お待たせしました、七崎くん」
しばらくすると、オルガが脱衣所から出てきた。これから料理をするからか髪を後ろで一つに結っている。白いリボンがよく似合っていた。
一度、ローテーブルを挟んで対面に座る。オルガは礼と謝罪を述べると、経緯を説明した。
「しかし、そこまでゴキブリが苦手だったとはな」
「実はわたくし、ゴキブリと蛾とミミズが特に苦手なのです。はっきりとした理由はないのですが、なぜかだめでして……」
「誰にでもそういうものはあるさ。ただ、あんな悲鳴だったから俺もいささか驚いてな」
「本当に、ご心配をおかけして……ですが、おかげで助かりましたわ。七崎くんは、ゴキブリが平気なのですね?」
「まあな」
ちなみに鍵が開いていたのは、普通に、朝出かけて帰宅した際に閉めるのを忘れていたからだったらしい。何か忘れていたはずだが思い出せなかった、とオルガは語った。
「けれどまさか鍵をかけ忘れていたおかげで、七崎くんに助けてもらえるとは……これも、怪我の功名と言っていいのでしょうか?」
「フン……しかし、その不用心はそう褒められたものではないがな」
肩を落とすオルガ。
「返す言葉もありません……以後、気をつけますわ」




