第九話 「私は、疫病神なのよ」
勲弥と吉川は、近くにあった古びた小さい喫茶店に入った。
時間が時間だけに、客は自分たちだけだった。果たして自分たちは今日何人目の客なのだろう、と要らぬ想像をしてしまうくらいに、賑やかさとはかけ離れた店だった。
隅っこの席に座って、注文を取りに来た店主と思しき男にコーヒーを注文する。
無愛想な男がコーヒーを二杯運んできた後で、カウンターの奥で新聞を広げ始める。それを確認してから、吉川は話を始めた。
「私は、人間を不幸に出来るのよ。意図的に」
いきなり、とんでもないことを言い始めた。
意図的に、人間を不幸に出来る。
それが具体的にどういう意味を持つのか、すぐには分からなかった。
だが、今日勲弥の身に起きた事象を考えれば、ピンときた。
吉川に手を握られた直後、トラックが突っ込んできたという事実を考えれば。
彼女の力の本質が、見えてこようというものだ。
「具体的には……私は、触れた人間から『運』を吸い取れる、というべきなのかしら。私も詳しく理解しているわけではないのだけれど、きっとそういうものなのだと思っているわ」
「『運』を、吸い取る」
吉川は頷いた。
「『運』というものも、実は複雑な概念で、定義が難しいところなのだけれど。とりあえず、『運』が足りない人間は酷い目に遭うし、『運』を多く持つ人間は良い目に遭う。そういうものだと理解しておいて頂戴」
人間は日常的に『運』という言葉を使うが、吉川の中においては若干異なるものであるらしい。
『運』は、いわばエネルギーのようなもので、量が存在する。
スカラー量のようなもの、らしい。
『運』の量は増減する。それはどの人間にも、いつでも、起こっていることだ。『運』の量が多い日もあれば、少ない日もある。人間生きていれば、幸運な時も不運な時もあろう。それはつまり、その人間が持つ『運』の量の増減によるものだということだ。
「私はね、人が持っている『運』の量が見えるの」
「見える、っていうと……?」
「『灯火』がね、見えるのよ。人間の胸の辺りに。その『灯火』は、大きかったり小さかったりしていて、つまりその人の持つ『運』を表しているのね、きっと。
たまに、物凄くツキまくっている人がいるでしょう。そういう人の『灯火』はとても大きくて勢いがあるわ。逆にツイてない人の『灯火』は小さくて、儚げなのよ」
各務君の『灯火』は普通ね、と吉川は無表情で言った。
すこぶる幸運でも不運でもない状態、ということでいいのだろう。
しかし、人間の運の状態が見えるというのは、特異な能力だ。
「なあ、『灯火』が消えるとどうなるんだ?」
「死ぬわ」
あくまで、無表情。
ひたすら、無感動。
吉川は淡々と、言う。
「『灯火』が消えた人間は、完全に『運』が尽きた状態。こうなってしまっては、もうどうしようもない。近かれ遠かれ、その人間は死ぬ。そういう運命になってしまうの」
勲弥は息を呑んだ。
つまり、吉川天満は、人の死を予見できるということではないのか。
思わず、胸を押さえる。
今、自分の胸にも『灯火』があって、それが消えれば、死ぬ。
「ねえ、各務君。これで分かったでしょう。私に関わった人間が次々不幸になる理由が。
私が『灯火』を……『運』を奪い取っていたからよ。そして今日、各務君にも同じことをした。その結果、各務君の身にも不幸が降りかかったはずよね?」
勲弥は思い出す。突然歩道に突っ込んできたトラックのことを。
冗談でもなんでもなく、本当に死ぬかと思ったのだ。幸い、怪我もしなかったけれど。
不幸中の幸い、だ。
「今のところ、死なないように調節はしているけれど……その気になれば、殺せるでしょうね」
『灯火』が消えるまで、『運』を奪い続ければいい。
それだけで、人が一人死ぬのだ。
しかも、証拠が残らない。完全犯罪目白押しではないか。
寒気がした。
吉川天満が持つ能力は、勲弥の想像を大きく超えて、恐るべきものだった。
何故概念省は、今の今までこれほどの能力を持つ存在を放置しておいたのだろうか。何故彼女の力に気づかなかったのか。
……僕や一妃なんて、可愛いもんだぜ。これじゃまるでチートだ。
触れるだけで人を殺せる。中学生の妄想だってもう少し凝った能力を考えるだろうに。
勲弥は吉川の顔を見る。
その表情から、彼女の心情を読み取ることは出来ない。
今、吉川は何を考え、何を思っているのだろう。
「私は、疫病神なのよ」
吉川は少し俯く。長めの前髪は、彼女の目を覆い隠してしまう。
「人間を不幸にしてしまうから。だから私は、疫病神なの」
「ちょ、ちょっと待てよ。おかしくないか」
勲弥は頭の中で思考を整理する。
吉川天満は、人間の『運』の量を視認し、奪い取る能力を持つ。
『運』を奪い取られた人間は不幸になる。
だから吉川天満は、人間を不幸にする。
論理的に矛盾はない。
だが勲弥は違和感を得ている。
「お前は自分を疫病神だと言う。『私に関わると不幸になる』と。けど人間を不幸にするっていうのは、つまりお前の能力に、お前の意図によるものじゃないか。
吉川、お前は自分に関わって欲しくないから、警告の意味で僕に能力を使ったよな。けど、それじゃおかしいんだ。本末転倒なんだ。誰かを不幸にしたくないのに不幸にしている、という矛盾があるんだよ」
言いながら、勲弥の頭の中で思考が整頓されていく。
「なあ吉川、それだけじゃないんだろう。お前が持つ能力は、人を不幸にできる。けど、それだけじゃないんだよな。他にあるんだよな、お前に関わった人間を不幸にしてしまう、何かが。だからお前は人を遠ざける。拒絶する。孤立する」
一息。
「吉川、お前は言ったな。『私は死なないから』って。それと関係があるんじゃないのか」
未だ明かされていない謎。
それは昨夜、吉川が言い放った『私は死なないから』という言葉の意味だ。
ここで、その言葉が繋がってくる。論理的根拠はないが、直感的に勲弥はそう感じていた。
「どうなんだ、吉川」
「……驚いたわ、各務君。意外と、賢いのね」
本気で驚いている様子の吉川。
……えっ、僕って馬鹿だと思われてたのか?
若干、複雑な気持ちになる。
成績が悪いのは揺ぎ無い事実だが。
「各務君の言うとおりよ。触れた相手を不幸にする……それだけの力ならば、私はここまで孤独を求めなかったでしょうね。私の力は、他人を不幸にするだけでなく、私に幸運を与えてもくれるのよ」
「幸運を与えてくれる? それは、どういう……」
「各務君。今から十二年前に起きた、飛行機墜落事故を覚えている?」
「墜落事故? ああ、そういえばニュースとかで見たな……」
かなり大規模な事故で、乗客も乗務員も殆どが亡くなったと聞いている。
そう言えば、生存者が一人だけ存在したという話も聞いたことがあった。
「まさか」
「そう、そのまさか。その事故でただ一人生き残ったのが、私よ。家族は皆死んでしまったけれど。
私は……私だけは運よく生き残ってしまったわ」
生き残ったということ。
それは幸運なことなのだろうが、しかし吉川にとってはどうなのだろう。
一人だけ生き残り。
独りぼっちになってしまった彼女。
「……それから私は、親戚に引き取られたわ。そこそこ年のいった夫婦だったんだけど、子供が出来なくて悩んでいたそうで、私のことを大層可愛がってくれたものよ。
でもね、強盗から私を庇って死んじゃった」
「…………っ!?」
今から十五年前。
押し入ってきた強盗が夫婦を殺害。
夫婦の養子である娘だけが、運よく生き延びた――そういう事件だと。
吉川はまるで他人事のように、事件の詳細を教えてくれた。
「そんな曰くつきの女の子、誰も引き取りたがらないわよね。私は親戚を盥回しにされて、今に至るのよ」
分かるかしら、と吉川は問いかけてくる。
「私は、不幸中の幸いをいつも得ることが出来る。奇跡とでも言うべきラッキーが私の身には起こる。
でも私だけなのよ。いつだって幸運なのは私だけで、いつだって周りの人間は私の奇跡の犠牲になる」
誰かが幸せになる陰で、誰かが不幸になっている。
吉川が奇跡を得た裏で、誰かが犠牲になっている。
「だから私は死なないのよ。これまでに色々な不運が私の身に降りかかったけれど、何らかの形で私は助かっているの。
トラックに轢かれそうになったと思ったら、見知らぬ男の人が私を突き飛ばして助けてくれたわ。私は擦り傷を作った程度で済んだけど、助けてくれた人は後遺症が残るほどの重傷を負った。
階段から足を滑らせて落ちたけれど、誰かが下敷きになってくれて私は軽傷で済んだ。下敷きになった人は大怪我をした。
他にも……あったかしら。忘れちゃった」
絶句。
勲弥は、言葉を失っていた。
自分を疫病神だと揶揄する吉川の気持ちが、少しだけ分かった。
確かにこれでは、人を遠ざけたくもなるというものだ。
己の身に何か起きた時、他者を犠牲にしてでも勝手に助かってしまう、という恐るべき力。
一体、吉川がどれほどの幸運を得て、どれほどの犠牲を強いてきたのか。
想像するのも恐ろしい。
「……だから、私は死なない。独りで生き続けて、誰かを不幸にし続ける。こんなの、疫病神と呼ばずして何と呼ぶのよ……」
吉川は俯いた。
平坦な声色が、若干揺らぐ。
彼女にしたって思うところはあるはずだ。無いはずがない。
どれほどのものを抱えて今まで生きてきたのか。想像するに余りある。
「私だって、これでも頑張っているのよ。少しでも人との関わりを減らして、一人でいて、極力誰かを巻き込まないように……。本当は学校にだって行きたくないわ。だから出席日数ギリギリになるようにして。それで、少しでも人を不幸にせずに済むなら……」
……ああ。
泣きそうになっている吉川を見て、勲弥は一つの確信を得る。
吉川天満は、他人が不幸になることを良しとしない人間なのだ。
誰かの不幸に涙し、誰かの幸せを喜べる、そういう人間なのだ。
何が疫病神なものか、と勲弥は内心で吐き捨てる。
少なくとも吉川自身は、望んでそうなったわけではないのだ。
「……駄目だぜ、吉川。ああ、全然駄目だ。そんなやり方じゃ、お前が幸せになれない」
「――っ、各務君、分かっているの!? 私が幸せになれば、その陰で不幸になる人間がいるのよ!」
「そんなのは誰だって、そうだろうが!」
吉川の声が大きくなるのにつられて、つい勲弥も大声を出してしまった。
客が自分たちだけでよかった。店主には悪いが、遠慮は要らない。
言わなければならいことが、ある。
「いつだって、誰だって、誰かを犠牲にしてるんだよ。誰かが幸せになれば、どっかで誰かが泣いてたりするもんだよ。そういうもんなんだよ。お前だけが特別に加害者だなんて思うなよ。そしてお前だけが特別に被害者だなって思うな。皆、誰だってそういうジレンマを抱えて、向き合って、生きてるんだよ。そうするしかないんだよ」
幸福の対価は不幸。
奇跡の代価は犠牲。
生きている限り、誰かを犠牲にせずにはいられない。
人間はそういう生き物だ。
「お前が幸せになる陰で不幸せになる誰かがいる。ああ、そうだな。でもな吉川、お前が不幸になれば、誰かが幸せになれるのかよ。お前の不幸の対価は誰かの幸福なのか。お前の犠牲の代価は誰かの奇跡なのか。なあ、そうじゃないだろ。お前が望んで不幸になったって、皆を幸せに出来るわけじゃない」
「じゃあ、どうしろっていうのよ……。また誰かを犠牲にしてしまうかもしれないって……私のせいで誰かが死んでいくのを、傷ついていくのを、黙って見てろって言うの!? 運が悪かったと、そう割り切れとでも言うつもり!? そんなの……そんなの、無理よ」
不運だったと、その一言で割り切れるはずがない。
それがどんな偶然だったとしても、罪悪感を感じずにはいられない。
自分のせいだと、自分を責めずにはいられない。
「……吉川、お前は優しいよな」
「なっ……」
眉を立てて怒る吉川に対し、勲弥は微笑む。
「お前は優しいから、誰かを踏み台にして自分だけが幸せになることが許せないんだ。自分のせいで他人が傷つくのが嫌なんだ」
でもな、吉川。それじゃあお前が幸せになれないじゃないか。自分を幸せに出来ない人間が他人の幸せを願うなんて、思い上がりだろう」
言いながら、勲弥は思う。賀持が言いたかったのはこういうことなのかもしれない、と。
「吉川。お前のやり方は間違ってる。今のお前のやり方じゃ、他人も傷つくし、何よりお前が傷つくんだ」
周囲の人間を遠ざけ。
近寄ってくる人間を拒絶し。
歩み寄る人間を不幸にする。
その繰り返し。
そんな方法で、一体誰が幸せになれるというのか。
「諦めるなよ、吉川天満。お前が不幸せにならずに済む方法が、あるかもしれない。
お前はもう感じたはずだぜ。お前の知らない『世界』がある。お前の常識を覆す『技術』がある。その中には、お前の助けになれる力があるはずだ」
「そんなの、希望的観測じゃない。そんな都合のいいものが……」
あるはずない、と吉川は言いたかったのだろう。
だが、勲弥は言わせない。
「そうだな、ないかもしれないよな。でも、あるかもしれない。探す前から諦めるなよ。本当に人を不幸にしたくないって言うのなら、お前は幸せになることを諦めるべきじゃない」
そうする義務がある。
周りを巻き込んで不幸にしてしまう、そんな力を宿す身として。
「お前の力――他人の『運』を操ってしまうその力は、どこかの世界の概念術によるもののはずだ。必ず、お前の力のルーツとなった世界が存在する。それを探そう。僕も手伝うから」
「……本当に? 私は……私の力は、他のひとを不幸にせずに済むの?」
吉川の瞳に、ほんの少し光が差す。
「吉川がそれを望むのなら」
力強く、勲弥は言う。
真っ直ぐ、吉川の目を見据えて。
「分かったわ、各務君。少しだけ……あなたを信じる」
目に溜まった涙を拭い取りながら、吉川は言った。
「まさか、昨日知り合ったばかりのあなたに説教されるなんて、思わなかった」
「説教て」
勲弥は苦笑する。
そんなつもりはなかったのだが、なるほど確かに、そう聞こえてしまうかもしれない。
勲弥としては、ただ今の吉川のやり方が間違っているということ、希望はあるかもしれないということを伝えたかっただけなのだが。
「ありがとう、各務君」
微笑と共に、吉川は礼を述べる。
勲弥は照れくさくなって、手を横に振った。
「お礼を言うのはまだ早いって。ちゃんと事が解決したら、そのときに言ってくれよ。僕はまだ何もしてないんだから」
まだ、問題が解決されたわけではない。
ただ吉川が、少しだけ、選択肢を得ただけなのだ。
本当に大変なのは、これからだ。
お久しぶりですすいません。
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