2.真柄弦十郎
真柄弦十郎が七崎悠真として第一殻識学園へ転入した日から、時は少し遡る――
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真柄弦十郎にとって、食後の缶コーヒーはささやかな楽しみだ。
水出し、ドリップ、インスタント。どれも好きだが、不思議と缶コーヒーの味が落ち着くのである。
午前の穏やかなひと時。
開け放った窓から入ってくる春の風が心地いい。わたあめみたいな雲が連なり、風で緩慢に押し流されている。
ゆったりとアームチェアに腰掛けて缶コーヒーの味を楽しんでいると、固定電話が鳴った。今日のこの時間は事務所に人がいないので、真柄が受話器を取る。
「はい、マガラワークスです」
受話器の向こう側に躊躇いの気配があった。真柄は相手の言葉を待つ。
『真柄か?』
硬質で艶のある声。
「久住?」
忘れるはずもない声だった。この声を聞いたのは、約七年ぶりか。
『ふっ、声だけでわかってくれたか。少し、嬉しかったぞ』
相手の声が帯びていた緊張が和らぎ、安堵が生まれる。
「おまえの声を忘れるわけがない。久しぶりだな、元気でやっているのか?」
『ん? ああ……まあな。それなりには、元気でやっているつもりだ』
それなりに元気でやっているつもり――元気でやっていない人間の言い方だ。
「今は確か、あの超能力者たちを管理する教育機関のトップだったか」
『知っていたのか』
「おまえのことを個人的に調べた時期があった。すまない」
『ふっ、かまわんさ。その……まだわたしの存在を覚えていてくれたんだなと、そう思ってな』
わずかの間、真柄は過去の泉に身を浸した。
「俺が久住彩月を忘れるわけがないだろう」
しばし久住は黙した。
『……そう、か』
「しかしあの久住が今やあの超有名学園の学園長とはな。大出世じゃないか」
『大出世か……ま、よいことばかりでもないがね』
浮かない声。疲労を含んだ声だった。
「どうした? 何か問題ごとでも?」
『うん……まあ、な』
真柄は察した。
「つまり、俺の力を借りたいわけか。今のおまえがここにかけてきたということは、身内の使えない案件だな?」
苦笑の気配。
『昔から察しのいいやつだ、君は』
手元のホログラフィックボードを使い、久住が学園長長を務める”第一殻識学園”を検索しながら、真柄は話を続けた。
「本業の方じゃ、探偵まがいの仕事もやるからな」
『探偵まがいというと、いなくなった猫探しとかか?』
「最近だともっと聞き慣れないペットも多い。まあ必要とされるのは、推理力よりも調査力だが」
マガラワークスは幅広い代行サービスを行う社員数名の小さな会社である。
いわゆる便利屋だ。
『先ほど、本業と言ったな? つまり……副業もしていると考えていいのか?』
そして、便利屋の看板はあくまで表の顔にすぎない。
「そっちは今じゃほぼ引退してるみたいなものだが……一応はな」
受話器の向こうの空気が変わる。
『副業の方へ、今、仕事の依頼はできるか?』
「なるほど。プライベートの番号にかけてこなかったのは、仕事の依頼だったから、と」
昔の久住に教えた番号は、今も変えていなかった。
『わたしなりの礼儀のつもりさ』
昔話に花を咲かせるのではなく、目的は仕事の依頼。だからわざわざ事務所の番号を利用したらしい。変なところで律儀なのは変わっていなかった。
盗聴の心配は――大丈夫だろう。本人の慎重な性格もあるが、今の立場の彼女がそこを怠るとは思えない。
『かつて伝説の傭兵として恐れられた”ベルゼビュート”に、仕事を依頼したい』
久住が、硬質な声で言った。硬質さを作っても人間味を消し切れないのは、昔のままだった。
あの時代は一度も久住とコンタクトを取っていない。つまりあの時代のことは調べて知ったのだろう。
真柄は背もたれに深く身体を沈めた。
「悪いが、そういうことなら受けかねる」
やや沈黙があって、久住が口を開いた。
『君を捨てておいて今さら仕事の依頼だなんて……ふふ……虫がよすぎるものな』
寂しそうな声だった。最初から答えを予測していたような、そんなニュアンスも交じっていた。
『わかった、この依頼は他をあたる。今回の件は忘れてくれ。急に電話して悪かったな、真が――』
「勘違いするなよ、久住」
『何?』
「ベルゼビュートとしては受けかねる、という意味だ」
『ど、どういう意味だ?』
「真柄弦十郎個人としてなら、受けてもいいという意味さ。わかるだろ? 俺は身内の頼みだけは、仕事にしない」
『君を捨てた女のことを……君は、まだ身内と呼んでくれるのか』
「馬鹿を言え。おまえの将来を考えれば、久住彩月はあんなところで燻っていていい人間じゃなかった。”四〇機関”に入る選択は間違ってなかったさ。事実、おまえは今ヨンマルが設えた学園の長の座についている。優秀でなければ、その椅子には座れていないはずだ」
『……すまん。いつもわたしの身勝手で、君には嫌な思いを――』
「していないから気にするな。それで、頼みごとの内容は?」
『あ、ああ……できれば、学園まで足を運んでもらえないか? 迎える手配は、こちらでしておく』
「わかった」
時間や場所等の打ち合わせを終えると、真柄は受話器を置き、さっそく出かける準備に取りかかった。