木の上の猫
無機質な日常を過ごしていた。
ただ同じ毎日を過ごしているだけだった。
華やかな日常など縁の無い日々だった。
特にそれが不満では無かった。
ただ、退屈な毎日の当たり前を、
ただ、流れるように過ごしている。
仕事が終わり、いつも通り俺は家路についていた。いつも通りの見慣れた景色には見飽きる事すら通り過ぎて目に入らない。ただ道と呼ばれる道を行き、どこと言うわけもない辺りを目に映し、しかしそれは脳で認識も為ず、ただ何を考えるでも無く、淡々と家路につくのである。
この時刻、この辺りに人影も無く、ただただ静まり返るいつもの空間をいつもの歩調で歩く。朝、仕事に向かう時とは違い、帰りは人気の無い道を選んでいる。仕事の疲れを癒しながら、ただ静かに家路につきたいからだ。なるべく人のいない場所を好むのは、独りで思案にふけり、ただそれを邪魔されたくはないからだが、何より俺は人が嫌いだった。愛想が無いとよく怒られもするが、上っ面だけの人間感情を作る事にも疲れた後だ。人目を避ける為にただ何も無い地面を眺めているより、人目を気にせず顔を上げて前を見て歩きたいからだ。
見慣れた景色は日々刻々と流れる季節の移ろいを感じさせ、それは自分が生きていると言う事を実感させてくれる。春になれば花が咲き、夏になれば緑に溢れ、秋になれば日も短くなり、冬になれば木枯らしが吹く。無味乾燥な毎日にささやかな変化を楽しめる。仕事帰りの疲れた頭を癒すには良い憩いの時間でもあった。
道端にくたびれた枯れ木が有る。それ以上朽ちるでも無く、年中その枝に葉を纏わないから枯れているのだろう。他に木は無く、それ一本だけがひっそりと佇むかのように立っている。自然に自生した木ならば周りに木が有っても不思議では無いだろう。植えられた木なのかも知れない。誰か、子供たちがその木で遊んでいるのだろうか。その木の周りには草が生い茂っていなかった。何年も、毎日のようにここを通っているが、その木に近付いている人はもちろん、この辺りで人を見かけた事は無い。
ある日の暮れ方の事である。
見慣れた景色には変化が有ると、それは一層目を引くものだ。その日は木の上に猫が一匹座っていた。別に俺は愛玩動物を愛でる趣味は無い。だが、その猫は俺が通り過ぎるのをじっと見つめたまま微動だにしない。警戒しているのだろう。安心しろ、お前に興味など無い。
次の日、やはりまた猫が木の上にいる。同じ枝の上に同じ格好で、泣きもせずただじっと俺の方を見ている。視線を感じながら歩くのは落ち着かない。少々忌忌しくも思ったが、猫を相手にした所で虚しいだけだろう。
また次の日、その日は流石にもう猫はいなかった。少しホッとした。しかし何だろうか、猫が座っていた枝とは反対側の地面に何か丸い物が落ちていた。年中葉も無く実も成さぬ枯れた木から、何かが落ちる事と言うは無いだろう。恐らく子供が遊んでいて何かを忘れて行ったのだろうな。
その翌日、今度は何かが腐ったような嫌な臭いを漂わせていた。どうやら木の下に有る丸い物は生ゴミのようだ。誰かこの辺りを歩きながら食べ物でも落としたのだろう。しかしこの臭いは気分を害する。その後二、三日、俺はその道を通らなかった。
そんな事をすっかり忘れて考え事をしながら歩いていると、いつも通りあの木の道へ来てしまった。まだ臭いだろうか。そう思ったが、臭いは無かった。木の下に落ちている生ゴミは白く変色して形を変えていた。近付くにつれ、それは生ゴミでは無い事を悟った。俺は目が離せなくなり、気がつけば木の下まで来ていた。間違いない。これは骨だ。拳よりも一回り小さいそれが頭蓋である事は明らかだった。つい一週間ほど前に木の上にいた猫の頭蓋であったのだ。
俺は気味が悪くなって、とっととこの場から立ち去ろうとした。しかし、その場に背を向けて立ち去ろうと歩き始めるや否や、後ろから俺の服が小さく二回引っ張られた事に気付き、俺は振り返ってしまった。
これは一体何だろうか。それは木である。しかしそれは口である。木に口が有り、俺の服を噛んでた。
「ちょうだい…」
噛まれた俺の服は放され、その口はそう宣った。俺は声が出なかった。心臓が痛いほど高鳴り、高揚した体は力が抜けていくのが解った。本能で逃げようと思ったが、足が何かにくっついている。足元を見ると、俺の靴が木の根と、まるで融合するかのようにくっついていた。
「ぅわあああぁ!」
俺は後ろへ転がった。木の根と融合した靴は脱げ、その拍子にその木から離れる事が出来た。俺は振り返りもせず、ただその場から逃げたい一心で走った。
家に帰ると顔がびしょびしょに濡れていた。涙も、鼻水も、涎も、垂れ流して走っていたのだろう。その時初めて足の痛みに気付いた。靴も履かずに裸足で逃げ帰ってきたのだ。足の裏はボロボロだった。意味が解らない。こんな事が現実に起こり得るはずが無い。俺は疲れていたのだろうか。俺は幻覚を見るほど何かの病に罹っているのだろうか。その日は何が何だかさっぱり解らないまま、ソファーで寝てしまった。
俺は恐ろしくなって家から出る事も出来なかった。擦り剥けた足が痛くて歩く事も侭成らない。気がつけば仕事を無断で休んでしまい、同僚が家に訪ねてきた。同僚にこんな話をしても信じてもらえないだろうし、俺も精神を病んでいるとは思われたくも無い。
「ああ、すまないな。少しドジをしてね。足を怪我してしまったんだ」
「だったら連絡くらいしてくれても良いだろう」
「申し訳ない。色々とあって…」
「言えない事なのか」
「すまない…」
「わかった。なら俺が適当に理由を考えて伝えておくよ。それより医者に行こう。早く治療した方が良い」
翌日、同僚に連れられて医者に診てもらった。傷が癒えるまでの間は車いすを借りて過ごし、癒えた後は衰えた足のリハビリに通院した。ようやく歩けるようになり、仕事に復帰したのは三週間後だった。
あの日、木の上に座っていた猫が同じ枝に翌日も居たのは、足が融合して離れなかったためだったのだろうか。またその翌日首を遺して消えてきたのは、あの木が猫を喰ったのだろうか。そしてもし、俺があの場から逃げなかったら俺はあの木に食われていたのだろうか。今になって冷静に考えれば、夢だったのかも知れない。しかし、連日俺は同じ場所で居眠りをして歩いていたとは考え難い。俺はあれ以来あの場所に行っていない。俺は住む場所を移り、人気の有る街中のアパートに一室借りて住む事になった。人が多く行き交う賑やかな場所だったが、今の俺にはその存在感が何故だかホッとした。
やがて近くの花屋で働いている女性を見初め、私はその女性と結婚した。俺の生活も随分華やかになったものだ。朝陽の差す窓際にはいつも新鮮な花が飾られ、朝起きれば清々しい笑顔で私を起こしに来る。影のように暗かった俺の人生は光に溢れ、幸せを享受していた。
ただ、数年過ごしていると一つ気になる事があった。彼女は必ず同じ時期になると年に一度、用事があると言っては夕方に家を空ける。俺は特に彼女のプライベートを詮索する趣味は無いし、一つくらい人に言えない秘密も有るだろう。何より、俺は彼女を信じている。
しかし、何年も同じ事が続くと気になってくるもので、ついにはそれを尋ねる事にした。
「あら、初めてねぇ。あなたがそれを気にするなんて」
「ああ、いや言いたくない事なら良いんだ。ただ、毎年の事だからね。俺達も夫婦になって長いし、お互いのイベントは共有し合ってきたじゃないか。だけど、きみは毎年この時期だけは浮かない顔をするものだから…」
「ええ、そうね。忘れられないの。…もし、良かったら、今年はあなたも一緒にいく?」
「いいのか、今更俺が顔を出して。いや、人に会いに行くとは限らないか…」
「そうね、大丈夫よ。一緒に来てくれるなんて嬉しいわ」
彼女の運転で車に乗ると、珍しくいつも無口な彼女が運転をしながら話しかけてきた。妻はあまり自分から話しかける事は無い大人しい女だった。年に一度のイベントに向かう車の中で、彼女もきっと内心では浮かれているのだろう。
「いつも窓際に飾るお花、なんで同じか知ってる?」
「さぁ。きみのお気に入りの花なんだろう。俺には花の事はわからない」
「あなた、夜によく夢で魘されている事が有るの。だから、嫌な事を忘れて安心して眠れるようにって…」
「そうか、ありがとう。いつも俺の気付かない所でそうやって俺を支えてくれる。きみを妻にして本当に良かった。…愛してるよ」
「うふふ、本当?」
「なんだ、俺を疑うのか。俺はずっときみの事を愛しているさ。初めて会った時から、ずっとだ」
「初めて会った………とき」
「そうさ、花屋できみを見かけたあの時から………」
「違うわ」
「ぅわ!何だ、急に…」
車が人気の無い裏路地に入り、突然彼女が車を止めた。それまで話してたいつも通りの優しい声ではなく、辛辣な、怒りの篭っているかのような低い声で…
「降りましょう」
「こんな所なのか?なんだか薄暗い場所だな」
彼女は車から降りると何も言わずに歩いて行った。そこはどこか懐かしく、どこか寂しく、どこか薄気味悪い場所だった。初めて来るはずの場所だが、妙に俺には違和感があった。薄気味悪い中にあって、リラックスしている自分に気付く。
「あなたはいつも考え事をしてた」
俺の先を歩く彼女が振り返って立ち止まった。
「何の事だ」
俺の問いには答えず、俺と歩調を合わせるように、俺の横に並んで俯きながらまた歩き始める。彼女はいつもこうだ。無口で、すこし笑顔で、俯きながら後ろに手を組んで、俺の横を歩く。そして小さな声で囁くように、話すのだ。
「あの時と同じ」
俺は黙って彼女の言葉を聞く。彼女が俺に言葉を求めてきた時だけ俺が返事をする。無口な彼女の話は、話を聞いて欲しいだけで意見を求めていない。ただ、自分が話をしたいだけで、その話を聞いて欲しいだけなのだろう。話しぶりがそう言っているように思えるからだ。
「私は一緒に歩いている。けれども、あなたはひとりで考え事をしている。私はそんなあなたが好きだった。いつしかあなたに気付いて欲しかった…」
そう言って彼女は俺の方を見る。しかし、何の事を言っているのか解らない。返す言葉も思いつかず、頭を掻くだけだった。
暫く歩いていると、一本の木が見えた。どこかで見たような、それは木にしては小さいが既に枯れているようだった。彼女はその木を目指して歩いている。想い出深い木なのだろうか。何かのシンボルなのか、人がここに集まる場所なのか。その木の周りには草が生えていなかった。
俺は妙に寒気を感じた。何故だかはわからないが、俺はこの木を知っている。どこかで見た事が有る。何とも言えないデジャ・ヴュだった。
気がつくと彼女が木の枝に座っていた。
「おいおい、こんな枯れた木に座ったら落ちてしまうぞ。危ないから降りてこい」
「うふふ、優しいのね」
「当たり前だろう。自分の見ている目の前で妻に怪我をさせたくないと思うのは夫として当然だ」
「そう。…私があなたの妻じゃなかったから助けてくれなかったのね」
「そうじゃない。何を言っているんだ。たとえきみじゃなくても助けているさ」
「…本当?」
「ああ、本当だ。だから降りてこい」
「わたし、降りられないの」
「何を言って‥、な、なんだ、その足は…」
彼女の足が無い。いや、彼女の足が木になっている。しかしそんな馬鹿な事は無い。足に似た形の枝が有るのだろう。彼女はきっと俺を驚かそうとしているのだ。きっとこれから俺に何かしてくれるに違いない。
「どうしてあの時私を助けてくれなかったの」
「あの時?いつの事だ」
「私はあなたが好きだった。私はあなたに気付いてほしかった。気付いて欲しくて、この木に登って見たの。あなたが時折この木を見ているから。…でも、この木は恐ろしかった。この木は何も近付かないほど、嫌な感じがしたの。鳥も、虫も、何もこの木に近付かなかった。………それでも!それでも、私は、わたしはあなたに気付いて欲しかったの!」
彼女は木の上で顔を覆い、泣きながらそう叫んだ。一体彼女が何を言っているのか、俺には解らなかった。どうして良いのか解らない。
「お、おい、何の冗談だ。一体これからここで何が有るって言うんだ。いい加減教えてくれないか」
彼女は泣いたまま返事をしてくれない。周りには人がいる様子も無い。何かの演劇にしてはおかしい。彼女が一体なぜここに来て、毎年この時期に一体何をしていると言うのか…。
「本当は来て欲しくなかった。でも、私だと気付いて欲しかった。でも、忘れて欲しかった。…もう、わからないわ!」
「わかった、わかったから。さぁ、降りてくるんだ。もう帰ろ…、ぅう、なんだ?」
俺は泣きじゃくる彼女を降ろそうと木に近寄った時、足に木の根が絡みついてきた。こんな形の木の根とは思っていなかった。
「愛してる?私の事、愛してる?」
彼女は私の方に手を差し伸べてそう言った。俺は動けなかったが、彼女の問いに答えたくて手を伸ばした。
「愛している!きみを。俺はきみを今でもずっと愛している!さぁ、こっちへ来るんだ」
「ああ、私も、私も愛しているわ。これからも、…ずっと・・・」
俺の手が彼女の手に触れた瞬間、それはまるでパンケーキミックスに手を突っ込んだかのような感触で、俺の腕と彼女の腕が溶けるように融合した。驚くのも束の間、気がつけば私の下半身は木の中に埋まっている。
不思議な感覚が伝わってくる。彼女が俺を愛しているという深い感情が俺の胸を包み込むような、安堵感があった。最後に聞いた彼女の言葉が何を意図するのかは容易に想像が出来た。俺は彼女と最後の接吻を交わした。
『ごめんなさい………』
かつて、ひっそりと佇むように立っていた一つの木は、毎年多くの葉をつけ、花を咲かせる。
俺達は今日もそこで貴方を欲している。
芥川龍之介やH.P.ラヴクラフトが好きです。と言えば納得して頂ける内容では無いかと思います。ちょっとしたオマージュの積もりで書いて見ました。
−ある日の暮れ方の事である。
この件は正に羅生門。引用ですね。大好きです。
ただ単なる、どこにでもある日常。所が突然訪れる非現実。ノンフィクションからフィクションへ。正に虚構が現実を破壊する、それがダークファンタジー、モダンホラーの新骨頂だ!と、勝手に思っている。
ま、考え方は人夫々…。
ものの名称は一切使わず、登場する人物も名前は無し。
そう言うシンプルな構造で、物語だけを見せるお噺が好きです。
………もっとも、メインで書いている作品はハイファンタジー&エピックファンタジーというこてこての異世界幻想譚だったりするんですが(笑)
機会があればこの場でも発表したいと思います。