住処に呼ばれる吾輩
この殻で一生を終えるつもりだった。
少なくとも、昨日までは。
潮の匂いを深く吸い込みながら、僕は朝の浜辺に立っていた。正確には立つというほど脚は長くないし、浜辺といっても岩陰のぬめった砂地なのだけれど、そういう細部にこだわる者は大事なことを見失う。重要なのは、いまこの瞬間、僕が人生の岐路にいるということだ。
いや、人生ではないかもしれない。甲殻生だろうか。どちらでもいい。言葉は器にすぎない。僕の本質はもっと深いところにある。
問題は、その器のほうが、もう僕を収めきれなくなってきたことだった。
僕はゆっくりと身をひねって、自分の殻を見上げた。美しい巻きだった。淡い褐色に白い筋が走り、入口のなだらかな曲線には気品がある。軽さと防御性の均衡も見事で、初めてこれに入った日の高揚はいまでも覚えている。あの日、僕は確信したのだ。
選ばれた、と。
この殻は無数の候補の中から、僕という存在にふさわしい器として僕を受け入れたのだと。
もちろん母は違うことを言っていた。
「そのへんに落ちてたから入っただけでしょ」
母はいつだって現実的すぎる。あの人は何もわかっていない。殻とは住まいではない。思想だ。生き方だ。世界に対して自分がどのような螺旋を描く存在か、その宣言なのだ。
だが近頃、脚の収まりが悪い。後ろを引っ込めるたび、わずかに窮屈さがある。これは成長の証でもあるが、同時に危機でもある。器が小さくなったのではない。僕が大きくなりすぎたのだ。
ついに来たか、と僕は思った。
次なる継承のときが。
浜辺の奥では、波に磨かれた小石が朝日にきらめいていた。海藻の切れ端が揺れ、その向こうを、小さな稚魚の群れがひとかたまりの光みたいに横切っていく。世界は静かだった。そして静かなときほど、運命は大きな音を立てずに近づく。
今日は年に一度の殻品評会の日である。
正式には、そういう名前ではない。ただ海流に乗ってたまたま流れ着いた殻が多い季節に、近隣のヤドカリたちがぞろぞろと集まり、勝手に見て、勝手に入り、勝手に評価し、勝手に揉めるだけの催しだ。だが、わかっていない連中ほど物事を俗に言う。真に見識ある者にとって、今日は器の選定儀式であり、未来の形を占う神聖な日なのだ。
僕は深呼吸した。
「待っていろ、次なる器よ」
そうつぶやいたとき、すぐ横の岩陰から顔を出した幼なじみのムラサキヤドカリが言った。
「何が待ってるの」
「運命が」
「また始まった」
彼は呆れたように目を細めた。いや、細めるも何も目はもともと飛び出しているのだが、呆れたことは確かだった。
「今年こそ、まともな殻にしなよ」 「まともとは何だ」 「軽くて、入りやすくて、割れてなくて、変な海藻がついてないやつ」 「浅いな」 「生きるってだいたい浅いほうが大事なんだよ」
僕は答えず、ゆっくり前を向いた。理解されないのは慣れている。選ばれた者はいつだって孤独だ。
だがその孤独さえ、今日で終わるかもしれない。
新たな器が、僕を待っているのだから。
殻品評会は、海辺でもっとも品のない社交界だった。
潮が引いたばかりの砂地には、思った以上に多くの殻が散らばっていた。薄桃色のもの、白く乾いたもの、巻きの深いもの、入口の広いもの。大きさも質もまちまちで、その周囲を大小さまざまなヤドカリたちがうろついている。
うろついている、という表現がもっとも正確である。参加者たちは皆、いかにも偶然ここを通りがかっただけですという顔をしているが、目だけはぎらついていた。ひとつ気に入った殻を見つけては、さりげない様子で近づき、他の個体の反応を盗み見る。評価を口にする者もいたが、そのほとんどは感想ではなく牽制だった。
「入口が少し広すぎるね」 「でも巻きは悪くない」 「若い子には似合うかも」 「いやあ、軽すぎる殻は品がないよ」
誰も頼んでいないのに、誰もが審査員だった。
その中心に、例の彼がいた。
まだ若く、今の殻もそれなりに上等だが、本人はそれを仮初めの器としか見ていない。歩き方に無駄な溜めがあり、触角の動きにも自意識がにじんでいる。気に入った殻の前では一度立ち止まり、すぐには入らず、まず周囲に斜めの視線を投げた。まるで選ぶ側はこちらだと言わんばかりの態度だった。
しかし現実には、殻の側は無言で転がっているだけである。
「見て、あれ」 「またやってる」 「入ればいいのに」 「本人の中では儀式なんでしょ」
ひそひそ声が飛ぶ。
彼は大きめの巻き貝の殻の前で立ち止まった。淡い白に、先端だけ金色っぽい海藻がからんでいる。ぱっと見の華やかさはあるが、やや重い。
「ほう」
彼は低くうなった。
「ついに現れたか」
周囲にはただの独り言にしか聞こえなかったが、彼の顔は真剣だった。殻の前で半周し、入口をのぞき込み、脚で軽く叩く。古参の個体ならもっと実用的に、内側の深さや割れをまず確認するところだが、彼はそういう現実的な順序を踏まない。印象が先なのだ。
「お似合いじゃない」 と、誰かがからかった。 「貴様に、この螺旋の格はわからん」
その返答に、小さな笑いが広がった。
彼は気にしないふりをして、ようやく殻に入ってみた。最初の入りは悪くなかった。少しきついが収まりはする。何より見栄えはいい。白い殻が朝の光をはね返し、たしかに彼の得意げな表情によく似合っていた。
だが、数歩歩いたところで問題が起きた。
重いのである。
とても重かった。
彼は一歩ごとにわずかによろめき、それでも表情だけは平静を装った。二歩目で傾き、三歩目で砂に脚を取られ、四歩目で完全にひっくり返った。
浜辺が静まり、それから一拍遅れて爆笑が起きた。
「似合うけど進めないじゃない」 「飾り殻だ」 「品評会向きだねえ」 「住む気あったんだ」
彼はしばらく裏返ったまま空を見ていた。青かった。たいへん青い空だった。
やがて近くにいた幼なじみが、あきれた顔で殻の端を押してやる。ごろんと転がって体勢を戻した彼は、何事もなかったように立ち上がった。
「これは試練だ」 「失敗だよ」 「違う。器が僕の力量を試している」 「殻に意思はないって」 「ある」 「ない」
言い争いながらも、幼なじみは少し笑っていた。周囲も完全に悪意だけで見ているわけではない。この浜辺では、恥をかいた者ほどしばらく話題の中心でいられる。それもまた、一種の名誉と言えなくもなかった。
だが、そのときだった。
沖から少し大きな波が入り、品評会の砂地をざぶりとさらっていった。浅く置かれていた殻がいくつも転がり、参加者たちがあわてて散る。白い殻も、桃色の殻も、小ぶりで人気のあった巻き殻も、みな水に押されて位置を変えた。
そして彼がもとの殻を置いていた場所は、きれいさっぱり空になっていた。
幼なじみが目を丸くする。
「あれ、おまえの元の殻は」 彼も振り返った。
ない。
さっきまで確かにあった、自分の古い殻が、どこにもなかった。
波打ち際の向こうでは、名も知らぬ別のヤドカリが、見覚えのある褐色の殻を背負ってすたすた去っていくところだった。
彼は一瞬、呆然とした。
白い大殻は重すぎる。だが元の殻はもうない。
浜辺の空気が、少しだけ変わった。
さっきまで笑い話だった宿替えが、急に切実な問題として、彼の脚元に転がってきたのである。
笑うなよ、と先に言っておく。
いや、もう遅いかもしれない。たぶん君はすでに笑っている。僕だって、もし他人のことなら少しは笑っただろう。だが当事者になると話は違う。器の継承どころではない。単純に、家を失ったのだ。
重い白殻の中で息を整えながら、僕は波打ち際を見つめていた。さっき見かけた、僕の元の殻を背負ったやつは、もうどこにもいない。探そうにも、この殻では速く動けない。そもそも追いついたところで返してもらえる保証はない。殻の世界は、思ったより法が弱い。
いや、思ったよりではないな。前から知っていた。知っていて、どこか自分だけは大丈夫だと思っていたのだ。
この白殻は見た目こそ悪くない。むしろかなりいい。入口のふちにかかる海藻など、ある種の者が見れば芸術的とすら言うだろう。だが歩くたびに後ろへ引かれ、ちょっとした傾斜ですぐ体勢を崩す。こんなものを背負って長く生きるのは無理だ。
幼なじみが横に来た。
「だから言ったのに」 「いま必要なのは反省会ではない」 「じゃあ何」 「新たな器だ」
自分で言って、少しだけ嫌な間が空いた。さっきまでなら決まっていた言葉が、いまはやけに薄い。器だの継承だの、そういう大げさなものではなく、僕はいま単純に、身を守れる家を探さなくてはいけない。
それでも、口が勝手に格好をつけた。
「僕は選ばれし螺旋を」 「急いだほうがいいよ」 「はい」
現実主義者は強い。
僕らは品評会の場を離れ、少し潮だまりの多い岩場のほうへ向かった。派手な殻はあらかた品評会で争われるが、こういう外れには案外、地味で使えるものが残っている。もっと早くその事実に気づくべきだったのかもしれない。いや、違う。気づいてはいた。ただ認めたくなかっただけだ。
途中、小さな割れの入った殻を見つけた。悪くない大きさだったが、入口の縁が欠けている。
「論外だな」 「住めなくはないよ」 「住めなくはない、は褒め言葉ではない」 「いまのおまえにはかなり褒めてる」
次に見つけたのは、やけに細長い殻だった。入れたけれど、奥が浅くて落ち着かない。三つ目は軽かったが、妙に藻の匂いがきつい。四つ目は入り口が狭すぎた。五つ目は誰かが先に目をつけていて、にらみ合いになった末、相手のほうが明らかに体が大きかったので譲った。
探して、外して、また探した。
気づけば、日が少し傾いていた。
僕はふと立ち止まる。さっきなら見向きもしなかった、くすんだ灰色の小さな殻が、岩のくぼみに半分埋まっていた。模様もない。艶もない。華やかさとは無縁の殻だ。
「それ?」 と幼なじみが言う。 「……試すだけだ」
僕はそっと入ってみた。
軽かった。
妙にしっくりきた。奥まで無理なく収まり、脚を引けばぴたりと閉じる。重心も悪くない。派手さはないが、歩いてもふらつかない。
僕はそのまま三歩、四歩、五歩と進んでみた。
驚くほど普通に歩けた。
「どう」 「……悪くない」 「普通でしょ」 「普通ではない」 「普通だよ」 「違う。これは、そうだな。静かな力を秘めた」 「普通だって」
僕は黙った。
たぶん、普通なのだろう。
でもその普通さが、少しだけ胸にしみた。さっきまで僕は、殻に自分を証明してもらおうとしていたのかもしれない。立派な巻き、深い色、気高い形。そんなものを背負えば、自分まで少し大きくなれる気がしていた。
けれど殻は、僕を大きく見せるためにあるのではなく、僕がちゃんと生きていくためにある。
当たり前のことを知るには、家を失うくらいでちょうどよかったのかもしれない。
幼なじみが先に歩き出す。
「帰ろうよ」 「帰る、か」
その言葉を口の中で転がし、僕は海を見た。朝とは違う光の色だった。大きな運命が待っているような気配は、もうない。波はただ寄せて返し、殻は転がり、僕らはそのあいだで入れる場所を探している。
それでもたぶん、これでいい。
いや、これがいいのかもしれない。
今日の僕は結局、理想の器も、選ばれし継承も、そんなものは手に入れられなかった。ただ、自分に合う殻をひとつ見つけただけだ。
けれど、そのただひとつが、いまは少しうれしい。
僕は新しい灰色の殻を背負い直し、なるべくさりげなく言った。
「悪くない旅だったな」 「品評会で転んで家なくしただけじゃん」 「過程だけを見て本質を見失うな」 「本質って」 「僕がひとつ深くなった」 「殻が変わっただけでしょ」 「浅いな」 「生きるってだいたい浅いほうが大事なんだよ」
朝に聞いたのと同じ言葉だった。
でも今度は、少しだけ、その意味がわかる気がした。




