第十二話 「これって、デートなんじゃないかしら」
……どうしてこんなことになったのかしら……。
自分は夢でも見ているのではないか、と天満は己の頬をつねってみる。
痛い。ということは現実なのだ。
天満は、駅前のショッピングモール内にあるシネマコンプレックスにやって来ていた。
天満がいるのはロビーで、チケット売り場や売店がある。壁には上映予定の映画のポスターが貼ってあったり、大きなモニターで予告編を上映している。
休日ということで、ロビーは人で一杯だった。チケット売り場や売店には行列が出来ているし、上映時間までの時間を潰している人々の姿もある。
天満はと言うと、ロビーの端っこにある長椅子に座って、ぼうっとしていた。
……こんな大きな映画館、初めて来たわ……。
とても小さな頃、まだ両親が存命だった時に、住んでいた町の小さな映画館に映画を観に行った記憶は微かにある。だが両親が死んで以来は、映画館に行く機会は無かった。
映画そのものは嫌いではない。漫画喫茶などに泊まる時はよく見ている。だが映画館に行くとお金がかかってしまう。それが嫌で、天満は映画館へ足を運ぶことは無かった。
その天満が今日、何故映画館に足を運ぶことになったのかと言えば、それは、今チケット売り場の行列に並んでいる同級生の少年に誘われたからだった。
……まさか、各務君に映画に誘われるなんて、思わなかったな。
天満は思い返す。
今日――土曜日は、午前だけ授業がある日だった。
四時限が終われば帰宅できるのだが、帰ろうとしたら、勲弥に声をかけられた。
映画を見にいかないか、ということだった。
最初、天満はその言葉の意味を理解できず、硬直してしまった。
自分が誘われているのだと気づいたのは、十秒ほど経った後。
「よ、よろこんでっ」
少々テンパりながらも、天満はそう答えた。
しかし未だに、天満は現状を受け入れられずにいた。
……か、各務君と、二人で……!
そう。今回は、園崎一妃もいない。
二人きり。
その言葉の意味を考えると、天満は自分の顔が赤くなるのを感じた。
男女が、二人で、映画を見に来るという行為の意味。
……これって、デートなんじゃないかしら……!
「お待たせ。ごめんな、待たせちゃって」
「ふぁっ!?」
不意をつかれ、声を裏返らせる天満。
二人分のチケットを持って帰ってきた勲弥は、不思議そうに首をかしげた。
「大丈夫か?」
「え、ええっ。大丈夫よ、大丈夫……。テンパってないわ」
「そうか?」
天満は力強く頷いた。
……変な女だって思われないようにしないと。
折角、友達になれたのだから。
不安は、ある。
また何か『不幸』が起きて、それに勲弥を巻き込むのではないか、という不安。
或いは、勲弥を犠牲にして自分だけが助かるのではないか、という不安だ。
天満は、すっと目を細める。すると、勲弥の胸の辺りに、『灯火』が見えた。
それこそが、人間が持つ『運』を示す目印となる。
勲弥の『灯火』は、特に問題なく燃えている。大きくもなく小さくもなく、ニュートラルな状態だ。
この『灯火』が消えた人間は、死ぬ。
そういう運命を、課される。
運命。つまり――不可避の死だ。
……あの飛行機事故の時、乗客全員の『灯火』がふっと消えたのよね。
今でも思い出すことが出来る。自分以外の全ての人間の『灯火』が一斉に消失した。その後、飛行機は墜落して自分だけが助かった。
『灯火』が消えるところを目にしたのは、あれが初めてだった。
人の死を、事前に見るという能力。
何より恐ろしいのは、
……私が望めば、自分で『灯火』を奪い取れるということ。
以前、勲弥にしたように。
触れるだけで、天満は他者の運を奪い取れる。
『灯火』を、消せる。
考えただけでぞっとする話だった。自分はいとも容易く人の命を奪えるのだ。触れるだけでいい。
この話を聞いた勲弥は、どう思ったのだろう。彼の知る世界――概念術師の世界には、触れるだけで人を無条件に殺害できるような凶悪な力も、あるのだろうか。
「ほい、天満。チケット」
「え、ええ。ありがとう各務君。ごめんなさい、並んでもらんじゃって」
「いいっていいって。んじゃ、行こうぜ」
勲弥は冷や汗を掻いていた。
今が映画上映中でよかった。もしも明るかったら、自分がテンパっているのが一目瞭然だったろう。
……超気まずい。
スクリーンに映し出されているのは、主人公とヒロインとの濃厚なラブシーンだった。それはもう熱烈な絡み合いで、隣で見ている天満はどんな顔をしてみているのか気が気でない。
ハメられた、と勲弥は今更ながら悟った。そもそも今日の映画鑑賞(デートとは言わない)は、美冴の提案だったのだ。「丁度優待券があるから行ってきなさいよ」ということだったのだが、見る映画が決まっている類のものだった時点で気づくべきだったのだ。これがドロッドロの恋愛映画であることに。というかタイトルの時点で気づけ自分。
今頃、美冴はこの状況を想像してニヤニヤしているのだろうか、と思うと、怒りが湧いてくる。が、どうしようもないことだった。
……寝るのも失礼な話だしなあ。
勲弥からすると、恋愛映画というのは正直言って退屈なのだが、女性にとっては違うかもしれない。天満には意外と気に入るかもしれないということを考えると、あとで話を合わせられるよう、ちゃんと見ておくべきだろう。
今日の天満は、いつになく楽しそうだ。見た感じではあまりこういうところに来たことが無いようだが、楽しめているなら勲弥としても喜ばしい限りだった。ちなみに勲弥は一妃や暁美と共に映画をよく見に来ているので、その辺は慣れている。友達極少数と友達皆無の違いはこういうところに現れるのだな、と勲弥は冷静に分析してみせた。
……それにしても、男友達いねえなあ、僕。
高校に入って、男子と話す機会とて何度もあるのだが、親しくなるところまで至らない。顔も名前も知っているが、親しいかと言われれば疑問符が浮かぶ――そんな関係で終わってしまうのだ。それがどうしてなのか、勲弥には何となく分かっている。
……原因があるとすれば、やっぱり僕なんだよなあ。
決して誰かが悪いわけではない。自分が悪いのだ。
勲弥に社交性が致命的に欠けているわけではないが、どうしても管理局の仕事や、一妃のお守りなどで時間を割かれ、クラスメイトとの交流が殆ど出来ていなかった。それも一因だ。
何より大きいのは、
……僕が友達を作ろうとしなかったことだよな。
昔はそうでもなかったはずだが、成長するにつれ、人間関係に煩わしさを感じるようになっていった。その気になれば、友達と遊ぶ時間は作れただろう。だが、勲弥はそれをしなかったのだ。
できなかったのでは、ない。
やろうと思えば出来たはずのこと――だった。
「……吉川、ちょっとトイレ行って来る」
どうも劇場内は冷房が利きすぎている。勲弥は隣の天満に囁いて席を立った。天満からは曖昧な返事があっただけだった。どうやら見入っているらしい。
上映の邪魔にならないよう、姿勢を低くしそそくさと劇場を出て、トイレへ直行。
「……ふう」
用を足して、手を洗いつつ鏡を見る。
見飽きた顔が映っている。我ながら平凡な顔立ちだと思うが、唯一、紅い右眼だけが目立つ。
周囲にはカラーコンタクトだと言い張っている。お陰で高校では『遅れてきた中二病患者』だと揶揄されるし、家では家族から大顰蹙を喰らった。少しばかり心が折れそうになったものだ。
だが、これは言ってみれば『証』だ。
各務勲弥が、『全一世界』の全てを担っていくことの、証明。
少しだけ、右眼が疼いた。それはまるで、胎児が母親のお腹を蹴るような感覚。勲弥の中にいる『何か』が、己の存在を主張するかのような。
……心配しなくたって、僕は全部背負ってくっての。一妃のことも含めてな。
『全一世界』は滅びてしまって既に無い。だが、『全一世界』の全ては、各務勲弥と園崎一妃が受け継いでいる。
……ひょっとしたら、天満もそうなのかな。
人の『運』を視認し、吸収できる吉川天満の異能。その由来は、既に滅んでしまったどこかの世界のものなのではないだろうか。
勲弥は、既に天満の能力について、概念省の方で調べてもらっている。該当する情報は得られなかったが、既に滅んだ世界の中に、彼女の能力のルーツがあるかもしれない。日本概念省にデータは、現存する世界についてはほぼ全て押さえているが、既に滅んだ世界についてはそうとも限らない。何故ならば、世界はいくつも生まれては消えていくものであり、一定の文明レベルを持ち、他世界と接触を持たない限りは、概念省のデータにも残らないからだ。
……調べてみる価値はある、か。
そんなことを思いながら、トイレを出て行こうとした時だった。
「おーい、誰かいるか」
男子トイレの一番奥の個室から、声が聞こえてきたのだ。
何事かと思ったが、トイレには他に誰もいないようなので、勲弥は自分が返答することにする。
「どうかしましたか」
「お、誰かいたか。よかったよかった。悪いんだが、紙が切れちまったみたいでな」
「ああ、なるほど」
全てを察した勲弥は、すぐ側の個室からトイレットペーパーを1ロール手に取ると、一番奥の個室の扉の前まで歩いていった。
「上から投げ入れますよ」
「おう。頼む」
トイレットペーパーを投げ入れた。
無事に彼の手に渡ったようで、その後ちょっとしてから、水を流す音が聞こえてきた。
……って、僕は何でわざわざ待ってるんだ!?
投げ入れた後に立ち去ればよかった話なのに、何故か勲弥は個室の扉の前で立っていた。何故だろう。
自分でも分からなかった。
「ふー……。お。助かったぜ。ありがとうよ」
出てきたのは、とにかく目立つ男だった。長身。金髪。隻眼。顔立ちから日本人ではないことも分かった。それにしては随分と流暢な日本語を喋っているが。
右眼をざっくりと断ち切っている傷跡に、否が応でも眼がいく。カタギではないのだろうか。海外のマフィアとかだったらどうしよう――などと、勲弥は『入国管理局』の荒事担当とは思えぬ弱気を見せる。
だが、外人の男は至ってフレンドリーだった。
「いや、本当に参ってたんだ。お前さんがいなかったらどうなってたことやら。今は丁度上映中で誰も入ってこねえしよ。本当にありがとな。何かお礼を……」
「いや、いいですよお礼なんて。それに友達も一緒に来てるんで、もう行きます」
「ん? そうか……?」
ふと、外人の男の視線が、勲弥の顔の一点を見ていることに気がついた。
右眼。
普通と違う――紅色の瞳。
見られるのは、いつものことだ。そのたびカラーコンタクトだと言って、苦笑いを返されるのも。
「……お前、名前は?」
だが、名前を聞かれるということは――初めてだった。
経験に、ない。
「……勲弥です。各務勲弥」
名乗るべきではなかったかもしれない、と勲弥は思った。
だが、もう遅いのだ。
「カガミイザヤ……各務勲弥……そうか、お前が」
外人の男は、くつくつと笑った。
心の底から、おかしそうに。
「そうかそうか。お前が『そう』なのか。なるほど、なるほどね。全く恐ろしいな、あいつの力は。あらゆる因果律を捻じ曲げて、『巡り合わせ』を作っちまう。『命』を『運』ぶと書いて運命だ、ってのはよく言ったもんだよなあ」
「あの、何を……」
目の前の男の不審な反応に、勲弥は一瞬で警戒度を引き上げる。バックステップを踏んで距離を取り、そして、その紅い右眼で、男をじっくりと見据え――
「心を読もうとしたって無駄だぜ各務勲弥。その手は俺には通じない」
――否定。
外人の男が放った一言は、勲弥の心を揺さぶるに足りた。
隙が生まれる。その隙を突いた外人の男が、ばっと右手を振った。
次の瞬間、空間が、隔絶される。
……しまった、空間隔絶術式っ!
たった今、この空間――どこまでが範囲かは分からないが――が隔絶された空間となったのが分かった。因果体系概念術でも最もポピュラーな、因果を隔絶した空間を作成する術式。
ロベルト・ブラックの『狩場』は空間の一部をコピーし重層空間を作り出すものだったが、こちらは単純に空間を外の因果から『切り離す』。
「……いいのかよ、術式使って。管理局にバレるぜ」
「構わねえよ。逃げるのには慣れてるんだ」
気づくと、外人の男の手には、緋色のガンブレードが握られている。その武装が放つ威圧感に、勲弥は身震いを感じた。あれは、ヤバい。恐らくは何らかの概念武装だろう。それも、かなりレベルの高い。
「恩もあるしな。一応、名乗っておこうか。俺の名前はミハエル・ディートリッヒ」
ガンブレードの切っ先をこちらに向け、男――ミハエルは薄ら笑いを浮かべながら言う。
「吉川天満を、殺しに来た」
空間が、爆ぜた。