27.蠅王の宣言
「今日は、誰も特例戦を挑んできませんでしたわね……」
放課後、悠真は教室でオルガと帰り支度をしていた。
オルガは特例戦の挑戦を受ける時間を帰りのHRまでとしていた。終業のHRまでなのは、それ以降だと黄柳院の迎えの者に時間の調整を頼まねばならないからだという。
二人連れ立って教室を出る。昼休みの放送の影響で、午後の授業、悠真とオルガはクラスメイトの注目を集め続けていた。けれどオルガへの挑戦者はついに現れなかった。おとといは御子神一也との特例戦があった。昨日はオルガが悠真とほぼずっと一緒にいたため、皆、気が引けて接触を躊躇ったのだと思われる。
ちなみに御子神一也だが、彼はあの試合のあと保健室へ運ばれた。すぐにベッドで意識を取り戻したようだが、右腕の変異現象が再発し、また気を失ってしまったそうだ。そして現在も一也の意識は回復しておらず、時おり保健室に姿を現す臨時養護教諭の斑鳩透によれば、右腕の異常反応が原因と考えられるとのこと。
一方、その御子神一也の情報を集めていたアイからも本日連絡があった。午後の授業の休み時間に、少しだけアイと話した。
『こいつはちぃっとばかし厄介な相手かもしれねぇな。今まで調べた分の情報はあとでそっちの端末に送っとくが……正直、アンタのお望みの情報が入っているとは思えねぇ。どうもこの件、電子の海で泳ぎ回ってるだけじゃ辿りつけそうもねぇな。だから、しばらく足を使って探してみる』
『わかった。気をつけてな』
『クク……もし後日どっかでオレの死体があがったら、香典は弾んでくれよな』
『俺の財産の八割を払おう』
『おぉ、ずいぶん太っ腹じゃねぇか』
『当然だ。おまえがそう簡単に殺られるとは思えないからな』
『クク、ご信頼どうも』
そこで通信を終えた。
(あいつでも手こずるとはな……だがそれだけで、御子神一也と繋がっている連中が普通じゃないのはわかった。御子神一也の件も、そのうち俺が調査に動く必要があるか……)
オルガに挑んだ時の言葉を思い返せば、オルガに特例戦を挑ませるために何者かが一也に入れ知恵をしたのは明白だ。
(死の危険があったとすると、黄柳院の線は薄くも思えるが……いや、今の時点でその判断は早計だな)
「考えごとですの、七崎くん?」
「少しな」
「何を考えていたんですの?」
「おまえのことを、考えていた」
「わ、わたくしのことを……っ!?」
「ああ」
悠真は気づく。
(別の解釈をしているな……ふむ……)
「もし恋人の頭の中が自分のことだらけだとしたら、嬉しいものか?」
「ばっ――わたくしを馬鹿にしていますのっ、七崎くんっ!? ふんっ! 勝っ手にわたくしが喜んでいると思われては、心外ですわっ!」
「そいつは、失敬」
わたふたするオルガの隣を、悠真は表情一つ変えずに歩く。
「あら? 七崎くん? 昇降口はこっちですわよ?」
「ん? ああ……すまない。今日は、ここで別れよう」
オルガが飛び上がった。
「もう恋人関係解消ですのっ!?」
「早とちりがすぎるぞ。放課後、学園で個人的な用事があってな。長くかかるかもしれないから、今日はここで別れようという意味だ」
「あ――ああ、そういうことでしたの……ほっ……まったく、七崎くんったら言い方が紛らわしいんですから……」
(今のは、俺の言い方がまずかったのか……?)
悠真は声量を落とす。
「もう一度言っておくが、本当の恋人になる必要はないんだぞ?」
「わ、わかっております!」
目を閉じて腕を組むと、オルガはツンとあごを逸らした。そしてチラッと片目だけ開いて、様子を窺う視線を送ってきた。
「けれど、かりそめとはいえ……七崎くんもこのわたくしとおつき合いができて、光栄なのではなくて?」
反撃のつもりらしい。悠真は、フンッ、と鼻を鳴らす。
「七崎悠真が女王様のお気に召したのなら、光栄の極みだ」
「ぁ、ぅ――」
赤唐辛子のごとく顔を真っ赤にし、オルガは口をアゥアゥさせた。
「帰り道、気をつけてな」
口の形の定まらないオルガに別れの挨拶を残すと、悠真は目的の場所へ向かった。
今日の放課後は学園長の久住彩月から、個人的な呼び出しを受けていた。
▽
「なかなか派手な学園生活を送ってるようじゃないか、七崎悠真クン」
学園長室。
厳めしいスーツ姿の久住彩月は、大仰な机に腰掛けながら悠真に言った。若干、咎める響きがある。
「今日の放送の話か?」
「そうだな。先日の特例戦が吹き飛ぶくらいの話題性だと聞いている」
悠真は目で問うた。久住はニヒルな微笑みを返す。
「安心したまえ。盗聴の心配はない」
久住が手元のタブレット端末をいじる。
「一定の範囲内に無登録の人間が来たら、認証カメラつきの感知センサーが反応して知らせてくれる。盗み聞きの心配もない」
「さすがは殻識の学園長。セキュリティに抜かりはないか」
「さて――」
久住が、内ポケットから煙草のパッケージとジッポライターを取り出した。
「学内は禁煙じゃないのか?」
「む?」
無意識の動作だったらしい。久住はいそいそとパッケージとライターを戻した。
「あ――す、すまない……つい、無意識に……学内どころか、未成年者の前で喫煙など……あるまじきことだった。ええっと……どうした?」
悠真は、久住の内ポケットの位置をじっと見つめていた。
「煙草、吸うようになったんだな」
「ん? ああ……ふふ、気づけばヘビースモーカー一歩手前だよ。君も煙草を吸う女は、だめなタイプかい?」
「世の中的には厳しいみたいだがな。だが、俺はかまわないさ。ベルゼビュートと呼ばれていた時代にも、周りで精神安定剤代わりに煙草を吸う者は多かった。だから、気にはならない。それに、ドラッグで恐怖を抑え込むよりはマシな”安定剤”だろう」
悠真――真柄自身は愛煙家ではないが、交渉事や任務上必要なコミュニケーションの一環として煙草を吸うことはある。ちなみに、七崎悠真の身体の時に喫煙をするつもりは一切ない。
久住が切なげに絨毯の上へ視線を落とす。
「君は一度くらい、わたしを否定したことがあったかな……?」
「否定する理由もないからな」
「ふふ……変わらないね、真柄は」
「おまえも変わっていないさ、久住」
「そうかな……いや、そうなのかもな……」
一時的に両者を過去へ引き戻す沈黙が流れたあと、久住が話の路線を切り替えた。
「それで、護衛任務の方はどうだい?」
「疑問点も数多くあるが、俺の中では順調なつもりだ」
「なら、けっこうだ。今日の放送も君なりの考えあってのことだろう……その点は信頼してるさ。それと、もし必要ならわたしの学園長権限を頼ってくれ。できる範囲で支援はする」
先ほどのお咎めは、やはり戯れだったらしい。
「護衛対象との関係は良好か?」
「まあな。俺は今のところうまくやれていると、自己分析しているが」
「そうか、ならよかった。彼女、綺麗な子だろ?」
「ん? ああ、そうだな……遺伝子の点から見ても奇跡の産物と言っていい。それに――」
「それに?」
「少し、昔のおまえに似ている」
「わたしに? あの黄柳院オルガがか?」
「話し方や表面的な性格は、まるで別ものだが……まあ、なんとなくな」
悠真は一つの疑問をぶつけた。
「ところで、学園に登録されている黄柳院オルガのデータが実際に彼女が住んでいる場所と異なっている件は、おまえは知っていたのか?」
「そうなのか?」
「そうか……知らなかったか」
「あ、ああ……すまん。多分、下の方では把握しているんだと思うが……あるいは、あえて上がわたしには伝えなかったのかもしれない」
久住によれば、学園長といっても実は学園内にとどまっていることはまれで、ひと月の半分くらいは学園の外を飛び回っているのだという。そのため、学園長としての実務の大半は下の者にほぼ任せきりなのだとか。実際はヨンマルの者としての仕事の方がメインなのかもしれない。
「ヨンマル側は……黄柳院に対しては、ひどく臆病だからね。けど、わたしは黄柳院をそれほど脅威と思っていないから、逆に、上が余計な情報を与えまいとしている可能性はあるかもな……」
今回の任務における人選とパイプ役は久住彩月に一任されたが、案外、彼女は真柄弦十郎との交渉人以上の役割をこの件では期待されていないのかもしれない。
「殻識の学園長というのもフタを開ければ、その実態はお飾りに近い役職なんだ。事実上、ヨンマルが据えた黄柳院への防波堤にすぎないと言えるかもな」
久住は複雑そうな胸の内を表情に滲ませた。
「だけど今後を考えれば、これも重要な過程なんだ。この職を勤め上げれば、きっとあの機関での次につながる」
「失礼を承知で聞くが……ヨンマルでの仕事は、やりがいがあるのか?」
彼女は一層、複雑そうな顔をした。
「ないといえば、嘘になるだろうね……それに、これは君を捨ててまで選んだ道だ。ここで引き下がったら、君にも申し訳が立たんよ」
「俺のことは、その……気にするな」
「ありがとう。だが、その優しさにうっかり甘えそうになるから……あまりわたしに、優しくしすぎないでくれ」
久住は弱々しく苦笑した。
「頼む」
わたしたちの話はここで閉じよう――彼女の表情が、そう告げていた。
真柄弦十郎としてはまだ続けたい会話の流れだった。だがその気分を奥へと押し込み、話を本題に引き戻す。話題は今日の放送の意図へと移った。
悠真は、自分があの放送を行った意図を久住に説明した。
例の取り決めの件をぼかしつつ、オルガが連日の特例戦で疲弊していたことを伝えた。ついでに――これはもう久住も把握しているだろうが――御子神一也の件も話した。
「なるほどね。だけど、それだけかい?」
「お見通しか……さすがだな。ああ、他にも意図はある」
ソファに座る悠真は、脳内で言語を組み立てながら続けた。
「オルガを狙っている連中からすれば、彼女にぴったり貼りついている俺の存在を奇妙に感じるはずだ。しかも、御子神一也との特例戦で乱入して場をおさめ、相手に有利な条件であるにもかかわらず霊素値が最低値ながら学内ランキング三位に勝利――加えて、今回の宣言放送だ。派手にやればやるほど、オルガを狙っている連中は”七崎悠真”の素性を調べにかかる」
久住が鋭い視線を投げてきた。
「君は、学園内に潜入している”敵”がいる可能性も考えているわけだな?」
悠真は頷きを返す。
霊素値が基準を満たしていれば転入が容易なこの殻識は、逆に言えば”刺客”を送り込みやすい環境とも言える。
「うまくすればオルガを狙っている連中の尻尾を掴むこともできるだろう。つまり、こちらから相手の素性を調べ返す機会を作れるかもしれない」
久住が疑問を呈す。
「しかし……黄柳院オルガを狙っている連中でなくとも、君の素性を調べたがる無関係の者たちはたくさんいるはずだ。怪しいかどうかを、どこで判断する?」
「簡単なことだ。”七崎悠真”は、いわば幽霊のような存在……存在しているのに、存在していない。要するに”七崎悠真”の秘密が眠る墓の深奥へは、並みの方法では辿り着けない」
久住が察した目をする。
「なるほど。七崎悠真の素性を調べる者の中に、明らかに普通の方法ではありえない方法で調べ始める者がいれば……そいつが、怪しいというわけだ」
「”網”の準備はできている。HALの監視カメラ等のデータ提供は、久住と氷崎――斑鳩の方から頼めるか?」
「手配しよう」
「第五の戦場の方は任せてくれ。こちらで”網”をはる」
「ああ、わかった」
(こういう時、やはり久住は対応が迅速だからやりやすい……)
もし彼女がフリーだったら、真柄弦十郎としてはなんとしてでもマガラワークスにスカウトしたい人材である。仕事的にも、個人的にも。
その後、悠真は御子神一也の件を久住に尋ねてみた。しかし結局、アイから得た以上の情報は得られなかった。けれど悠真はある程度、すでに的をつけつつあった。
(ふむ……ヨンマルと五識家の深く関わる学園で、データを偽装しながら転入手続きを行えたとなると――これは関わっているな、どちらかが)
「それにしても……五識の中核たる黄柳院家は、今もって黄なる魔境のようだな」
「黄柳院か……あの家は、ヨンマルでも魔の潜む家と呼ばれている。本気を出せば、小国一つくらいなら滅ぼせるなどと言われるくらいだからな……あくまで、喩えだろうが……」
久住が気まずさの漂う間を置く。
「黄柳院オルガの君の護衛の件で、もしあの家が動き始めたとしたら……怖がってはいないとはいえ、わたしが有効な対応策を打てるかどうか……いざとなったら……引くことも忘れないでくれ、真柄」
フン
その時、七崎悠真は”蠅王の面”をかぶった。
「柳の枝が、十本」
「え?」
「黄柳院を十本の枝に喩えてみてくれ。それが、あの家のすべてだ」
「あ、ああ……だが、その……何が言いたいんだ、真柄?」
「そのうちの、七本以上」
「七本……? どういう、意味だ?」
敵国に蹂躙宣言をする王がごとく、七崎悠真はソファに腰を沈め、前のめりになった。
「”ベルゼビュート”がありとあらゆるコネクションを使い、己の持てる力をすべて出し尽くし……もし、黄柳院に全面戦争を仕掛けたなら――」
彼の貌と前半身に、蠅色の昏い帳がおりる。
「柳の枝を七本以上、へし折る自信があるという意味だ」
その瞳は紅と錯覚せんがほどに禍々しく、そして、妖しげな光を放っていた。
「生かさず殺さずの腹違いの娘の周りを飛び回る、一匹の蠅……それを追い払うために七本も枝を失えば、立て直しを図るより早く……黄なる柳憎しの獣どもに、弱った残りの枝を噛みちぎられるのは必至――これをよしとするほど、あの家も馬鹿ではあるまい。だが、それすらもわからぬ”黄柳院の意思”だというのなら――」
蠅の王 は、宣言する。
「蠅たかる死骸と化すことを、黄柳院には覚悟してもらう必要がある」
七崎悠真――真柄弦十郎を、オルガは人間味の薄いロボットのように言った。
けれど彼をよく知る者の一部は、真柄弦十郎をそう評さない。
ある者は言う。
彼の本性は”怒りを秘めた暴君”なのだ、と。
その感情は静かなる山の底で、マグマのように熱く滾っている。
なぜあの娘が”当然”を取り戻すために、誰も彼もが、黄なる魔境の顔色を窺わなくてはならないのか――その理不尽な息苦しさが、七崎悠真に”蠅王の面”をかぶらせたのかもしれない。
言い終えると、悠真は背もたれに寄りかかり、暴君の王気を霧散させるように両手を軽く広げてみせた。
「ま、安心してくれ……今のは所詮、俺の妄想まじりの喩え話であり、タチの悪い冗談に等しい。当然、実行するつもりはない」
今のところは。
(それにあの家には、ちょっとした知り合いもいるしな……枝を折るにしても、折る枝は選ぶ必要がある……)
ふふっ
微笑んだのは、久住だった。
「それ、君が言うと冗談に聞こえないよ……君が言うと、黄柳院を相手取って本当に今の宣言を真実にしそうな気がする。それに――」
久住はなぜか嬉しそうだった。
「ちょっとだけ、懐かしいと思ったよ。そうだったな……普段は、淡々としている印象の君だけど……真柄弦十郎は、そういう男だったな」
意識を”七崎悠真”に再調整していく。
「とにかく黄柳院オルガの護衛は、このまま続行する」
「真柄」
「ん?」
「君、黄柳院オルガをけっこう気に入ってるだろ?」
「ああ……悪い娘じゃない。あれは、幸せになっていい娘だ」
「ふん、正直者め」
▽
そろそろ去ろうとソファから腰を上げかけた時だった。
頭をかきつつの逡巡の末、久住が尋ねた。
「あー……そういえば、あの放送のことだがな? 黄柳院オルガとつき合うと言っていたね?」
「といっても、かりそめの関係だ。恋人同士という設定にすれば、常にオルガの傍にいても違和感が緩和できるしな」
「うん……そう、だな」
「ん? まさか、嫉妬してくれているのか?」
「ふっ……かもな」
(今のが本音なら、嬉しいが……)
久住が心配そうな顔をする。
「それと、その……七崎悠真は一応、黄柳院オルガと同い年の少年なわけだが……もし、だぞ? もし君と、一線を超えるようなことがあった場合……年齢差を考えると……うぅむ……このケースだと、倫理的には……どうなんだろうな?」
(かりそめの関係だと、伝えたはずだが……)
「安心しろ。その件については心配無用だ。それより久住、報酬の件なんだが……」
「ああ、そうか」
タブレット型端末で報酬情報を呼び出し、久住が悠真に提示する。
「この金額でどうだ?」
悠真は黙ってディスプレイを見つめた。
「どうした? この金額では、不服か……? 上に掛け合って、一応額の上乗せは可能だが……」
「他の報酬を希望したい」
「他の報酬? まあ、よほど無茶な要望でなければ申請はしてみるけど……」
「一席」
「一席?」
「時間の都合をつけられる時でいい。俺に一席、久住彩月との食事の席を設けてくれないか?」
「へ? そ、そんな報酬でいいのか? いや、それだったら……作れなくは、ないが……」
「では、それで頼む」
「だが、本当にいいのかい? 正直なところ……私からしても、提示した金額はけっこうな額だが……」
「どこぞの無免許医師とまではいかないが、あいにく金には困っていない。それに……久住彩月と食事に行く権利は、金では買えないからな」
「ん……まあ、君がそう言うのなら……」
「決まりだな。時間はそっちの都合にあわせる。調整は、適宜」
「わかった。ふっ……相変わらず君は変な男だな。わたしに、その金額以上の価値があるか?」
「あるからこそ、こっちの報酬を俺は提示した。それじゃあ、その……楽しみにしているぞ、久住」
「ああ」
少し下心を出し過ぎただろうかと自戒しながら、悠真は学園長室をあとにした。