婚約破棄された修復師は、崩れゆく大聖堂と共に捨てられた——けれど、廃墟の中で出会った冷徹公爵に「君だけが必要だ」と溺愛されることになりました
「婚約破棄だ」
その言葉が耳に届いた瞬間、背後で轟音が響いた。
振り返れば、私が十年間愛し続けた大聖堂の尖塔が——Loss崩れ落ちていく。
スローモーションのように。永遠のように。
「エドガー様、今なんて……」
「聞こえなかったのか? お前との婚約は終わりだと言ったんだ」
砕ける石の音。舞い上がる粉塵。悲鳴を上げて逃げ惑う人々。その全てが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
——嘘でしょう。
私の視界には、瓦礫と化していく大聖堂と、冷たい笑みを浮かべる婚約者……いいえ、元婚約者の顔が、同時に映り込んでいた。
「っ、大聖堂が……!」
駆け出そうとした私の腕を、エドガーが掴む。
「どこへ行く気だ?」
「離して! あの子が、大聖堂が壊れて——」
「あの子?」
エドガーは心底呆れたように笑った。翠の瞳には、かつて私に向けられていたはずの優しさなど、一欠片も残っていない。
「お前はいつもそうだな、リーシャ。石ころを『この子』と呼び、廃墟を愛おしそうに撫でる。——気味が悪いとは思わないのか?」
「……っ」
「ヴィオレッタを見ろ。彼女は華やかで、社交的で、俺の隣に立つに相応しい女だ。お前のような地味で陰気な女とは違う」
崩落音が続く。私の心臓も、同じように砕けていく音がする。
「三年も、待っていたのに」
声が震えた。情けないと思った。でも、止められなかった。
「三年間、エドガー様のお傍にいられる日を夢見て……私、ずっと」
「夢見ていた?」
エドガーは私の腕を乱暴に振り払った。
「身の程を知れ、リーシャ。没落貴族の末裔で、修道院育ちの孤児で、石を磨くことしか能のない女。そんなお前を選んでやったのは、俺の慈悲だったんだ」
——慈悲。
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
「お前のような女、大聖堂と一緒に朽ちてしまえ」
背を向けて去っていくエドガーの腕には、豪奢な金髪を揺らす女性が寄り添っていた。ヴィオレッタ・ゴールドウィン。新興貴族の令嬢。
「あら、まだそんなところにいたの?」
紫の瞳が、私を見下ろして笑う。
「可哀想に。婚約者にも、大聖堂にも捨てられるなんて。——ああ、でもお似合いかもしれないわね? 廃墟と、廃墟みたいな女」
二人の笑い声が遠ざかっていく。
私は、その場に崩れ落ちた。
膝をついた地面には、大聖堂の破片が散らばっている。見覚えのある彫刻の欠片。私が三年前に修復した、天使の翼の一部。
「……ああ」
涙が零れた。
エドガーに捨てられたことが悲しいのか。大聖堂が崩れたことが悲しいのか。もう、自分でもわからなかった。
——私には、何も残っていない。
粉塵が舞う中、私はただ、瓦礫の山と化した大聖堂を見つめ続けた。
十年間、毎日通った場所。石壁の一つ一つに名前をつけて、ひび割れを見つけるたびに「痛かったね」と語りかけた場所。
私の、たった一つの居場所だった場所。
「……ごめんね」
誰に言っているのかもわからない謝罪が、唇から零れた。
「守れなくて、ごめんね」
空が暗くなっていく。日没ではない。舞い上がった粉塵が、太陽を覆い隠しているのだ。
その薄闇の中で、私は誓った。
——この子を、見捨てない。
たとえ誰に嗤われても。たとえ一人きりでも。
私は立ち上がり、瓦礫の中に足を踏み入れた。
◇
崩落から三日が経った。
「まだあんなところにいるのか、あの女」
「未練がましいにも程があるわ」
「婚約破棄されたショックで頭がおかしくなったんじゃない?」
遠巻きに聞こえる囁き声を、私は無視した。
瓦礫を一つ、持ち上げる。重い。腕が軋む。でも、下ろすわけにはいかない。
「……大丈夫、直せるから」
誰もいない廃墟に、私の声だけが響く。
「——馬鹿者が」
不意に、しわがれた声が響いた。
振り返ると、白髪交じりの老人が立っていた。猫背気味の小柄な体躯、石粉で汚れた作業着。
「オリヴァー師匠……」
「たまたま通りかかっただけじゃ」
師匠はぶっきらぼうにそう言って、私の傍に歩み寄った。
「三日も寝てないんじゃろう。目の下に隈ができとる」
「大丈夫です。私なんかより、この子たちの方が——」
「大丈夫じゃない」
師匠の手が、私の肩を掴んだ。思ったより強い力だった。
「お前が倒れたら、誰がこの大聖堂を直すんじゃ」
「……っ」
「食え」
差し出されたのは、布に包まれたパンだった。まだ温かい。
「……ありがとうございます」
パンを齧る。涙が出そうになったのは、空腹のせいだと思うことにした。
「リーシャ。この崩落、おかしいと思わんか」
「……え?」
「ワシはこの大聖堂を五十年見てきた。お前も十年、毎日この石壁を触っとったじゃろう。——突然崩れるような脆さが、あったか?」
私は、パンを持つ手を止めた。
言われてみれば。いや、言われる前から、どこかでおかしいと思っていたのかもしれない。
あの日の朝も、私は大聖堂の点検をしていた。尖塔の根元、柱の接合部、アーチの頂点。どこにも、崩落の予兆はなかった。
「まさか……」
「考えておけ」
師匠はそれだけ言って背を向けた。
「……あの野郎のことは、気にするな。お前を見る目がなかっただけじゃ」
その言葉が、胸に染みた。
そして、その答えを持つ男が現れたのは、翌日のことだった。
◇
「——貴様が、リーシャ・メルヴェイユか」
その声は、冬の湖のように冷たかった。
瓦礫を運んでいた手を止めて振り返ると、そこに立っていたのは——黒い影のような男だった。
漆黒の髪。深い青灰色の瞳。長身で隙のない姿勢。黒を基調とした仕立ての良い服が、曇天の下でも存在感を放っている。
「あ、あの……どちら様でしょうか」
「レイヴン・クロウリー」
名乗られた瞬間、息を呑んだ。
クロウリー公爵家。王国でも五指に入る名門貴族。そして、当主であるレイヴン・クロウリー公爵は——
——「氷の公爵」。「歩く冷気」。感情を持たない男。
「公爵様が、なぜこのような場所に……」
「修復を依頼したい」
私の質問を遮るように、彼は言った。
「え?」
「この大聖堂には、我が一族の秘密が眠っている」
冷たい瞳が、私を射抜く。表情筋が死んでいるかのような無表情。なのに、その視線には不思議な熱があった。
「貴様の腕は知っている。王国一の修復師だと」
「王国一だなんて、そんな……私なんかで、よければ」
「貴様でなければ困る」
一歩、彼が近づいた。
「この大聖堂の構造を熟知し、なおかつ秘密を守れる人間。——条件を満たすのは、貴様だけだ」
「秘密……?」
「地下に、隠された部屋がある。その部屋を、修復してほしい。報酬は——貴様がこの大聖堂全体を修復するのに必要な額を、出す」
「っ——!」
大聖堂全体の修復。その費用がどれほどか、私には痛いほどわかる。国家予算にも匹敵する額。
「なぜ、そこまで……」
「あの部屋には、俺にとって必要なものがある」
彼の声が、一瞬だけ揺らいだように聞こえた。
「——母の、最期の言葉が」
……母?
私は、彼の左手に視線を落とした。薬指に、古びた銀の指輪。年季の入った、女性用の指輪。
「……わかりました。お引き受けします。公爵様」
「条件も聞かずに、か」
「この大聖堂を直せるなら、どんな条件でも」
私は、傍らの瓦礫に手を置いた。
「この子は、私の全てなんです。十年間、毎日一緒にいました。石壁の一つ一つに、私の人生が刻まれています。——崩れたまま放っておくなんて、できません」
「……『この子』」
彼が、妙な響きで呟いた。
「石を、そう呼ぶのか」
「あ、すみません。変ですよね。よく気味悪いって言われます」
「——変ではない」
「え?」
「壊れたものに、心を寄せる。——それが変だというなら、俺も変だ」
冬の湖のような瞳が、一瞬だけ温かく見えた。
「明日から来い。詳細は追って伝える」
踵を返す彼の背中を、私は呆然と見送った。
「あの、公爵様!」
思わず呼び止める。彼が振り返る。
「なぜ……私なんですか。他にも修復師はいるのに」
「言っただろう」
彼の声は相変わらず冷たい。なのに——
「君だけが、必要だ」
その言葉だけは、なぜか胸の奥に熱く響いた。
◇
翌日。私は公爵に案内されて、大聖堂の地下深くにいた。
瓦礫を掻き分け、崩れかけた階段を下り、いくつもの隠し通路を抜けた先。そこには、小さな礼拝堂があった。
「すごい……」
思わず息を呑んだ。天井には色褪せているものの美しいフレスコ画。壁には精緻な彫刻。中央の祭壇には、聖母子像。
「クロウリー家が代々守ってきた、秘密の礼拝堂だ」
公爵の声が、いつもより低く聞こえた。
「幼い頃、俺はここで母と過ごした。母は病弱で、社交界には出られなかった。だからよく、ここで二人きりで祈りを捧げた」
「……」
「十五年前、母はここで亡くなった。俺の目の前で」
言葉が出なかった。
「母は最期に、手紙を残したと言った。この祭壇のどこかに隠したと。——だが崩落で、祭壇が埋もれてしまった」
見れば確かに、祭壇の半分は瓦礫に覆われていた。
「俺は、母の最期の言葉を知らない。あの日、俺がもっと早く助けを呼んでいれば、母は助かったかもしれない。——父には、そう言われ続けた」
「そんな……」
「だから俺は、母が何を伝えたかったのか知りたい。——俺を、許してくれるのか。それとも、恨んでいるのか」
彼の声が、微かに震えていた。
氷の公爵。感情を持たない男。——それが、どれほどの痛みを隠すための仮面だったのか。
「公爵様」
私は、彼の前に歩み出た。
「お母様は、あなたを恨んでなんかいません」
「……何を根拠に」
「この部屋を見ればわかります」
私は、周囲を見回した。色褪せたフレスコ画。摩耗した彫刻。でも、どれも丁寧に手入れされた跡がある。
「この部屋は、愛されていました。石壁の一つ一つに、大切にされてきた記憶が刻まれています。——こんなに愛情深い場所で過ごした方が、息子を恨むはずがありません」
「……」
公爵は、何も言わなかった。でも、その耳の先が——微かに、赤くなっていた。
「必ず、直します。この祭壇も、この部屋も。そしてお母様の手紙を、必ず見つけます。——私に、任せてください」
公爵の瞳が、わずかに見開かれた。そしてぽつりと、呟いた。
「……ああ」
それだけ。たった一言。でも私には、それが「ありがとう」に聞こえた。
◇
作業は、その日から始まった。
そして毎日、公爵がやってくるのだ。
「これを」
「え? また何か……」
「防寒具だ。地下は冷える」
「あの、昨日も同じものをいただきましたけど」
「昨日のは薄かった。これの方が暖かい」
「いえ、でも——」
「着ろ」
「……はい」
断れない。この人、断ると機嫌が悪くなる。いや、機嫌が悪くなったように見えるだけで、実際は——
——心配している、のかな。
「公爵様、その服が汚れます」
「構わない」
「でも、高価なものでしょう」
「服より、貴様の腕の方が大事だ」
——え?
「いや、その、修復師の腕は貴重だという意味で」
公爵は早口でそう言って、顔を背けた。
——耳、真っ赤じゃない?
この人は、不器用なのだ。感情の表し方がわからない。言葉にするのが苦手。だから、行動で示そうとする。
高級な防寒具を黙って置いていく。温かい食事を「通りがかりで目に入った」と渡してくる。作業中、ずっと傍で見守っている。
そして、私を傷つけた相手には——容赦しない。
◇
「聞いたわよ、リーシャ」
その声を聞いた瞬間、私の手が止まった。
振り返ると、ヴィオレッタが立っていた。その隣には——エドガー。
「やあ、リーシャ。元気そうじゃないか」
「……何の御用でしょうか」
「つれないな。かつての婚約者に、その態度か?」
「『かつての』婚約者、ですから」
「クロウリー公爵と親しくしているそうじゃないか。お前のような地味な女が、公爵のお眼鏡にかなったとは思えないが」
「あら、きっと他のことで気に入られたのよ」
ヴィオレッタが、下品な笑い声を上げた。
「所詮、拾われた修復屋風情が、公爵様に取り入ろうなんて。——身体でも売ったの?」
「っ——!」
「黙れ」
冬の嵐のような声が、背後から響いた。
ヴィオレッタの顔が、一瞬で青ざめる。
「こ、公爵様……」
レイヴン公爵が、ゆっくりと私たちの間に歩み入った。その瞳は、今まで見たことがないほど冷たい。いや、凍てついている。
「今、何と言った」
「い、いえ、その、冗談で——」
「冗談には聞こえなかった」
公爵が一歩踏み出す。ヴィオレッタが一歩後退る。
「リーシャは、俺が正式に依頼した修復師だ。その名誉を汚すことは、俺の名誉を汚すことと同義。——理解しているか?」
「も、申し訳ございません……!」
エドガーが、臆することなく公爵を見返した。
「公爵。一つ、忠告しておきます。あの女には気をつけた方がいい。見た目は地味ですが、なかなか計算高い女です。——公爵の財産を狙っているかもしれませんよ」
「財産を狙っている? リーシャが?」
公爵は、数秒間沈黙した。そして——
「……ふっ」
笑った。
「いや、すまない。面白いことを言う。この女は、高級な防寒具を渡しても『もったいない』と断り、最高級の昼食を用意しても『作業着が汚れる』と遠慮する。金に興味がないどころか、金銭感覚が壊れているレベルだ」
「……は?」
「財産を狙う? この女が? ——石を磨く道具があれば満足するこの女が?」
公爵は笑いを収め、エドガーを見た。その瞳は、再び凍てついていた。
「貴様、リーシャと三年も婚約していたのだろう。——その程度のことも、わからなかったのか」
エドガーの顔が、屈辱で赤くなった。
「俺がこの女を選んだのは、腕が立つからだ。修復師として、王国一だからだ。——貴様のような目の曇った男には、一生わからない価値だろうがな」
「……っ」
「帰れ。次に無断で立ち入ったら、不法侵入で訴える」
エドガーは、拳を握りしめた。その翠の瞳が、憎悪で燃えている。
「……行こう、ヴィオレッタ」
二人の背中が、瓦礫の向こうに消えていく。
「……リーシャ。怪我はないか」
「え、あ、はい……」
「あの男に何か言われたか。ひどいことを言われたなら、今からでも社会的に抹殺——」
「だ、大丈夫です! 本当に!」
「……怖かったか」
「少しだけ」
「そうか」
公爵の手が、そっと私の肩に置かれた。温かい。
「もう大丈夫だ。——俺がいる」
その言葉が、凍えた心に染み込んでいく。
「さっき、私のことを『王国一』って言ってくださいましたけど」
「事実だろう」
「いえ、そんな……私なんかで、よければ」
「『私なんか』と言うな」
公爵の声が、鋭くなった。
「貴様は、自分の価値がわかっていない。壊れたものを直し、失われたものを蘇らせる。——それがどれほど尊い技術か、貴様自身がわかっていない」
彼は私を真っ直ぐに見つめた。
「俺の心も、直せるだろうか」
——何を、言っているの。
頭が真っ白になった。
「いや、今のは忘れろ」
「え、でも——」
「忘れろと言っている」
公爵は足早に歩き去っていく。その耳が、真っ赤に染まっているのが見えた。
——俺の心も、直せるだろうか。
その言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
◇
日々は穏やかに過ぎていった。そして、公爵が告げた。
「証拠が揃った。セルヴィンとゴールドウィン家の共謀による、大聖堂崩落計画。全ての証拠を、王宮に提出する」
「レイヴン……」
「あの男たちは、貴様を傷つけた。——許すつもりはない」
「崩落の原因は、地下構造への人為的な干渉。——誰かが、意図的に崩壊させた。大聖堂の地下には、古い宝物庫がある。彼らはそれを狙っていた」
「宝物庫……」
「そして、邪魔だったのだろう。大聖堂を熟知した修復師が。婚約破棄は、貴様を遠ざけるためだった」
「そんな……」
目眩がした。三年間の婚約。それは最初から、利用するためだったのか。
「リーシャ。顔色が悪い。座れ」
「い、いえ、大丈夫——」
「大丈夫じゃない」
強引に肩を押され、瓦礫に腰を下ろす。公爵が、目の前にしゃがみ込んだ。
「あの男は、貴様を見る目がなかった。貴様の価値がわからない男など、貴様の傍にいる資格がない」
「でも、私は……私なんかで——」
「『私なんか』と言うなと言った。貴様は、俺にとって必要な人間だ。修復師としてだけではなく——」
彼は、言葉を詰まらせた。
「いや、今のは——」
「公爵様。私も、あなたのことが……」
言いかけて、声が震えた。まだ、怖い。また裏切られるんじゃないか。また「必要ない」と言われるんじゃないか。
「……リーシャ」
公爵の手が、私の頬に触れた。
「俺は、貴様を傷つけない。約束する。——俺は、貴様を捨てない」
その言葉に、涙が溢れた。
「すみません、泣いてしまって……」
「泣いてもいい。——俺の前では、泣いてもいい」
公爵の親指が、頬の涙を拭った。ぎこちなくて、不器用で。でも、その優しさが——心に、深く染み込んでいった。
◇
修復作業を始めて一ヶ月が経った日。
「公爵様! 見つけました!」
私は、祭壇の隠し棚から取り出した封筒を掲げた。古びた封筒。表には、美しい筆跡で名前が書かれている。
「レイヴンへ」
公爵の顔が、初めて見る表情に変わった。驚きと、恐れと、期待が入り混じった——脆い表情。
「……本当に、あったのか」
「はい。十五年間、ここで待っていたんですね」
公爵は、震える手で封筒を受け取った。封を開ける。中から、便箋が現れる。
彼は、長い間その手紙を見つめていた。やがて——肩が、震え始めた。
「公爵様……?」
「……母は。俺を、恨んでいなかった」
「……」
「『あなたは何も悪くない』と。『生まれてきてくれてありがとう』と。『あなたがいたから、私は幸せだった』と——」
公爵の声が、途切れた。
「十五年。十五年間、俺は——」
彼は、顔を覆った。長身の体が、震えている。声を殺して、泣いている。
私は、何も言えなかった。ただ、彼の傍に立った。そっと、肩に手を置いた。
彼の体温が伝わってくる。冷たいと思っていたこの人が、こんなにも温かいことを——初めて、知った。
「……すまない。醜態を晒した」
「いいえ。お母様に、会えたんですね」
「ああ。——十五年越しに」
彼は、手紙を胸に抱いた。
「母は最後に、こう書いていた。『いつか、あなたの心を溶かしてくれる人が現れる。その人を、大切にしなさい』と」
「……」
「リーシャ。貴様が、見つけてくれた」
「え?」
「母の手紙を。そして——俺の心を」
——あ。
「貴様がいなければ、俺は一生、凍ったままだった。だから——」
彼は、言葉を詰まらせた。何かを言おうとして、言えないでいる。耳が、真っ赤になっていく。
「……くそ、言葉にできない。俺は不器用だ。感情の表し方がわからない。だから、行動で示す」
「行動……?」
彼は、懐から何かを取り出した。小さな箱。開けると、中には——銀の指輪。
「これは、母の形見と対の指輪だ。——俺の伴侶に、渡すものだ」
「……っ」
「リーシャ・メルヴェイユ。俺と——」
「待ってください!」
私は思わず叫んだ。
「ま、まだ、心の準備が——」
「……そうか。いやだったか」
「いやじゃないです! 全然いやじゃない! ただ——」
「ただ?」
「その……嬉しすぎて、頭が……」
「……嬉しい?」
「はい。嬉しいです。すごく。だから——お受けします」
彼の瞳が、大きく見開かれた。そして——微かに、笑った。
「……そうか」
たった一言。でも、その声は——今まで聞いたどの言葉よりも、温かかった。
指輪が、私の薬指に嵌められる。
「俺が関与すると、壊れると思っていた。でも、貴様と一緒なら——壊れても、直せる」
「公爵様……」
「レイヴンでいい」
「え?」
「名前で呼べ。——妻になるのだから」
「……レイヴン、様」
「様もいらない」
「れ、レイヴン……」
彼は満足そうに頷いた。そして——
「リーシャ。これからは、貴様が俺の聖域だ」
——聖域。
「修復師としてではなく。貴様自身が、俺にとっての聖域だ」
そう言ってくれた。私自身を、愛してくれた。
涙が、止まらなかった。
◇
裁判は、公開で行われた。
王宮の大法廷。貴族たちが見守る中、エドガーとヴィオレッタは被告席に座っていた。
「セルヴィン子爵、ゴールドウィン家令嬢。大聖堂崩落を企てた罪、歴史的建造物の破壊罪、詐欺罪——全てにおいて、有罪とする」
「嘘だ! 俺は何もしていない! 全てはゴールドウィン家の計画で——」
「あなた、何を言っているの!? 計画したのは、あなたでしょう!?」
「黙れ! お前が唆したんじゃないか!」
共犯者同士の醜い罵り合い。
「——見苦しい」
レイヴンが、低い声で呟いた。
「貴様たちが何を言おうと、証拠は揃っている。地下の宝物庫を狙った詳細な計画書。崩落を仕組んだ工作員への支払い記録。全て、押収済みだ」
「お前だ。お前のせいだ、リーシャ! お前が余計なことをしなければ——」
「余計なこと?」
私は、静かに言い返した。
「私はただ、大聖堂を修復しただけです」
「それが余計だと言っている! お前が大人しく消えていれば——」
「消える?」
私は、彼の目を真っ直ぐに見た。
「あなたは、私に消えろと言った。大聖堂と一緒に朽ちろと。でも、私は消えなかった。朽ちなかった。——大聖堂も、私も」
私は、傍らに立つレイヴンを見上げた。
「壊れても、直せるんです。——私を見つけてくれた人が、いたから」
「リーシャ……」
「だから、もう怖くない。あなたたちの言葉に、傷つかない。さようなら、エドガー。——幸せになれなくて、残念です」
「貴様……!」
「判決を言い渡す。セルヴィン子爵家は、爵位剥奪。全財産没収の上、流刑に処す。ゴールドウィン家は、貴族籍剥奪。全財産没収の上、追放に処す」
「嫌よ……! 私は、こんなところで終わるはずじゃ——」
衛兵に連れていかれる二人の背中を、私は無表情で見送った。
かつては、この二人に傷つけられた。でも今は——何も、感じない。
「終わった」
「……はい」
「もう、貴様を傷つける者はいない」
「ありがとう、レイヴン」
「俺は何もしていない。——貴様が、自分で立ち向かった」
「あなたがいたから、立ち向かえた」
彼は、わずかに目を伏せた。——耳、赤くなってる。
「……帰るぞ」
「はい」
背後から、エドガーの叫びが聞こえた。
「俺が選んでやったのに——! 身の程を知れ、リーシャ——!」
私は振り返らなかった。振り返る必要など、もうなかった。
◇
大聖堂の修復が、完了した。
かつて崩れ落ちた尖塔は、今は青空に向かって真っ直ぐに伸びている。ステンドグラスは陽光を受けて虹色に輝き、石壁は磨き上げられて白く輝いていた。
「……綺麗」
私は、大聖堂の前に立ち、その姿を見上げた。
「よくやった」
背後から、しわがれた声がした。
「師匠」
「ワシの弟子が、やり遂げた」
「師匠に教えていただいたおかげです」
「謙遜するな。これは、お前の力じゃ。ワシは……この日を見届けられて、良かった。お前が幸せになるところを、見届けられて」
「師匠?」
「あの公爵が、お前を泣かせたら、ワシが許さんからな」
「泣かせませんよ。——多分」
「多分?」
「嬉し泣きは、させられるかもしれません」
師匠は、くしゃりと顔を歪めた。
「馬鹿者が」
でも、その声は——優しかった。
◇
結婚式は、修復された大聖堂で行われた。
純白のドレスに身を包み、私はヴァージンロードを歩いた。かつて崩れ落ちた尖塔の下。今は、光が降り注ぐ祝福の場所。
祭壇の前には、黒い礼服に身を包んだレイヴンが立っていた。いつもの無表情。でも、その瞳は——柔らかく、光っている。
「緊張しているのか」
「少しだけ」
「俺もだ」
「……嘘でしょう」
「本当だ。——耳を見るな」
彼は小さく咳払いをして、私の手を取った。
「リーシャ・メルヴェイユ。俺は、貴様に誓う」
「……」
「貴様を、生涯守る。傷つける者がいれば、排除する。貴様が泣けば、傍にいる。貴様が笑えば、俺も笑う——いや、笑い方がわからないから、努力する」
「レイヴン……」
「貴様は、俺にとっての聖域だ。廃墟じゃない。壊れものじゃない。——俺の全てだ」
涙が、溢れた。
「私も。私も、あなたに誓います。壊れても、何度でも直す。——あなたが、隣にいてくれるなら」
レイヴンの瞳が、揺らいだ。
「リーシャ」
彼は、私の額に唇を落とした。温かい。この冷たいと思っていた人が、こんなにも——温かい。
「一生、離さない」
「……はい」
「約束だ」
「はい」
祝福の鐘が鳴り響く。崩れ落ちた大聖堂は、今は二人の永遠を見守る聖域となった。
「あーーーーー! ついに! ついにこの日が来たーーーー!」
後ろの席から、クロエの叫び声が聞こえた。
「従兄様が結婚! 信じられない! 十年前の泣き虫レイヴンが!」
「クロエ、黙れ」
「いやです! この喜びを全王国に伝えたい!」
「社会的に抹殺するぞ」
「義姉様、助けて!」
私は、思わず笑った。レイヴンも——微かに、口角を上げた。
「笑った」
「笑ってない」
「笑いました」
「気のせいだ」
「——私には、わかります」
レイヴンは、小さくため息をついた。
「……貴様には、敵わない」
「いいんですか? それで」
「ああ。一生、敵わなくていい」
陽光が、ステンドグラスを通して降り注ぐ。かつて崩れ落ちた尖塔の下で、二人は永遠を誓った。
壊れても、何度でも直せる。
——隣に、この人がいるから。
【完】




