第一話 始まりのカンタービレ (2)
いやまぁ、意識が遠のいたというのは言い過ぎというか言葉の比喩というか。
だが、今大切な事はそんなことではない。
時は過ぎ、放課後。
彼女の隣という素晴らしい席に変わったのはいいものの、あの美貌だ。その上転校生ときたら、囲まれないはずがない。出来る人だかりの中に入れるはずもなく、彼女との接点を結局持てないままでいた。
しかし、だ。彼女は今、隣の席に座ってがさごそと机の中をあさっている。なんでも忘れ物をしたらしく、教室に戻ってきたらしい。
これほど、そうこれほど、俺は日直の仕事である日誌の作成に感謝したことはなかった。
あ、あった!と声をあげる方に視線を向ければ、向けられる天使の微笑み。ああ、ふつくしい……。
「あ、そうえば名前、聞いてなかったよね?」
机の中から取り出した忘れ物をかばんにしまいながら、彼女は言った。ああ、そうえばそうだ。彼女は俺の名前を知らない。
「ああ、そうだね。俺は明日無。時流明日無」
名乗るのはあまり好きじゃない。自分の名前を口に出したところで、みんな悪気はないのだろうがやはり驚いたような表情を浮かべたり、不思議そうな顔をする。その不快感は、いつまでたっても拭えることはなかった。だから俺は先に自分から口に出して認めてしまう。少しだけだが、不快感は軽減される。
彼女も若干驚いた様子だったが、すぐによろしくねと微笑んでくれた。
そして彼女は次に、こんなことを口にする。
「ねぇ、ここってさ、合唱部ってある?」
「合唱部?」
「うん、私ね、前の学校で合唱部に入ってたの。もしここにも合唱部があるならまた入部したいなぁと思って」
合唱部、いや、あることはある。けど……。
「いや、あるっちゃあるけど……」
「え!?あるの!?」
そう口にした途端、彼女は水から跳ね上がった魚のような勢いでおれに食いつく。夕暮れの日差しが、瞳にかかって輝いているように見えた。
「え、いやでも……」
「ね、どこで活動してるか知ってる?良かったら連れてってくれないかな?」
彼女はそう言うと、生き生きとした目でおれにといかけた。こんな美少女に間近まで追いやられて、誰がノーと言えるだろう。否、答えはイエスだ。
「わ、わかった、案内はする!でも、ほんとにいいのか?」
「何が?」
きょとんとした表情で、彼女は少しだけ首を傾げた。長い髪の毛がはらりと揺れる。
「あ、いや……なんていうか、うちの合唱部はあんまいい噂聞かないからさ」
「そうなの?」
なんだか申し上げぬくいので控えめにそう言う。こんな時に頭をかくのはおれの癖だな。
しかし、彼女の表情は何が変わるでもなく、それがどうしたの?とでも言うように、不思議そうな表情を浮かべているだけだった。
「いや、まぁ、わかった、連れてくよ」
意思の変わらなさそうな様子を悟り、俺は書き終わった日誌を閉じて椅子から立ち上がった。
わぁ、ありがとう!と嬉しそうな笑顔でついてくる彼女にこちらも笑みがこぼれる。
俺たち二人は教室を後にした。




