22.ゆめまぼろし
弦から”幻”へ。
静動の強烈な落差によって生じる意識の空隙。
点ほどのその空隙に穿つ、超速で再装填された十弦の一撃。
この技について説明した時、蠅王の剣を作った鍛冶師はこう言った。
『その技も私が名づけていいですか? ジャパンカルチャーのヒッサツワザのネーミング、私、なかなか好きです』
彼はその技に耐えうる剣を作った。その資格はあるだろう。呼び名があると便利なケースもあるが、真柄にとって技の名前など些末事とも言える。そもそもどの技の名も、自分でつけたものではない。
『そうだ。こういうのはどうでしょう? 名づけて――』
”夢幻の太刀”。
相手が認識する現実としては存在しない一撃。
まさに、夢幻。
夢幻の刃はその存在を認められることなく、敵を斬り裂く。
この技は十の糸を一本の弦として束ね、存在感を強烈なまでに高めた時、初めてその落差を生み出すことができる。天野虫然との戦いで使用した決め手も、この技の下位互換と言える。元を辿ればあれも”夢幻の太刀”に行き着く。
身体から血を噴き上げる霧間は微笑むと、そのまま真柄の方へ倒れ込んできた。
「おまえの、勝ちだ」
想いを遂げたような声。
倒れ込んできた霧間の身体を、受けとめる。霧間は抱き止められるような形になった。
「”剛発”をこれから使うとおまえは自ら明かした……一方、俺は”夢幻の太刀”の存在を明らかにしなかった。その差が、勝負を分けただけだ」
「”夢幻の太刀”、か……原理はわからないが、まさに夢幻を見たような気分だったよ。見事としか、今は言えないな……」
見事の言葉は、そのまま返したいくらいだった。
一瞬とはいえ”剛発”の右手刀を受け止めた影響で、真柄の両腕には重く鈍い痛みが走り続けていた。剣を握っていた腕にまで、威力が通ってきたのだ。
形としては、受け流したのに近い。
受けとめたのは一時的に過ぎなかった。であるにもかかわらず、腕へのダメージは深刻と言えた。
もし、まともに受けていたら――背筋に薄ら寒い感覚が走る。敵に対して寒気を感じるなどいつ以来だろうか、と真柄は思った。
「ふふ、そんなことはないさ……おまえは、おれを上回った。それに……おれが最強を感じるためには”発”を宣言する必要があった。だが、おまえまでその決まりごとに合わせる必要はない……」
真柄には”最強”それ自体へのこだわりはない。どんな手を使ってでも目的を達成する。霧間のような誠実さなど、持ち合わせてはいない。
真柄の顔や身体にも、霧間の血が飛び散っていた。しかし、真柄はぬぐおうともしなかった。
「千侍――」
「早く、黄柳院オルガのところへ行け」
言葉を遮り、霧間が促した。
「この奥の廊下を突き当たりまで行ったところの、右手側の部屋にいる」
霧間が目を閉じる。意識を失っているわけではないようだ。どことなく、耳を澄ましているように見える。
「大丈夫だ……眠っているが、あの子はちゃんと無事だ。安心しろ……」
音か、感覚か。
何かでオルガの状態を把握したようだ。
「俺は――」
「おまえの長所であり欠点はな、弦十郎……一度でも心を許したことのある相手には、甘さが出てしまうことだ。昔から、おまえはそうだった……」
「…………」
「万が一にも、おれの傷の処置をしようなどと考えるなよ……? 昔のよしみで救おうなどと、考えるな……」
真柄の肩に頭をあずけるような体勢のまま、霧間が双眸を細める。そして、告白した。
「不治の病なんだ」
「……病、か」
「あと数年の命だろうと聞いた。ここで助かっても……いずれ、そう遠くないうちにおれは死ぬ」
「…………」
「だが、満足だよ……真柄弦十郎という最強に、こうして挑戦することができた。最後のわがままを、押し通せた……」
「オルガを巻き込んだのは、失敗だったな」
「ふふ……だが、あの子を巻き込まなければ、おまえはおれと本気で死合わなかったはずだ。おまえは、理由のない殺しをしないからな……」
「それは――」
「まあ、あの子には悪いことをしたよ……とはいえ、言い訳をするつもりはない。おれは悪になった……エゴのかたまりになることを、選んだ。おれは、おれの悪を受け入れる」
「…………」
胸の中で薄く瞼を開く霧間は、どこか遠くへ思いを馳せているように見えた。
「弦十郎……最後に一つだけ、頼みがある……おれのことは、このまま放っておいてくれないか。このまま、おれは――」
霧間の声には”終わり”が込められていた。彼は己に課した誠実さを裏切れない。敗北を認めた以上、その誠実さを裏切るような真似はしまい。真柄弦十郎だからこそ、それがわかった。
だから、その願いを叶えても危険はないと判断する。
大きな血のかたまりを、霧間が吐き出した。
「ゴ、ふっ――ふ、ふふ……どれだけ最強へ近づこうとも、皆等しく不治の病には勝てないらしいな……ただ、おれは……その時が、くる、前に――」
最強へ至る夢”キリシマセンジン”を霧間が始めた理由が、わかったような気もした。
死期を、知ったからか。
己の死を予期した時、捨てたはずの未練が顔を出したのか。
それまで本気で目指したことのなかった”最強”という夢。
あるいは、
「もしかして、おまえは”キリシマセンジン”を始めることで……死ぬ前に極生流の、誰かと――」
再会、したかったのだろうか。
しかしその疑問を真柄が言葉にする前に、霧間は目を閉じてしまった。
今度は意識を失ったらしい。
息はあるが、呼吸は浅い。
体重をあずける霧間を見おろす。
「…………」
ふと思い出す。
ずっと昔、居合い斬りの練習をしている霧間に尋ねたことがあった。
なぜ居合いなのか、と。
『居合いは”守”の刀術だと聞いてな』
『千侍には、もっと合った刀術があるはずだ』
『いや、おれは居合いがいい』
『なぜだ?』
『みんなを守るための剣を、磨きたいのさ』
『守るための、剣……』
『ああ。守りの性質を持つ居合いは、おれの意志そのものだ』
あの日の穏やかな日差しを、今でも覚えている。
真柄は膝をつき、霧間の身体をゆっくりと床に横たえた。
「結局……おまえは最後まで、その意志を捨てきれなかったらしいな……」
霧間千侍の表情は穏やかだった。
あの時の日差しのように。
「所詮、俺もエゴのかたまりだ。そしておれも、おれの悪を受け入れて生きている。おまえと、大して変わらんさ」
立ち上がり、先へ足を向ける。
真柄弦十郎の脳裏には、あの頃の霧間千侍の姿が浮かんでいた。
「さようなら、千侍」
□
『弦十郎、おれに話があるって?』
『大した話じゃないんだが』
『改まってどうしたんだよ。別に、どんな話でもいいさ。ほら、なんでも言ってみろ』
『……なぜおまえは、みんなのまとめ役をずっと引き受けている?』
『んー……他に誰もいないからってのは、答えになってないか?』
『今の極生流の中では、間違いなくおまえが最強だ。少なくとも俺は思っている』
『はは、そいつは光栄な見立てだ』
『だが今のおまえは、皆の世話を焼くのに日々の容量を割きすぎている。食事の準備に片づけ、洗濯、事務的な処理……他にも様々なものを、引き受けすぎてしまっている』
『といっても、頼めば手伝ってくれるやつもいるし、おまえだって手の空いてる時は率先して手伝ってくれてるだろ?』
『このままだと、他の者に追い抜かれるぞ』
『……かもな』
『俺から見て、おまえは才能の桁が違う。日々の大半を鍛錬に注ぎ込めば、誰よりも最強でい続けられるはずだ』
『最強の座なんてものは、今のおれにとっては二の次だよ』
『極生流なのに、か?』
『まあ、もちろんまったく興味がないってわけじゃない。ただ……天秤にかけると、今は少しだけ”最強”の方が軽いんだろうな』
『このコミュニティに、それほどの価値があるか?』
『……好きなんだよ』
『好き?』
『あいつらやおまえが、おれは単純に好きなんだ。おれは自分が強くなることよりも、おまえたちとの生活をこのまま良好に維持したい。だから……最強の座なんてのは、二の次でいいのさ』
『変わってるな』
『おまえだって変わってるさ、弦十郎。極生流にいるのに、おまえは誰よりも強くなろうという気持ちが他のやつより弱い。それなのに……おまえはこのコミュニティの、誰よりも――、…………』
『千侍?』
『いや、なんでもない』
『……………』
『いずれにせよおれが本気で最強を目指すとしたら……それは、この生活を失った時なのかもな』
『この生活が、いつまでも続くと思うか?』
『続けられるよう、必死に努力するさ』
『……そうか』
『ああ』
『……俺も、嫌いではない』
『ん?』
『霧間千侍という人間の持つ誠実さには、好意的な感情を覚えている。だから……やはり変わり者なんだろうな、千侍は』
『ええっと……それは、褒めてくれてるんだよな?』
『一応、そのつもりだが』
『そうか……なら、できる限りこれからも誠実であろうとしてみるかな――なんてなっ。ふっ……それにしても……おまえも難儀なやつだな、弦十郎』
『おまえほどじゃないさ』




