第一話 始まりのカンタービレ (4)
中に入ると、意外と広さがあった。
何畳くらいあるのかは分からないが、一般的な音楽室くらいの広さはあるはずだ。床や壁の染み付いているような汚れは目立ったけれど。
学校用の机と椅子が6組ほどおかれていたが、どれもこれも、使おうとは思わないが捨てるにはもったいない、なんて風格をしている。
そんな中で存在する、大きなグランドピアノもまた、上手いことここの空間に馴染んでいた。光沢は失われており、まるで音楽室のピアノのお古みたいに見える。
「はい、どうぞ」
2人で突っ立ってるおれたちに、ラガー先生はピアノの前に二脚の椅子を用意してくれた。腰掛けると、ピアノの上にあるカップに手を伸ばし、おれたちにすすめる。
ありがたく受け取って飲んだそれは、紅茶の味がした。
「元は倉庫だったところを無理矢理部室にしたからね。学校側の管理も甘いから、こんなことは朝飯前」
先生はピアノの椅子に腰掛けおれたちと対峙すると、もたれかかるかのように腕をピアノにのせ体重を預けていた。
「素敵な空間ですね」
「おんぼろでよければいつでも大歓迎」
へりくだって言っている割には、誇りを感じているように思えた。おれからしたらただのボロ屋敷のような空間も、ここの人たちとってはきっと特別な居場所なんだろう。
先ほどの女の子3人組は、ねこちゃんと呼ばれていた子に猫衣装を纏わせて写真を撮っていた。半泣きになりながらも、何気にポーズを決めている。
「まぁ、簡単に合唱部の説明からさせてもらうよ。部員は10人。あ、2人は幽霊部員だけどね。
活動時間はとりあえず毎日。今日みたいに人数が集まらなかったら無しだけど。まぁでも、部室に来たら誰かしらいると思うから。
俺はいたりいなかったりだけど、基本部長がまとめてくれるからそこらへんは任せてる。
自由に楽しくがモットー。変人の集まりだけど、底を抜けばみんないい奴ばかりだよ」
どう考えても信用に欠ける言葉だが、まぁどちらにしろおれには関係ないからいいとしよう。
あぁ、それと。と言いかけると、奥で遊んでいる3人組を手招きでこちらへ呼び寄せた。
「もーなにー?今取り込み中やでー」
不服そうに関西弁で話す女の子はカメラを手に持ち、その隣の子は衣装の変えを備えて横にスタンバっている。もう1人は、着ぐるみを着せられ猫ヒゲと耳をつけられていた。
「まぁまぁ。新入部員だよ」
「え?」
3人が、驚いたようにこちらを見た。隣で、彼女が優しく微笑んでお辞儀をする。
「綺麗な方ですねぇ」
少しハスキーのかかった可愛らしい声で、衣装を持つ女の子は独り言のように呟いた。
彼女とはいい友達になれそうだ。
「とりあえず、先に自己紹介だ。ほれ、じゃあありすから」
「え、ああ、初めまして。中2の黒淵ありすです。よろしくお願いします」
落ち着いた様子で淡々と、先ほどの彼女は自己紹介を始めた。そして、じゃあ次朋ちゃんね、と隣の子の肩に手を置く。
「んー、朋香!」
高めの声ではっきりそう言い放った後。てん、てん、てん……。と、一瞬の静寂。
「え?」
謎の空間に思わず声がついて出た。え、朋香って、それだけ?
「やーかーらー朋香ぁ!高2!」
あ、ああ、そうか……。ん、高2ということは、おれたちと同い年、か。まぁクラスからあまり出ないおれには全く覚えがないのだが。
それにしても、ざっくらばんな自己紹介だ。
じゃあ次、ねこちゃん。とラガー先生が促せば、奇妙な格好のまま彼女も挨拶の言葉を紡いだ。
「あ、え、えと、猫田さくら、です……。入部したばかりの、中1ですっ、よろしくお願いします」
おどおどと慌てるようにそう自己紹介を終えると、深々と頭を下げる。すると、かたん、と猫耳が落ちた。ああ!とまたもや慌てると、大事そうにそれをてにとる。
実は、案外満更でもないのかもしれない。
「とりあえず、今いる3人はこんな感じだ。あと5人いるんだけど、まぁあと2人はそのうちくると思うから。あ、君たちからも自己紹介、してもらえる?」
「あ、はい。えと……」
彼女はそう言いかけると、す、と立ち上がった。
「水戸美里、と申します。今日からここの学校に通うことになりました。これからよろしくお願いします」
爽やかに、しかし美しく、彼女はまた微笑んだ。おおお、と天使の笑みに釘付けなのは、前の3人も同じようである。
す、と腰を下ろすとこちらに顔を向け、今度は明日無くん。とでもいうように、また優しい笑みを浮かべる。なぜか、反射的に話し始めているおれがいた。
「あ、時流明日無です。高校2年なんで、朋香さんと同い年かな……。よろしくお願いします」
あ、名前。名乗ることの嫌悪感を一瞬だけ忘れていた。と、突如襲ってくるこの不安。まぁいい。驚かれるのは日常茶飯事のことなのだから。なんて思っていると。
「じゃあ、なんて呼んだらいいですか?」
誰1人、驚いたり不思議そうな表情を浮かべるでもなく、ただ自然に、ありすちゃん(でいいのかな)がおれたち2人に向かって言葉を投げた。
横にいる彼女は、なんでもいいよ、好きに呼んでとはにかむ。
それは、とても自然な流れで。
この空間でおれは、はじめて"普通の人間"として認識された。何その名前。と疑われる事はなく。変な名前、と心中であざ笑われるわけでなく。
初めて、おれを1人の普通の人間だと認めてくれた。異質なものを見るような目は、どこにもなかった。劣等感と嫌悪感をない交ぜにしたおれの名前が、初めて。
大げさかもしれない。たかだか名前のことで、なんて思われるかもしれない。でも、でもそれでも、俺はうれしかった。
「じゃあ、ミトちゃんはどう?」
「ミトちゃん!素敵ね、じゃあ、えっと……」
「あ、私はありすでいいですよ」
「朋香も朋香でええよー!」
「わ、わたしも……」
「ねこちゃんはねこちゃん以外の異論は認めないよ?」
「ひ、ひぃぃ……!」
うふふ、と思わず零れるミトちゃんの笑み。
……ラガー先生の言うこと、案外本当なのかもしれない。愛おしそうに、ゆるむ頬と優しい目で、みんなをながめている。
「ねぇ」
「ん?」
「おれも……入部していいかな?」
揺らぐ意思は、どこにもなかった。あるのはただ、陽だまりのような優しさと温もり。
みんなは大きく頷くと、優しい笑みで微笑んだ。




