エピローグ.街の灯
翌日も黄柳院オルガに特例戦を挑む者が現れる気配はなかった。
あの宣言放送の効果は、確実に出ていると思われた。
悠真に対するクラスメイトの態度はまだ柔らかいとは言い難い。けれど好意的に受けとめている生徒もチラホラと見られる。好意的なのは主にあの放送が漢気のある行動だと解釈した生徒たちのようだ。
また今朝方、あの放送に関して狩谷から改めて注意を受けた。
『僕も担任という立場上、君には注意くらいしておかないとだからね』
『申し訳ありませんでした、狩谷先生』
『といっても、今回は厳重注意ってところまでにしておくよ。だけど、今回軽い注意で済んだからといって調子に乗らないないように。いいね?』
『はい』
『でも、まあ……若さってきっと、ああいうことなんだろうね』
そこで狩谷は悠真の耳もとに顔を寄せ、声をひそめた。
『今回の件、教師としては咎めるべきだけど……個人的には、応援してるから。むしろ内心では、よく言ったと思ったよ。かっこよかったよ、七崎君』
つくづくこの教師が担任でよかったと悠真は思った。
生徒からの人望が厚いのも頷ける話である。
▽
「今日の放課後、一緒にお食事を?」
その日の昼休み、悠真はオルガを食事に誘った。
「都合の方はどうだ?」
「え? まあ……空いてますけど。特例戦もありませんし、トレーニングも今日はお休みですから」
「なら、決まりだな。店はもう選んである。多分、気に入ってもらえると思うが」
「あ、あんまり高い店はご勘弁ですわよ?」
「安心しろ。今日も俺がおごる」
「し、七崎くんにごちそうになる筋合いなどありませんっ」
悠真は前屈みになって、オルガの側頭部に顔を寄せた。
「気にするな。例の恋人関係の件を了承してくれた、その礼だ」
「はぁぁん……し、七崎くんの吐息が耳に……」
「……聞いているか?」
「え? あ、ああっ! そ、そんなのむしろ、わたくしがごちそうする側になるべき話なのではなくてっ!?」
悠真は上体を起こした。
「黄柳院オルガと食事をご一緒できるんだ。当然、飯くらいおごるさ」
おぉぉぉ
クラスメイトたちが感嘆を洩らした。
ちなみに今のひと言は、あえて教室にいる生徒に聞こえる声量で言った。
「やだ……アタシのカレシにも、あれくらい言ってほしい……」
「ていうか、はなから割り勘でのお誘いはフツーにないわー……男どもはそういうの、言わなくても察しろっつーの」
「わかる……あのレジで財布持ちながらさりげなーく”え? おれが全部払うの?”みたいな時間停止系の空気出すの……あれ、すっごいさめるんだよね……」
「うげぇ、あれがリアル女子の実態か……やはり二次元が最高でやんす」
「いや、あいつらが世間の女子のすべてじゃねーだろ。だっておれの今のツレ、いつも割り勘でいいよって言ってくれるし。ま、当然おれがおごるけどさ」
「「「おまえは死ね!」」」
「でもさ、七崎君が言うとなんかキマってる感じがするよなー……大人っぽい落ち着いた雰囲気があるからかな?」
「よし、なんか僕もイケる気がしてきたぞ……ねぇねぇ斧瓦さん、今日の放課後って空いてる? 今日おごるから、一緒にメシとかどう? あ、もちろんおれがおごるよ? なんたって、相手はあの気立てのいい斧瓦さんだしね」
「無理っス」
「ですよねー……うぅ……おれと七崎くん、何が違うん……?」
「天然と養殖の違いじゃないっスか?」
「うぉぉい、養殖なめんなっ! 今の養殖技術はすげーんだぞっ!?」
「……自覚はあるんスね」
多少過剰であっても、こういう言動や振る舞いで二人の恋人関係を周囲に印象づけて、浸透させていく必要がある。食堂へ出ていた生徒が教室へ戻って来る遅めの時間帯に食事の話を切り出したのも、あえて生徒数の多い時間を狙ったからであった。
オルガの方の反応が素直なおかげで、演技臭さも適度に脱臭されている。
「わ、わかりました……では、次はわたくしが家で手料理をごちそうしますわ。それで、いかがでしょうか?」
落ち着きを取り戻したオルガが――頬にほんのり桜色は残るものの――取り澄ました表情で言った。
「交渉成立だな」
オルガは薄い桜色の唇をほんのわずかに綻ばせると、睫毛を優雅に伏せ、綺麗な姿勢で言った。
「敵いませんわね、七崎くんには」
恥じらう様にもかわいらしさがあるが、やはりこういう凛とした表情の時の方が悠真にはより美しく感じられる。黄柳院オルガには、冬の夜空に浮かぶ月の淡い光を浴びる氷の彫像のような、そんな身と心を引き締める美しさがあった。
(……敵わないのは、お互いさまかもな)
▽
放課後。
正門を抜けた悠真とオルガはさっそく、繁華街へ足を向けていた。
繁華街に近づくにつれてすれ違う人の数が増えてくる。
午後になって急に降り出した激しい雨は、もうすっかりあがっている。澄んだ空と夕日が雲間から顔を出している。アスファルトの上の水たまりが、降り注ぐやわらかな夕日を反射して、光の泉のように輝いていた。雨あがりのむっとしたにおいが鼻をつく。肌を撫でる風は清冽で、心地がよかった。
「晴れてよかったですわね」
「そうだな」
殻識市の中心街。
ビジネス街としても賑わいをみせるこの街には、高層ビルをはじめ高層建築物が多く、いかにも都市といった風情があった。色とりどりなビルの高低差は、経済という人の営みをそのままグラフにしたようにも映る。
悠真たちは街の大通りを歩いていた。殻識学園が島のほぼ中心地に位置しているため、思ったほどここへ来るのには時間がかからない。黄柳院家の屋敷に徒歩で行く方が。山登りがあるだけ困難な道のりと言えよう。
(それにしても、わかっていたことだが……オルガは目立つな)
一応周囲は警戒していたので、オルガへ注がれる視線の種類も警戒がてらに判別していた。中には明らかに普通ではない者もいた。距離の取り方と気配の変化のなさから、一般人に扮した黄柳院の監視役と思われる。今の時点では何か対処をする必要はないので、気づきつつも放っておくことにした。
通り過ぎざまに思わず振り向いた男の方の数は、途中で数えるのをやめた。今は昔ほど金髪と青い瞳の者は珍しくはない。他の肌、髪、目の色にしてもである。
オルガが目立っているのは、純粋に彼女が美しいからだろう。
歩く姿も上品だし、身だしなみもしっかりしている。女としてのセックスアピールも――当人は強く意識していないようだが――異性に対して時に下卑た感情を抱かせるのだろうと推測できるほどには、濃いと言わざるをえない。ただ、制服の胸もとが開いているわけではないし、黒タイツを穿いているので脚部の肌が露出しているわけでもない。必ずしも露出だけが性的魅力を醸し出すわけではないのだ。オルガを見ていると、なんとなくそれがわかるような気がした。
「今日はどんなお店に行きますの?」
「気になるか?」
「食べられないものは、あまりないつもりですが……ええ、気にはなりますわね。そのぅ――」
オルガは立ち止まると、胸の前でモジモジとてのひらを合わせた。腰を小さく左右に振っている。
「で、できれば事前にお値段も確認しておきたいかなぁ……と」
「支払いは俺が全部持つと伝えたはずだが?」
「いいえ! 学生にあるまじき高価な店だとしたら、わたくしが払わないとはいえ申し訳なさすぎますわ! ほら、見せてくださいまし!」
断れない雰囲気だった。
(案外、この娘にペースを乱されるのを俺は楽しんでいるのかもしれないな……)
悠真はスマートフォンを操作し、これから行く予定の店のページを呼び出す。
「ここだ」
オルガにスマートフォンを渡す。すると、彼女は目を見開いた。
「かか――」
持つ手が小刻みに震えている。
「どうした?」
「『スパイス&ドーン』ではありませんの!」
「そうだが?」
「い、一度行ってみたかったお店ですわ! この殻識島で、ついに辛みとうまみの最上融合を編み出したと言われる、超人気店……っ!」
半年前。この国に第三次激辛ブームがやって来た際、この『スパイス&ドーン』はその名を全国に轟かせた。一度食べた者はその独特の”まろやかな辛味”に魅せられ、病みつきになるという。ブームがおさまった今も大量の固定客を掴んで話さない、激辛通御用達の人気店である――と、食通サイトには載っていた。
(行ったことがなかったのか……)
存在を知りつつも今まで彼女が足を運べなかったのは、やはり生活費の問題が大きかったのだろうか。悠真は、調べたメニューの値段を思い出してみた。確かに学生が通い詰めるには、いささか値が張ると言わざるをえないかもしれない。
「ただ……夕食どきには若干まだ早いとはいえ……この時間、席がありますでしょうか?」
「大丈夫だ。予約はとってある」
「そうですのっ!?」
店側に昨日、指定の時間にもしキャンセルが出たらそこに予約を入れたいと伝えておいた。キャンセルが出なければ別の店を考えていたが、幸いキャンセルが一件あったので、席を予約できたのだ。オルガが誘いにのってくれなければ、そのねじ込んだ予約もキャンセルになってはいたのだが。
「七崎くん、これは素晴らしい仕事ですわっ!」
目をキラキラさせるオルガ。途端、年齢が下がった錯覚に襲われる。
「はぁぁ……わたくしもついに、スパドンでびゅー……」
(スパドン……そう略すのか……)
うっとりするオルガは、値段を確認するうんぬんの話はもうすっかり忘れているようだった。
「あぁ……憧れの、スパドン――――ひゃっ!? えっ!? し、七崎くっ――」
ぐいっ
悠真はオルガの腕を掴んで、勢いよく引き寄せた。
オルガは片手にスマートフォンを掴んだまま、悠真の胸もとにそのまま飛び込む形となった。
「あっ――」
ふにっ
悠真の身体に制服越しの胸が衝突して、その形をやわらかに変化させた。
頭を胸もとに埋めたまま身体の熱を上昇させるオルガが、動揺に揺らぐ瞳で、ゆっくりと悠真を見上げた。
「七、崎……くん?」
「自転車だ」
「え?」
首を巡らせるオルガ。
「ちっ……っぶねーなっ……はしゃいで突っ立ってんじゃねーぞ……っ! つーか、んだよ……いちゃつきやがってっ……くそっ……今日は、マジで面白くねぇことばっかだぜ!」
独りごととも嫌味とも取れる文句を垂れながら、自転車に乗った男が遠ざかって行く。
「あの自転車が、おまえに向かって猛スピードで突っ込んできていてな……イラついていたみたいだし、周囲に気を配る余裕がなかったんだろう。大丈夫か?」
「あ……す、すみません……わたくし、つい舞い上がってしまって……」
「無事だったなら何よりだ。今回は自転車の側にも問題があったしな。おまえがそこまで責任を感じる必要はないさ」
「は、はい……」
心臓の鼓動が伝わってくるような錯覚があった。オルガが、動揺の表情をしているせいだろうか。
「七崎、くん……あの……わたくし……胸、が……」
「ん? ああ、悪い……そこまで気を払う余裕がなかった。すまない」
密着していたオルガを、懐から解放する。
「わたくし、胸が……」
どうも、胸があたっていたことを言っているわけではないようだった。
「…………」
予約時間まではまだ少しある。
悠真は、オルガが落ち着くのを待つことにした。
▽
「ほら」
近くのコンビニで買ってきたミネラルウォーターを、オルガに差し出す。
「飲んで落ち着くといい。自転車とぶつかりそうになって、びっくりしたのか?」
小さなペットボトルなのですぐに飲み干せるだろう。
「あ、ありがとうございます……ん……こくっ……ごくっ……」
渡された水を、オルガはおとなしく飲んだ。そして空になったペットボトルをごみ箱に捨てると、ポツポツと街灯の灯りはじめた街を、再び悠真たちは並んで歩き出した。
夜風には程よい冷たさが交っている。オルガの身体の熱を冷ますのには、ちょうどいいだろう。
その時、オルガがポツリと切り出した。
「七崎、くん?」
「ん?」
「わたくしたち設定上は……こ、恋人関係なんですわよね?」
「……ああ」
「でしたら、そ、その……手を――」
接近したオルガの指が、かすかに悠真の手に触れた。しかし彼女の心細そうな手は、びっくりしたみたいに、すぐ離れていった。
それからオルガは、視線を合わせようとせず、うつむき気味に歩いていた。自分に落胆したような表情をしている。
いま彼女が望んだことを、悠真はなんとなく察した。
きゅっ
頼りなく行き場を失っていた黄柳院オルガの手を、七崎悠真の方から追いかけて、しっかりとつかまえる。
「これで、よかったか?」
「…………はい」
蚊の鳴いたような、小さな声だった。
しばし葛藤の気配があったのち、オルガは、悠真の手を強く握り返してきた。
白色の光の増え始めた街並みには少しずつ、夜のとばりがおりつつあった。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
この物語は一旦、ここでひと区切りとなります。
お読みくださった方から面白いというご感想をいただけたり、また、評価、ブックマーク等をしてくださった方々の応援もあって、どうにか毎日更新で(後半は逆に勢いで文字数が増えて推敲が間に合わなかったりもしましたが)エピローグまで書き切ることができたような気がします。心よりお礼申し上げます。
今後ですが、とりあえず第二章を書きたいという気持ちはあります。ただ、再開まで少しお時間をいただきたく存じます(ストック的な意味もあります……途中からもうストックが尽きていたので……)。今のところ、来週の金曜日(10/14)までには間章(1話分)を挟んだあと、第二章を始めたいと考えています。
それと、こういう系統の物語でも大丈夫そうなWeb系の大賞などがあれば試しに応募タグをつけてみるのもいいかなぁと、今は少し考えていたりもします。
反省も含め色々考えるきっかけにもなった本作ですが、お読みくださった方に面白いと感じていただけるのが作者としては何より嬉しいことでございます。ここまでお読みくださり、どこかで面白いと思っていただけたのなら、この作品を書いた意味があったと思います。
何はともあれ、第一章のラストまでおつき合いくださりありがとうございました。