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元まおゆうシリーズ

勇者を看取った元魔王、現代日本で平穏に暮らしたい

作者: よねさん
掲載日:2026/06/07

 冷たい風が吹いていた。


 砕けた岩が転がり、焼け焦げた大地には無数の剣や槍が突き刺さっており、千年以上続いた勇者と魔王の戦いは今まさに終わろうとしていた。


 大地には巨大な亀裂が幾筋も走り、崩れ落ちた岩山や抉り取られた地表が果てしなく広がっており、つい先ほどまで繰り広げられていた激戦の凄まじさを物語っている。


 空には未だ消えきらない魔力の残滓が揺らめき、幾度となく衝突した術式の余波によって周囲の空間は歪み続けていた。


 久我大翔――いや、この世界で魔王と呼ばれた男は、自らの胸を貫く剣を見下ろしながら、その先で血に染まった大地へ膝をつく一人の少女へ静かに視線を向けていた。


 第十七代勇者ソフィア・ガードナーもまた魔王の剣によって致命傷を負っており、大翔の胸には勇者の剣が深く突き刺さっていたため、互いに立っていることすら限界を迎えていた。


 その直前まで続いていた戦いは、まさに死力を尽くした激闘だった。


 勇者の聖剣と魔王の魔剣が交差するたびに衝撃波が周囲の大地を吹き飛ばし、巨大な斬撃の余波は山を削り、幾重にも展開された高位術式同士の衝突は空間そのものへ亀裂を刻んでいた。


ソフィアは何度も倒れかけながらもその度に立ち上がり、全身から血を流しながら最後まで剣を握る手を離さなかった。


その瞳には最後まで諦めがなかった。

どれほど傷付いても、どれほど追い詰められても、彼女だけは最後の一歩を止めなかった。


そして自分もまた魔王という役割を押し付けられた存在だったからこそ、その姿に憐憫を覚え、最後の瞬間には剣を避けることなく終わりを受け入れた。


 終わらせたかったのだ。


 千年以上続いた勇者と魔王の物語を終わらせ、誰かが用意しただけの舞台から降り、自分たちの人生を縛り続けた役割そのものへ幕を下ろしたかった。


 その願いは勇者でも魔王でもなく、一人の人間として抱き続けていた願いだった。


 大翔は倒れたソフィアの傍らへ歩み寄り、その小さな手を静かに握った。


「これで解放されるよ」


 ソフィアは薄く目を開き、苦しそうな表情のままかすかな笑みを浮かべながら大翔を見上げた。


「……ふふっ、最後までそんな顔なんだね」


 かすれた声だったが、その声には不思議と穏やかな響きがあった。


「仕方ないだろ」


 大翔は小さく苦笑した。


「千年以上も魔王なんてやらされれば、愛想だって悪くなる」

「そうかもね……」


 ソフィアは小さく笑ったあと、ゆっくりと曇り始めた空へ視線を向ける。


 戦いの終わった空はどこまでも静かで、先ほどまで世界を揺るがしていた激戦が嘘だったかのように穏やかだった。


「本当は……普通に生きたかったな」


 その言葉を聞いた瞬間、大翔は返事を失った。


 勇者として生きることを強制され、戦うことしか許されなかった少女が最後に願ったものは、誰もが当たり前に持っているはずの日常だったからだ。


「あなたもね」


 震える声でそう告げられた言葉に、大翔は静かに頷いた。


「……ああ」


 短い返事だった。

 だが、その一言には千年以上抱え続けてきた疲労も後悔も諦めもすべて込められていた。


「俺も、もう十分だ」


 その言葉を聞いたソフィアは安心したように目を細め、まるで肩の荷を下ろしたかのような穏やかな表情を浮かべる。


「ありがとう」


 最後にそう告げたソフィアの手から力が抜け、その身体は静かに動きを止めた。


 吹き抜ける風だけが二人の間を通り過ぎ、荒廃した戦場へ静寂が戻っていく。


 大翔はしばらくその顔を見つめ続けたあと、ゆっくりと目を閉じながら小さく息を吐いた。


 千年以上戦い続け、数え切れない勇者たちを倒し、世界を滅ぼす力を持ちながらも結局は誰かが作った物語の中で魔王を演じ続けただけだった人生が、ようやく終わろうとしていた。


「やっと終わるか」


 それが魔王として残した最後の言葉だった。





 ――だが終わりではなかった。




  ――眩しい。


 閉じていた瞼の向こうから柔らかな光が差し込み、その暖かさがゆっくりと意識を浮上させていく中で、大翔はつい先ほどまでいたはずの戦場には存在しなかった穏やかな温もりに違和感を覚えながら重い瞼を開いた。


 ぼんやりと見上げた先には白い天井が広がっていた。


 どこか見覚えのある光景だったが、自分は確かに死んだはずだという記憶との整合が取れず、大翔の思考は追いつかなかった。


 胸を貫いた聖剣の感触も、全身から力が抜けていく感覚も、最後に見たソフィアの笑顔も鮮明に覚えているからこそ、目の前の光景は現実味を持たなかった。


「大翔ー! いつまで寝てるのー! 早く起きなさい! 学校遅れるわよー!」


 突然聞こえてきた声に大翔の意識は一気に覚醒し、その聞き慣れた声の主が誰なのか理解した瞬間、反射的に上半身を起こしていた。


「か、母さん……?」


 思わず漏れた言葉を耳にした瞬間、大翔は自分の口を押さえる。


 聞こえてきた声は大学生だった頃の自分の声でも、千年以上聞き慣れていた魔王としての声でもなく、変声期すら迎えていない幼い少年の声そのものだったからだ。


「なっ……なんだこれ!?」


 慌てて発した声も同じだった。

 耳へ届いたのは高く幼い少年の声であり、聞き慣れた自分の声とはあまりにも違っていた。


 混乱した大翔はベッドから飛び降りると、そのまま部屋の隅に置かれた姿見の前へ駆け寄った。


 鏡の中に映っていたのは大学生でも魔王でもない、一人の幼い少年だった。

 面影こそあるものの、それは今の自分とは思えないほど幼い姿だった。

 頬は丸く、顎の線も未発達で、目元には少年特有のあどけなさが残っている。


「俺……こんな顔だったか?」


 呟きながら頬へ触れると、そこには記憶の中の自分とはまるで違う柔らかな感触があった。


 続いて視線を落とした大翔は、自分の両手が驚くほど小さくなっていることに気付いた。

 そこにあったのは千年以上剣を握り続けてきた手でも、魔王軍を率いた手でもなかった。

 ただの子供の手だった。


 一歩踏み出そうとした瞬間には身体の感覚が噛み合わず、盛大によろけて慌てて机へ手をつく。

 脚の長さも重心も身体のバランスも記憶とまるで違っており、自分が別人の身体へ入り込んでしまったかのような錯覚すら覚えた。


「低っ……」


 周囲を見回した大翔は、机も棚もドアノブまでもが記憶より遥かに高い位置にあることへ気付いた。


 それと同時に、自分の視線の高さそのものが大きく変わっていることを理解する。


 異世界で魔王として勇者と戦い続けた千年以上の記憶よりも、今は自分の身体が子供になっているという事実の方が遥かに衝撃的だった。


「俺、ちっさ……」


 呆然と呟きながら鏡を見つめるが、そこに映る少年の姿が変わることはなかった。


「大翔ー! 聞いてるのー! 早く降りてきなさい! 朝ご飯冷めちゃうわよー!」


 再び聞こえてきた声に大翔は我に返った。

 聞き間違えるはずもなく、その声は何年どころか千年以上聞いていなかった母親のものだった。


 大翔は扉へ視線を向けた後で再び部屋を見回し、目に映るものを一つずつ確認しながら頭の中で状況を整理し始める。


「待て……待て待て待て……」


 大翔は壁に掛けられたカレンダーへ視線を向け、続いて机の上へ目を移した。

 そこにはランドセルや教科書、筆箱や学習ドリルが並んでおり、目に入るものはどれも記憶の中にある子供時代の光景そのままだった。


 さらに机も本棚も壁に貼られた古いアニメのポスターも確認し、それらすべてが記憶の中にある部屋そのままであるとわかった瞬間、大翔は強い混乱に襲われる。


「日本……?」


 震える声で呟いた大翔は、部屋の光景を改めて見回した。

 机も本棚も壁に貼られたポスターも記憶の中にあるままであり、その事実がかえって現実感を失わせていた。

 ただ、ここが異世界でも魔王城でもなく、自分が生まれ育った日本であることだけはわかった。


「なんでだよ……」


 思わず零れた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。


 千年以上生きた魔王にして、世界最強と恐れられた存在。

 そんな肩書きが今だけは何の意味も持たなかった。


「俺、死んだよな……?」


 最後に見たのはソフィアの笑顔だった。

 胸を貫く聖剣の感触も血の匂いも冷たくなっていく身体の感覚も鮮明に残っており、その記憶があるからこそ今こうして生きている現実を受け入れられなかった。


 自分の中では確かに終わったはずの人生が続いていることに、大翔は戸惑いを隠せなかった。


「じゃあ、なんで生きてるんだよ……」


 答える者はいなかった。


 窓の外では子供たちの笑い声が響いており、そのあまりにも平和な朝の光景がかえって現実味を失わせていた。


 最初は夢だと思った。

 異世界も魔王も勇者も、長い夢を見ていただけなのではないかと本気で考えた。


 だが身体の奥底へ意識を向けた瞬間、大翔は確かな違和感を覚える。


「……ある」


 掌を見つめながら意識を身体の奥底へ向けた大翔は、目に見えるものこそ何も存在しないにもかかわらず、そこにかつて世界を震撼させた魔王の膨大な魔力が確かに眠っていることを感じ取った。


 それによって異世界も魔王も勇者もソフィアもすべて現実だったと、自分がその記憶を持ったまま日本で生きているという事実も否定できなくなった。


「これ、もしかして人生やり直しってやつか?」


 一瞬だけ胸が高鳴った。


 千年以上の人生で後悔がなかったわけではない。

 救えなかった人間もいたし、もっと違う生き方があったかもしれない。

 ソフィアだってそうだった。


 もし本当にやり直せるのなら、今度は違う人生を歩めるかもしれないという期待が僅かに胸をよぎる。


 だが、その期待はランドセルや教科書や学習ドリルを、もう一度見た瞬間に吹き飛んだ。

 改めて周囲を見回しても、そこにあるのはどう見ても小学生の生活用品ばかりだった。


 人生をやり直せるという事実よりも、自分が再び小学校へ通わなければならない可能性の方が現実味を持って迫ってくる。


「いや待てよ……これ小学生じゃねぇか」


 呟いた瞬間、大翔は頭を抱えた。

 人生のやり直しという響きは格好良いが、現実には九九や漢字ドリルまでやり直すことになるのではないかという疑念が浮かんでくる。


「また小学校かよ……九九からやり直し? 漢字ドリル? マジで?」


 異世界の魔王ですら思わず絶望する現実だった。




 それから二年が過ぎた。


 八歳の頃は自分の身体が子供になっていることへの戸惑いばかりが大きかったが、十歳になる頃には現在の生活にも慣れ始めていた。


 同時に、失われたはずの力が少しずつ戻っていることも自覚していた。


 膨大な魔力も魔法技術も数え切れない戦闘経験も、そして魔王として世界を見続けてきた魔眼までもが、時間の経過と共に本来あるべき場所へ戻っていくような感覚があった。


 十歳を迎える頃には、その感覚は確信へ変わっていた。

 失われたと思っていた力はほぼ完全な形で戻っており、大翔は魔王として積み上げてきたものを再び手にしていた。


 ある夜、自室で一人になった大翔は、その事実を改めて確かめるため体内の魔力を循環させてみる。

 意識を身体の奥底へ沈めると、そこには異世界で使い続けていた膨大な魔力が変わらず存在していた。

 慎重に魔力を循環させながら状態を確認した大翔は、その流れも質も記憶しているものと寸分違わないことに気付く。


 さらに循環速度を上げてみても違和感はなく、魔力制御も驚くほど自然に行えた。

 その結果から、大翔は魔王時代の力がほぼ完全な形で戻っていることを理解する。


「うわ……」


 思わず漏れた声には驚きが混じっていた。


 力が戻ること自体は予想していたが、実際に確認してみると想像以上であり、千年以上使い続けた力がほとんど劣化もなく残っている事実に大翔は驚きを隠せなかった。


 大翔は窓の外へ視線を向けながら、試しに指先へ魔力を集中させてみる。

 もちろん攻撃を放つつもりはなかった。

 本気で放てば住宅街どころか周辺一帯へ深刻な被害を与えかねないことを、自分自身が最もよく理解していたからだ。


「これ普通に使えるのかよ……」


 そう呟きながらさらに魔力を圧縮してみると、周囲の空間がわずかに軋むような反応を返した。

 空気が震え、窓ガラスが微かに音を立てる。

 その変化を感じ取った大翔は即座に魔力操作を解除した。


「危なっ! 住宅街で魔王砲撃つ馬鹿がいるか!」


 慌てて魔力を散らした大翔は、ほんの少し試しただけで空間が軋んだ事実に冷や汗を流しながら、自分へ向けて思わず突っ込みを入れていた。


 本気で放てば何が起きるかなど考えるまでもない。

 その危険性を理解しているからこそ、大翔は額の汗を拭いながら大きく息を吐いた。

 そして改めて、自分が持つ力の危険性を再認識することになる。


 落ち着きを取り戻した頃、大翔は別の考えを頭に浮かべる。

 この力があれば大抵のことは実現できる。


 国家を支配することも経済を操作することも軍隊を相手にすることも可能だろうし、その気になれば世界征服だって不可能ではなかった。


 実際に異世界では魔王として長い年月を生きてきたのだから、その実現性について疑う余地はなかった。


「……やる?」


 誰もいない部屋で呟きながら、大翔は本気でその可能性を考えてみる。


 もし世界を支配したらどうなるのか。

 もし再び魔王として生きたらどうなるのか。

 そんな未来を想像しながら、大翔はしばらく考え続けた。


 だが思い浮かぶ未来は希望に満ちたものではなかった。

 世界征服の先には大量の部下を抱えながら終わりの見えない会議や報告を処理し続ける日々があり、その裏では反乱や外交問題への対応に追われる未来しか見えなかった。

 さらに時間が経てば勇者まで現れるだろうことも容易に想像できた。


 その未来図を思い描けば思い描くほど、大翔の気分は重くなっていく。


「会議とか絶対あるよな。部下の報告もあるし、反乱も起きるだろうし、そのうち勇者まで来るよな」


 口に出して確認した結果、その予想が間違っていないという確信しか得られなかった。

 千年以上も魔王をやっていたのだ。

 その先に待つ面倒事など嫌というほど知っていた。


 その後も暇を見つけては世界征服について考えてみたが、三日ほど経った頃には結論が固まっていた。


「面倒くさい」

 それが大翔の出した答えだった。


 世界征服に興味がないわけではない。

 できないわけでもない。

 ただ、もう一度やりたいかと聞かれれば答えは否だった。


 勇者に追われる人生も世界を支配する人生も、一度経験すれば十分だったのである。


「無理だ。却下。普通が一番だ」


 そうして元魔王は世界征服を放棄した。

 世界平和を守りたいわけでも人類を愛していたわけでもなく、世界征服を諦めた理由は単純に面倒だったからである。

 千年以上も面倒事の中心にいた男にとって、それ以上に説得力のある理由は存在しなかった。


 こうして大翔は、魔王としてではなく一人の人間として生きることを選ぶ。

 普通に学校へ通い、普通に卒業し、普通に就職して平穏な人生を送る。

 異世界も勇者も魔王も関係ない人生こそ、自分が本当に欲しかったものだと大翔は考えていた。


 そう、その目標は何よりも大切なものだった。


「平穏最高。勇者なし。魔王なし。戦争なし。これだろ」


 本気でそう思っていた。

 少なくともその時の大翔に迷いはなかった。


 それからさらに年月が流れたが、大翔は魔王の力を隠したまま誰にも正体を知られることなく生活を続けていた。


 学校へ通い、友人と過ごし、ごく普通の学生として日々を重ねていく。

 十七歳の春を迎える頃には、自分の選択は間違っていなかったと本気で思っていた。

 平穏な人生は順調であり、面倒事とも無縁だった。


 だが、その平穏は一人の少女によってあっさりと終わりを告げることになる。




 「今日からこのクラスの新しい仲間になる、結城はるなさんです」


 担任の言葉と共に教室の扉が開き、一人の少女が教室へ足を踏み入れた。

 その姿を見た瞬間、教室の空気がわずかに変わり、長い黒髪と整った顔立ちを持つ美少女へ自然と多くの視線が集まる。


 実際、男子生徒たちは露骨にざわついており、女子生徒たちも興味深そうな視線を向けていた。


「おい、やばくね?」

「めちゃくちゃ可愛いんだけど」

「モデルとかやってそうだな」

「神楽さんもいるし、うちのクラスって当たりじゃね?」


 あちこちから小声が聞こえてくる中、担任は軽く咳払いをして教室を静めると、結城はるなへ視線を向けた。


「じゃあ結城さん、自己紹介をお願いします」

「はい。結城はるなです。父の仕事の都合でこの街へ戻ってきました。以前は小学校五年生までこちらに住んでいたので、知っている方もいるかもしれません。まだ久しぶりで分からないことも多いので、よろしくお願いします」


 落ち着いた口調で挨拶を終えたはるなへ、教室のあちこちから感心したような声が漏れる。


 そんな反応を横目に見ながら、大翔もまた何気なく転校生へ視線を向けていた。

 特別な理由はなかった。

 何気なく転校生へ視線を向けた大翔は、癖のように一瞬だけ魔眼を発動した。


 だが魔眼の先に映った魂を見た瞬間、その軽い気持ちは跡形もなく吹き飛んだ。

 それが誰なのか理解した瞬間に息を呑み、その場で思考を停止させる。


 見間違えるはずがなかった。

 千年以上の人生で最後に手を握った少女の魂を忘れるはずがなかったからだ。


(ソフィア……)


 その魂は最後の勇者である第十七代勇者ソフィア・ガードナーその人であり、魔王だった自分と共倒れになった少女の魂そのものだった。

 今は結城はるなという名前で目の前に立っているが、その本質を見誤ることなどあり得なかった。


(嘘だろ……)


 異世界で死に別れた相手と日本で再会するなど想像したこともなかった。

 しかも魔眼で見える魂は間違いなく勇者ソフィアそのものなのに、目の前にいる少女からは勇者だった頃の記憶を持つ気配を感じない。


 そこにいるのは勇者ソフィアではなく、現代日本を生きる女子高生の結城はるなだった。

 だからこそ大翔は混乱しており、魂は同じなのに別人にも見える状況を理解できずにいた。



 一方の結城はるなもまた、教壇の前で言葉を止めかけていた。


 窓際の席に座る男子生徒を見た瞬間、視線だけがそこへ引き寄せられる。

 初対面のはずなのに、一度目を逸らしても、気付けばまたその姿を探していた。


(誰……? なんで……こんなに気になるの?)


「結城さん?」

「あ、はい」


 担任に呼ばれて我に返ったはるなは慌てて返事を返し、その様子に教室から小さな笑い声が漏れる。

 はるなは返事をしながらも、窓際の席に座る大翔の姿を意識の端から追い払えなかった。


「緊張してる?」

「少しだけです」


 そう答えると教室の空気が少し和らいだが、はるなの意識は完全には戻っていなかった。


 そんな彼女の視線と大翔の視線が教室の中央で交差する。

 ほんの一瞬の出来事だったが、その瞬間だけは互いに目を逸らすことができなかった。


(ソフィア……本当に君なのか……)


 大翔は心の中でそう呟きながら教壇の前に立つ少女から目を離せず、結城はるなもまた、胸に残る懐かしさを抱えたまま窓際の席へ視線を向け続けていた。


 こうして元魔王と元勇者は、誰にも知られることなく二度目の再会を果たした。




 それから数週間が過ぎた。


 結城はるなは幼馴染だった神楽早苗と再会し、放課後に買い物へ出掛けたり休日にカフェへ立ち寄ったりしながら、ごく普通の女子高生らしい日常を過ごしていた。


 転校直後こそ新しい環境への戸惑いもあったが、早苗の存在もあって学校生活には順調に馴染んでいく。

 そんな日々を重ねる中で、はるなの中には一つだけ説明のつかない疑問が残り続けていた。


 その日も二人は駅前のカフェへ立ち寄り、飲み物を片手に取り留めのない会話を続けていた。

 学校の話や昔の思い出話で盛り上がる中、はるなは以前から気になっていたことを思い出し、少しだけ迷った末に口を開く。


「ねえ、早苗」

「ん?」

「久我くんって、どんな人なの?」


 できるだけ自然に聞いたつもりだった。

 だが、その言葉を聞いた瞬間、早苗の表情が面白いものを見つけたように変わる。


「え、それってもしかしてハルト? ちょっと待って、はるな? 気になってるの?」


 身を乗り出してくる早苗に、はるなは慌てて首を振った。


「ち、違うからね? そういうんじゃないから。ただ同じクラスだし、ちょっと気になっただけだから」


 慌てて否定したものの、その反応が余計に怪しく見えたらしい。

 早苗はにやにやと笑いながら頬杖をついた。


「はいはい。青春だねぇ」

「だから違うってば」

「いいよいいよ。そういうお年頃だもんねぇ」


 からかうような口調に、はるなの頬が少しだけ赤くなる。


 久我大翔の名前を出しただけで、はるなはグラスを持つ指先に少し力を込めていた。

 それを早苗に見られて、余計に頬が熱くなる。


「まあ冗談は置いといて、ハルトは結構人気あるよ?」

「そうなの?」

「うん。勉強もできるし運動もできるし、変に目立たないのに女子からは結構見られてるタイプなんだよね」


 そう言った早苗はストローを回しながら楽しそうに笑う。


「だから本当に気になるなら早めに動いた方がいいよ? 後で誰かに取られてから後悔しても知らないからね」

「だからそういう話じゃないんだってば!」


 思わず声を上げるはるなを見て、早苗はさらに楽しそうに笑った。


 はるなはグラスを両手で包む。

 からかわれた途端に頬が熱くなり、慌てるようにストローへ口を付けた。



 一方の大翔は、結城はるなへの対応を決めかねていた。


 彼女はソフィアの魂を持っている。

 だが彼女に勇者だった頃の記憶はなく、本人も普通の女子高生として生活している以上、無理に関わるつもりはなかった。


 だから護衛代わりの使い魔だけを密かに配置し、自分は距離を置いたまま様子を見守ることにしていた。


 それが大翔なりに考えた結論だった。

 だが、その平穏な日常はある日の夜に突然終わりを告げる。


 夕食を終えた大翔は自室で筋力トレーニングを行っていた。

 高校生としては異常な負荷だったが、魔王時代の感覚からすれば身体を軽く動かしている程度のものであり、汗を流しながら黙々と鍛錬を続けている。


 一通りのメニューを終えた大翔はタオルで汗を拭き、水を飲みながら次のトレーニングへ移ろうとしていた。


 その時、机の上へ置いていたスマートフォンが短く振動する。

 画面へ視線を向けた大翔は、その通知が使い魔から送られてきたものであることを確認した。


 普段なら経過報告程度しか送られてこない。

 だが今回は違った。

 通知には緊急信号が添付されていた。


 異常事態を認識した大翔は即座に映像を開き、使い魔が見ている光景を共有する。

 次の瞬間、大翔の表情から感情が消えた。


 映像の中に映っていたのは見慣れた街並みでも学校帰りの風景でもなく、酒と煙草の臭いが漂ってきそうな薄暗い店内だった。


 さらに店内には多数の男たちが集まっており、その視線の先には拘束された少女たちの姿があった。

 男たちは獲物を囲むように少女たちを取り囲み、下卑た笑みを浮かべながら好き勝手な言葉を投げ掛けている。

 その光景を確認した大翔は映像の中へ視線を走らせ、そこにいる人物の顔を一人ずつ確認していった。


 そして見覚えのある二人の姿を見つけた瞬間、周囲の音が遠ざかったような感覚を覚えた。

 そこにいたのは神楽早苗と結城はるなだった。


 早苗の顔は大きく腫れ上がり、頬には殴られた痕が残っている。

 

 そして、そのすぐ近くでは数人の男たちにはるなが押さえ付けられていた。

 腕を振りほどこうと必死に抵抗しているが、男たちはびくともしない。


 それでもはるなは身を縮めることなく、拘束されたまま早苗の前へ出ようとしていた。

 男たちはそんな二人を囲みながら品のない笑みを浮かべ、その視線を隠そうともしない。

 男たちの視線を見た瞬間、大翔の中で何かが静かに切れた。


 これ以上見ている理由はなかった。

 大翔はスマートフォンを静かにポケットへしまう。


 怒鳴り声を上げることも机を叩くこともなく、そのまま目を閉じながら深く息を吐いた。

 再び瞼を開いた時、その瞳から感情は消えていた。


「……そうか」


 小さく呟いた大翔は、その場で空間へ魔力を流し込む。

 次の瞬間、自室の空気が揺らぎ、その姿は跡形もなく消え去った。


 転移先は使い魔が送ってきた座標付近であり、直接店内へ飛ばなかったのは状況確認と余計な目撃を避けるためだった。

 夜の繁華街外れにある雑居ビル街の裏路地へ空間の歪みが走り、その中心から大翔が姿を現した。


 表通りでは酔客たちの笑い声や車の走行音が響いていたが、この場所へ人目が向くことはなく周囲にも人影は見当たらない。


 大翔は周囲の安全を確認すると、そのまま目的地のある方向へ視線を向ける。

 使い魔から送られてきた映像には、今回の経緯も記録されていた。

 

 神楽早苗は以前から地元不良グループのリーダー格に付きまとわれており、何度も誘いを断ったことで逆恨みを買っていた。

 さらにその男へ執着していた加々美美穂が父親の人脈を利用したことで、加々美家と繋がりのある半グレ連中が動く。

 その結果、早苗だけでなく偶然その場に居合わせた結城はるなまで巻き込まれてしまった。 


 そして二人は現在、この雑居ビルへ監禁されていた。


 映像を閉じた大翔は無言のまま歩き続ける。

 考えるべきことは何もなかった。

 二人を連れ戻すこと、今はそれだけだった。


 静かに沈んだ怒りは、その胸の奥で確実に燃え続けていた。


 やがて目的地である雑居ビルが見えてくる。

 薄汚れた外壁とけばけばしいネオンが夜の闇へ浮かび上がり、使い魔が示す反応も三階から動いていない。

 はるなと早苗は今もその中にいる。


 大翔は足を止めると周囲を静かに見回した。

 深夜とはいえ人通りは完全には途絶えておらず、道路には車も走っている。

 このまま突入すれば騒ぎになる。


 だから先に済ませておくことがあった。


「《境界断絶》」


 小さな呟きと共に魔力が周囲へ広がる。

 誰にも見えない波紋は夜の街へ溶け込みながら雑居ビル全体を包み込み、その空間そのものを現実世界から切り離していく。

 音も衝撃も外へ漏れず、内部の人間は逃げ出せず、外部から異常を認識することもできない。

 雑居ビル全体が独立した閉鎖空間へ変貌していた。


 それは千年以上前に魔王城を守るため構築された最高位封鎖術式であり、今は守るためではなく逃がさないために使われている。


 大翔は展開された領域を確認すると静かに魔力を循環させ、身体強化魔法フィジカルブースト物理防御魔法プロテスを重ね掛けした。

 全身へ魔力が巡り、筋力と反応速度が引き上げられると同時に、防護魔力が薄い膜となって身体を覆っていく。


 戦闘準備はそれだけで十分だった。


「……無事でいろ」


 誰に聞かせるでもなく呟いた大翔は、そのまま雑居ビルへ向かって歩き出す。

 目的地までは百メートルも離れておらず、夜の繁華街を抜けた大翔は数十秒ほどで目的のビルへ到着した。


 使い魔の反応は三階から動いていない。

 はるなと早苗はまだ中にいる。


 なお、その三階にあるのは営業停止中の店舗だった。

 現在は半グレや不良グループの溜まり場として使われており、表向きの店舗とは程遠い状態になっている。


 使い魔が送ってきた映像に映っていた男たちも、その場所へ集まっていた連中だった。

 そして二人もまた、その奥へ拘束されたまま閉じ込められている。


 大翔は無言のまま階段へ足を掛ける。

 その歩みには一切の迷いがなく、ただ二人を助け出すという目的だけが存在していた。

 静まり返った階段へ靴音を響かせながら、大翔はそのまま三階へ向かって歩き始めた。



 三階へ到着すると、営業停止中の店舗の入口前には二人の男が立っていた。


 どちらも屈強な体格をしており、腰には警棒とナイフが見えることから、まともな店員ではないことは一目で分かる。


 男たちは突然現れた大翔へ怪訝そうな視線を向け、その行く手を遮るように立ちはだかった。


「なんだお前」

「今日は貸切――」


 最後まで言わせなかった。

 大翔の拳が男の腹部へ深くめり込み、その身体が後方へ吹き飛ぶのと同時に、もう一人の首筋へ叩き込まれた手刀が意識を刈り取る。

 男たちは悲鳴を上げる暇もなく床へ崩れ落ち、入口の見張りは一秒にも満たない時間で無力化されていた。


 店内から椅子を引く音が聞こえ、続いて苛立った声が響く。


「おい、何の音だ?」

「外で何かあったのか?」


 どうやら物音を聞き付けたらしい。

 大翔は小さく息を吐く。

 もともと静かに乗り込むつもりはなかった。

 ならば遠慮する理由もない。


 次の瞬間、大翔の前蹴りが入口の扉へ突き刺さった。

 轟音と共に金属製の扉が蝶番ごと吹き飛び、破片を撒き散らしながら店内を横切る。

 突然の衝撃に男たちは一斉に振り返り、煙と粉塵の向こうから現れた青年へ視線を集中させた。


 黒いTシャツとトレーニング用のパンツというラフな格好のまま現れた大翔の足元には、外出用の靴ではなく筋力トレーニングで使っていた室内用ルームシューズが履かれている。

 場違いなほど普通の格好だった。

 だが、その場にいた誰も彼を普通の人間だとは思えなかった。


 はるなは入口から響いた轟音に顔を上げる。

 煙の向こうから現れた人物を見た瞬間、思わず目を見開いた。


(久我くん……?)


 見間違えるはずがなかった。

 学校で何度も見てきた顔だった。

 だが教室で見る穏やかな少年とはまるで別人であり、その背中からは周囲の男たちとは比較にならない圧力が静かに滲み出ている。


 初めて見るはずの姿なのに、はるなはその姿から目を離せなかった。

 怖いはずなのに、胸の奥だけが不思議と落ち着いていく。


「なんだてめぇ!」


 男の怒鳴り声が響くが大翔は答えない。


 使い魔を通して確認していた位置と一致する複数の反応を捉えると、その奥にいる二人の気配も間違いなく存在していた。

 幸い二人とも生きている。

 だが、その反応から無事とは言い難い状況であることは容易に察することができた。


 その事実を確認した瞬間、大翔の中から最後の躊躇が静かに消えた。


「……殺さないだけ感謝しろ」


 低い声が店内へ響く。


 次の瞬間、床を砕くほどの踏み込みと共に大翔の身体が前方へ飛び出し、爆ぜるような衝撃が店内全体を駆け抜けた。


 最前列にいた男たちは何が起きたのか理解する間もなく吹き飛ばされ、一人は壁へ叩き付けられ、別の男はテーブルごと弾き飛ばされ、その余波で巻き込まれた男たちまでも床を転がっていく。

 ほんの数秒の間に十人以上が戦闘不能となり、店内には悲鳴と家具の破砕音だけが響き渡っていた。


「な、なんだこいつ!」

「囲め!」


 数人の男が鉄パイプを振り上げながら一斉に突っ込む。


 先頭の男が全力で振り下ろした鉄パイプを大翔は左手だけで受け止め、そのまま右拳を腹部へ叩き込んだ。

 男の身体はくの字に折れ曲がったまま吹き飛び、壁へ激突すると動かなくなる。

 さらに回し蹴りと肘打ちが間髪入れずに叩き込まれ、男たちは反撃する暇すら与えられないまま床へ沈められていった。


 大翔は攻撃の勢いを緩めることなく、目の前へ現れる男たちを一人ずつ確実に戦闘不能へ追い込んでいく。


 突進してきた男を肩から弾き飛ばし、背後から襲い掛かった男の腕を掴むと、そのまま投げ飛ばしてテーブルごと叩き潰した。

 家具が砕ける音と共に男たちの身体が宙を舞い、わずか数十秒の間に二十人近い男たちが床へ転がっていた。


 店内に立っている者はほとんど残っておらず、その光景を見た男たちの顔から血の気が引いていく。


「ば、化け物だ……」


 震える声が漏れる。


 誰も目の前で起きている現実を受け止めきれなかった。

 目の前にいる青年に恐怖していることはわかったが、自分たちではどうにもならない存在だということだけは本能的に理解していた。


 その時、店の奥にいた男が震える手で拳銃を抜いた。

 最後の切り札へ縋るように大翔へ銃口を向け、そのまま引き金を引く。


「死ねぇ!」


 乾いた銃声が二度響き、放たれた二発の弾丸が一直線に大翔へ襲い掛かったが、大翔は避ける素振りすら見せなかった。

 右手が一瞬だけ霞むように動いたかと思うと、次の瞬間には掌の中へ二発の弾丸が収まっている。


 店内は一瞬で静まり返り、誰も目の前で起きた光景を理解できなかった。


 銃弾を素手で受け止めるなど人間にできるはずがなく、男たちの常識は音を立てて崩れ去っていく。

 大翔は掌を開き、その上に転がる弾丸を男たちへ見せる。


 その瞬間、男たちの顔から血の気が完全に失われ、拳銃を持っていた男は震えながら後退りし、呼吸すらまともにできなくなった。


 目の前にいる存在が本当に人間なのかという疑念と恐怖だけが店内全体へ広がっていく中、大翔はそんな視線など意にも介さず掌の上の弾丸を指先で摘まみ、そのまま軽く弾き飛ばした。


 放たれた弾丸は空気を裂く轟音と共に飛翔し、拳銃を持っていた男と不良グループのリーダー格のベルトバックル付近へ正確に命中する。

 直後、二人は絶叫を上げながら床へ転がり、腹を押さえたまま身悶えを始めた。


「あぎゃああああっ!」

「ぎゃああああっ!」


 二人の情けない悲鳴が重なるように店内へ響き渡り、そのまま白目を剥いた二人は失神する。

 それを見た残りの男たちは完全に戦意を喪失しており、誰一人として前へ出ようとはせず、後退りしながら怯えた視線だけを大翔へ向けていた。


 倒れた男たちの間を歩きながら店の奥へ向かう大翔の足取りは静かだったが、その一歩ごとに男たちの本能は激しく警鐘を鳴らしており、逃げろと叫ぶ本能に従いたくても《境界断絶》の中では逃げることすら許されなかった。


「た、助けてくれ……」

「し、知らなかったんだ……」

「俺たちは頼まれただけで……」


 次々と命乞いが始まるが大翔は耳を貸さなかった。

 理由などどうでもよく、大翔にとって重要なのは結果だけであり、目の前の人間たちは、はるなと早苗を傷付けていたため、その事実だけで十分だった。


 次の瞬間、大翔の姿が視界から消えたように見えたかと思うと、直後には鈍い打撃音と短い悲鳴が連続して店内へ響き渡り、吹き飛ばされた身体が壁や床へ叩き付けられる音が重なる。

 男たちは何が起きたのか理解する暇すらなく、一人、また一人と意識を刈り取られていった。


 それは数秒にも満たない出来事であり、再び静寂が戻った時には先ほどまで命乞いをしていた男たちも全員が床へ転がっている。


 立ち上がる者はもちろん意識を保っている者すら残っておらず、店内で動いているのは大翔だけだった。


 床へ散乱する男たちを一瞥した大翔は何も言わず、そのまま店の奥へ向かって歩き出す。

 彼にとって重要なのは倒れた男たちではなく、その先で拘束されている二人を助け出すことだった。


 やがて大翔は拘束されている二人の前へ歩み寄る。


 はるなは呆然と大翔を見上げており、早苗もまた状況が理解できないのか目を丸くしたまま固まっていた。


 つい先ほどまで絶望の只中にいたはずなのに、今は別の意味で現実感を失っているようだった。


「久我……くん?」


 震える声ではるなが名前を呼ぶ。

 その声を聞いた大翔は、ようやく二人へ視線を向けた。


 先ほどまで男たちへ向けていた冷たい視線とは違い、その目にはわずかに力が抜けたような安堵の色が混じっている。



「怪我は」


 短い言葉だったが、それだけで十分だった。

 自分たちを助けに来てくれたのだと理解できたからだ。


「わ、私は大丈夫……」


 そう答えたはるなだったが、すぐに隣の早苗へ視線を向ける。


「早苗は?」


 殴られた頬や疲れ切った様子が目に入り、自分のことより友人の無事の方が気になった。

 早苗はそんなはるなの視線を受け、一瞬だけ目を丸くした後で困ったように笑う。


「私は……大丈夫って言いたいけど、ちょっと無理かも……」


 腫れた頬を見せながら苦笑する早苗を見て、はるなは張り詰めていた緊張を少しだけ緩めた。

 その様子を見ていた大翔は小さく肩を竦める。


「自分の心配はしないのか」


 呆れたような声だった。


「だって早苗の方が酷かったし」


 はるなは当然のように答えた。

 大翔は何も言わなかったが、そのまま小さく息を吐くと二人へ歩み寄る。


 大翔は最初に早苗の拘束具へ手を伸ばし、金属製の拘束具を軽く握っただけで音を立てて砕いた。

 続いて、はるなの拘束も同じように解除される。

 二人はようやく自由になった身体を動かしながら、その場へ座り込んだ。


「立てるか」

「う、うん」

「なんとか……」


 二人が頷いた直後、それまで張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、早苗の身体から一気に力が抜ける。

 早苗は涙を溢れさせながら立ち上がると、そのまま大翔へ抱き付き、今まで必死に押し殺していた感情を堰を切ったように溢れさせた。


「うっ……ぐすっ……。怖かった……。本当に怖かった……」


 子供のように泣きじゃくりながら大翔の服を強く掴み、その身体を震わせ続ける早苗を前にしても、大翔は少し困ったような表情を浮かべるだけで何も言わず、そのまま立ち尽くしている。


 一方のはるなも目には涙を浮かべていた。


 怖くなかったわけではない。

 助かったことへの安堵もあった。

 それでも早苗のように抱き付くことはできず、ただ大翔を見つめたまま立ち尽くしていた。


 そんな姿を見た大翔は、ほんのわずかに目を細める。

 極限の状況を経験しながらも取り乱し過ぎず、恐怖を抱えながらも最後まで立とうとする姿は、かつて知っている少女とどこか重なって見えた。


(やっぱり勇者だな)


 本人は自分が勇者だったことなど知らないが、それでも魂の根本にあるものまでは変わらないらしい。

 そう考えた大翔は小さく息を吐きながら二人へ視線を向ける。


「もう大丈夫だ」


 その言葉を聞いた瞬間、はるなの目からも一筋の涙が零れ落ちた。


 その隣では早苗が大翔へしがみ付いたまま泣き続けていたが、張り詰めていた緊張が完全に切れたのだろう。

 やがて嗚咽も小さくなり、その身体からゆっくりと力が抜けていく。

 膝から崩れ落ちそうになった早苗を支えるため、大翔は咄嗟に腰を落としてその身体を抱き留めた。 

 そのまま腕の中へ体重を預けた早苗を見て、大翔はそっと顔を覗き込んだ。


「……寝たのか」


 早苗は大翔の胸へ額を預けたまま静かな寝息を立てており、恐怖と疲労と安堵、その全てが限界を超えた結果として気を失うように眠ってしまったらしい。


 はるなもそれに気付き、思わず小さく笑う。


「こんな状況なのに……。早苗らしいな」


 その言葉に大翔も小さく肩を竦めた。

 少なくとも泣き続けるよりはマシだろうと判断した大翔は、人差し指を口元へ当てる。


「しー」


 眠った早苗を起こさないためだと理解したはるなは、小さく頷きながら口元を押さえた。


 そして大翔は眠る早苗へ視線を向けると、その掌から淡い緑色の光を溢れさせる。

 柔らかな光は早苗を包み込み、腫れ上がった頬や身体中へ残る打撲痕へ静かに浸透していった。

 みるみるうちに腫れは引き、傷は消え、痛々しかった痕跡は最初から存在しなかったかのように消え去っていく。


 続いて大翔は、はるなへ視線を向けた。


「じっとしてろ」

「え?」


 返事を待たずに掌を向けると再び淡い緑色の光が溢れ出し、今度ははるなの身体を優しく包み込んでいく。

 春の日差しのような暖かな感覚が全身へ広がり、張り詰めていた身体から力が抜けていった。

 それは数秒で終わったが、はるなはその場から動けなかった。


 暖かな光に包まれたと思った次の瞬間には、身体中へ残っていた痛みが跡形もなく消えていたからだ。


 恐る恐る頬へ触れた後に腕へも手を伸ばして確かめてみるが、何度確かめても痛みはなく、さっきまで確かに残っていた痛みは完全に消えていた。


 頬へ触れたまま動けなかった。

 何度確かめても痛みは戻らず、目の前で起きたことを受け止め切れない。


「あれ……?」


 思わず漏れた声は戸惑いそのものだった。

 はるなは何度も自分の身体を見回しながら腕を曲げ、肩を動かし、恐る恐る頬を押してみる。

 それでも痛みはどこにも残っていなかった。


「なんで……?」


 呆然と呟いたはるなは、ゆっくりと大翔を見上げる。

 そこにいるのは見慣れた同級生のはずだった。

 けれど、今の光景を見た後では、同じ教室で隣にいる普通の少年だとはもう思えなかった。


「何したの?」


 思わずそう尋ねたが、大翔は答えようとせず、むしろ説明する気そのものがないように見えた。


「……そっか」


 数秒だけ大翔を見つめた後、はるなは小さく肩を竦める。


「じゃあ聞かない」


 その言葉に大翔は少しだけ目を瞬かせた。


「いいの?」


 はるなは苦笑しながら頷く。


「本当は気になるよ。すごく気になる。でも今は……助けてくれたことの方が大きいから」


 一度だけ視線を伏せたあと、はるなは逃げずに大翔を見上げた。


「だって……本気で、もう会えないと思ったから」


 そう言ったはるなを見て、大翔は何も答えなかった。


 代わりに空いている方の手で頭を掻きながら小さく息を吐いた大翔の腕の中では、早苗が気持ち良さそうな寝息を立てながら眠り続けていた。


「……すまん」

「え?」

「その……服はダメなんだ」


 言われて初めて、はるなは自分の身体へ視線を落とし、身体の痛みも頬の腫れも消えていることを改めて確認したが、破れた制服や乱れた衣服だけはそのまま残っていた。


 そして次の瞬間、自分の置かれている状況を正確に理解したはるなの顔が一気に赤くなり、慌てて胸元を押さえながら数歩後ずさる。


「え、えっち……!」


 思わず飛び出した言葉だった。

 その声を聞いた大翔もようやく我に返り、慌てて視線を逸らした。


「……すまん」

「え?」

「見てしまった。すまん」


 妙に真面目な口調だった。


 一瞬、はるなの思考が停止する。


「は?」

「事実だから」

「事実でも言わなくていいから!」

 はるなの顔がさらに赤くなる。


 思わず叫ぶはるなを見ながら、大翔は困ったように頭を掻いており、どうやら本気で悪気はなかったらしい。


「謝る気ある!?」

「ある」

「全然見えないんだけど!?」


 即答だった。


「それより服だ」

「うぅ……」

「怪我は治せる」

「うん」

「骨も治せる」

「うん」

「でも服は無理だ」

「なんでそこだけ!?」


 思わずツッコミが飛ぶ。

 だが大翔本人は真面目だった。


「俺だって知りたい」

「知らないの!?」

「知らない」


 あまりにも迷いのない即答だったため、はるなは思わず額を押さえる。

 傷を消すような光を見せられた直後なのに、会話の内容だけは妙に庶民的だった。


「普通そこも何とかならない?」

「ならない」

「そんな顔で断言しないでよ……」

「本当に無理なんだ」


 大翔は困ったように頭を掻きながら肩を竦める。


「服を直す方法があるなら俺が教えてほしいくらいだ」

「そこまで?」

「そこまで」


 妙に力強い返答だった。


 数秒の沈黙が流れる中、はるなは大翔を見つめるが、その表情はどこまでも真顔で冗談を言っているようには見えなかった。


「ふっ……」


 思わず肩が震え、笑いを堪えようとしたものの無理だった。


「あははっ……」


 気付けば声を上げて笑っていた。

 少し前まで怖くて仕方なく泣きそうだったはずなのに、それなのに今は笑っている自分がおかしかった。


「笑うな」

「だって……」

「服だけ無理って何それ……」

「事実だから仕方ない」


 大翔は不満そうにそう答える。

 その反応がまたおかしくて、はるなは笑いながら目尻へ浮かんだ涙を拭った。


 さっきまでの恐怖は、まだ完全には消えていないが、それでも今は笑えていた。


 そんなはるなを見ながら、大翔は小さく息を吐く。

 少なくとも二人とも無事であり、それだけで十分だった。


「そうだ」

「?」

「その格好じゃ帰れないな」


 言われて、はるなは改めて自分の服を見る。

 確かにこのまま外へ出られる状態ではなかった。


 大翔は店内の隅へ積み上げられていた荷物へ向かうと、しばらくして二人の通学鞄を見つけ出し、その中から体育用バッグを取り出した。


「あった」

「何が?」

「ジャージ」


 取り出された学校指定ジャージを見た瞬間、はるなの表情がぱっと明るくなる。


「神じゃん!」


 反射的に飛び出した言葉だった。

 制服のまま帰る未来しか見えていなかっただけに、その存在は本気でありがたかった。


「服は直せないけど着替えはある」

「そこだけ妙に有能だよね……」

「服を直せるなら苦労しない」


 大翔は真顔で答える。

 その様子がおかしくて、はるなは再び吹き出してしまった。


 その後、はるなは店の奥を借りて着替えを済ませる。

 早苗も起こされて店の奥へ向かったものの、半分眠ったまま着替えていたらしく、戻ってきた頃には今にも目を閉じそうになっていた。


「んー……」

「早苗、着替え終わったぞ」

「あと五分……」

「寝る場所じゃないからな」


 そんなやり取りを見ながら、はるなは思わず苦笑する。


 着替えを終えた早苗は眠そうに目を擦りながらふらふらと歩いていたが、やがて限界を迎えたらしい。

 そのまま大翔の肩へ額を預けるようにもたれ掛かった。

 大翔は困ったような顔をしながらも彼女を支え、そのまま背負い直した。


 その後、大翔は店内の状況を確認しながら残されていたスマートフォンや身分証などを証拠として記録し、警察が介入できるだけの状況だけは整えておいた。


 最後に男たちのスマートフォンを一台使い、監禁場所と負傷者の存在だけを告げると、大翔は返答を待たずに通話を切った。


 もっとも、加々美美穂や背後にいる連中がどうなるかについては大翔の知ったことではなく、自分にできることは既に終わっていると判断していた。


 後は警察の仕事だと。


 そう判断した大翔は《境界断絶》を解除し、二人を連れて雑居ビルを後にする。

 夜風は思っていたより冷たく感じられたが、それは張り詰めていた緊張がようやく解けたせいなのだろう。

 帰り道は大翔が早苗を背負い、はるなが隣を歩く形になっていた。


 しばらく二人の間に会話はなく、何度か口を開きかけたが、そのたびに言葉は喉の奥へ引っ込んでいった。


 やがて住宅街へ差しかかった頃、それまで沈黙していたはるなが小さく口を開く。


「ねえ」


 大翔は歩く速度を変えることなく視線だけを向けた。


「なんだ」

「久我くんって何者なの?」


 真っ直ぐな質問だった。

 今夜見たものを考えれば当然の疑問であり、あの力も、銃弾を受け止めた光景も、自分の傷を治した淡い光も、普通の高校生という言葉では到底片付けられなかった。


 だが大翔は少しだけ考えた後、肩を竦める。


「ただの高校生だ」


 即答だった。

 はるなは数秒黙り込んだ後、呆れたようにため息を吐く。


「嘘」

「本当だ」

「絶対嘘」

「本当だ」


 あまりにも堂々と言い切るものだから逆に反論する気力が削られていき、はるなは苦笑しながら夜空を見上げた。


 結局、大翔が何者なのか、その答えは返ってこなかった。

 それでも隣を歩く足取りは、思っていたより軽かった。


「ねえ」


 再びはるなが口を開く。


「今度はなんだ」

「変なこと言ってもいい?」

「内容による」


 その返答に少しだけ笑ったあと、はるなは足を止めた。

 ただ聞き流して終わらせることもできた。


 何も知らないふりをして、明日からまた普通の同級生として接することもできた。

 それでも今は、目の前の大翔から逃げたくなかった。


 街灯の光に照らされた横顔を見つめながら、はるなは小さく息を吸う。


「私たち」


 一度言葉を区切る。


「どこかで会ったことある?」


 夜風が静かに吹き抜ける中、遠くでは車の走る音だけが聞こえていた。

 大翔は足を止めたが、何も言わない。


 数秒の沈黙のあと、前を向いたままようやく口を開く。


「さあな」


 短い返事だった。

 何かを隠しているような気はしたものの、なぜかその先を聞く言葉は出てこなかった。


「でもね」


 そう言って空を見上げる。


「初めて会った気がしないの。 おかしいよね」


 はるなは小さく笑った。


「でも……私、久我くんが来てくれて嬉しかった」


 もう一度そう呟いたはるなに対し、大翔は何も答えなかった。

 それでも、はるなは目を逸らさなかった。


 夜風が静かに吹き抜ける中、大翔は前を向いたまま歩き出した。

 はるなも小走りで追い付き、その隣へ並ぶ。


 それからは二人とも何も言わず歩き続けた。

 背中では早苗が静かな寝息を立てていた。


 はるなは無意識に胸元へ手を当てる。

 そこに残る温もりだけは、まだ消えていなかった。


 ――そして、その理由を彼女が知るのは、もう少し先の話だった。


 ――END――

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