第9話「母の手、兄の背」
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エレナが台所に立つ時、決まって歌を口ずさむ。
旋律はアルヴェス領に伝わる古い子守唄だ。
歌詞の意味は分からないが、エレナの声は高くも低くもない、ちょうど耳に留まる音域にある。
六歳の体は、その歌を妙に心地よく感じていた。
「レイン、今日は一緒にお菓子を焼かない?」
エレナが台所の入口に立つレインに声をかけた。
ファルネーゼ風の焼き菓子。
小麦粉に卵と蜂蜜、それから干した果実を混ぜ込んで焼く。
素朴だが、セドリックの好物だ。
「じゃあね、お母さんとレインで、一つずつ作りましょう。どっちが美味しくできるか、勝負よ」
エレナは悪戯っぽく笑って、ボウルを二つ並べた。
レインは頷いた。
菓子作りの工程は単純だ。
材料の配合比さえ正確なら、失敗する要素はない。
レインは手際よく取りかかった。
まず小麦粉と蜂蜜を先に合わせる。
こうすれば卵を加えた時にダマになりにくい。
卵は縁に軽く当てて均等に力を加え、殻が一片も入らないように割る。
干した果実は大きさを揃えて刻み、生地に均一に散らす。
練る回数も最適化した。
多すぎれば固くなり、少なすぎれば粉っぽくなる。
隣で、エレナは歌いながら生地を練っていた。
卵を先に入れている。
蜂蜜の量も目分量だ。
果実は刻まずにそのまま放り込んでいる。
練る手つきもゆっくりで、時折セドリックの話をしながら手を止めている。
——非効率だ。
レインはそう思いながら、自分の生地を仕上げた。
滑らかで、均一な色合い。完璧な仕上がりだった。
二つの焼き菓子が竈から出てきた。
見た目は、レインの方が綺麗だった。
形が整っていて、焼き色も均一。
エレナの方は形がいびつで、果実が偏っている。
「さあ、味見よ」
エレナがレインの焼き菓子を一口かじった。
目を丸くして、大きく頷いた。
「美味しい! レイン、すごいわ。お母さんより上手かもしれない」
嬉しそうに頬を押さえている。
大袈裟だ、とレインは思った。
手順通りに作っただけだ。
「レインも、お母さんの食べてみて」
レインはエレナの焼き菓子を手に取った。
いびつな形。不揃いな果実。見た目は明らかに自分の方が上だ。
一口、かじった。
——美味しい。
自分のより、美味しい。
なぜだ。
材料は同じだ。
手順はエレナの方がずさんだった。
配合も目分量で、練り方も雑だった。
なのに——この焼き菓子には、自分のにはない何かがある。
もう一口、かじった。
蜂蜜の甘さが柔らかい。
果実の大きさが不揃いだから、噛むたびに違う味がする。
自分の焼き菓子は均一で、正確で、どこを食べても同じ味だった。
エレナの焼き菓子は——ばらばらなのに、それが心地よかった。
「……美味しいです」
声が、思ったより正直に出た。
「ほんと? 嬉しい」
エレナは微笑んで、レインの焼き菓子をもう一つ手に取った。
本当に美味しそうに食べている。
自分の方が劣っているとも思っていない。
ただ純粋に、息子が作ったものを味わっている。
——同じ材料。同じ菓子。なのに、味が違う。
論理的には説明がつかない。
配合の正確さも、手順の効率も、レインの方が上のはずだ。
なのにエレナの焼き菓子の方が美味しかった。
その差が何なのか、レインには分からなかった。
* * *
その週の休日、一家でフィルモスの町に出かけた。
セドリックが子供向けの剣術大会に出場するためだ。
セドリックは九歳になっていた。
肩幅が広くなり、手足が伸び、子供の丸みが少しずつ抜け始めている。
父グレンと同じ栗色の髪を短く刈り込み、朝から木剣を握って素振りをしていた。
「見ててね、レイン。今日は勝つから」
セドリックは出番前にそう言い残して、闘技場の砂地に飛び出して行った。
観客席は領民たちで埋まっている。
グレンは腕を組んで無言で見守り、エレナはレインの隣で手を握りしめていた。
試合が始まった。
セドリックの動きは悪くなかった。
基礎に忠実で、足運びが丁寧だ。
一歩踏み込み、木剣を振り下ろす。
乾いた打撃音が闘技場に響いた。
レインの目には、兄の剣筋が「正しい教科書通りの型」であることが分かる。
しかし——対戦相手の少年は違った。
背丈はセドリックより半頭分低い。
だが踏み込みが深い。
型を崩してでも間合いを詰める、荒削りだが大胆な剣だった。
二合、三合。
木剣がぶつかり合う度に、セドリックがわずかに後退する。
足を踏み直す一瞬の隙を、相手は見逃さなかった。
低い姿勢から跳ね上げるような一撃。
セドリックの木剣が弾かれ、砂地に落ちた。
負けた。
セドリックは砂地に膝をつき、しばらく動かなかった。
顔は見えないが、肩が震えている。
グレンが立ち上がった。
大股で砂地に降り、膝をついたままの長男の前に立った。
レインは父の表情を読もうとした。失望か。叱責か。
しかしグレンは、セドリックの頭に大きな手を置いた。
「よく頑張ったな、セドリック」
低く、静かな声だった。
セドリックが顔を上げた。目が赤い。
「負けた……父上」
「ああ、負けた。だが、最後まで逃げなかった。立派だった」
グレンはそう言って、息子の肩を叩いた。
セドリックの目から涙がこぼれた。
泣きながら、しかし顔は笑っていた。
レインはその光景を、観客席から見つめていた。
——負けたのに、なぜ褒めるんだ。
結果がすべてではないのか。レインはそういう世界で生きていた。
隣でエレナが、涙を拭いていた。
「お母さん、なぜ泣いているの。セドリック兄さんは負けたのに」
エレナはレインを見下ろし、少し困ったように微笑んだ。
「セドリックはね、お父さんに褒めてもらいたくて一生懸命だったの。結果じゃないのよ、レイン。その気持ちが——嬉しいの」
理屈では分かる。
だが、実感がない。
「褒めてもらいたくて頑張る」という動機が、レインには掴めなかった。
評価は結果に付随するものであり、感情ではなく実績が基準だ。
セドリックが観客席に戻ってきた。まだ目が赤い。しかし、晴れやかな顔をしていた。
「レイン、次は勝つ。絶対に」
兄の背中は、負けた直後とは思えないほど真っ直ぐだった。
——結果ではなく、気持ち。
言葉としては理解できる。しかし、胸の中で何かが噛み合わない。それが何なのか、レインにはまだ分からなかった。
* * *
秋の終わりに、エレナが熱を出した。
医者は「季節の変わり目の風邪」と言った。大事ではない。安静にしていれば数日で治る。
レインは即座に動いた。
まず、町の薬師から解熱の薬草を手配した。
次に、エレナの看病のスケジュールを組んだ。
朝はメイドのクラーラが食事と水を運び、昼はレインが薬を飲ませ、夕方にもう一度医者に診せる。
夜の容態確認は自分が担当する。
完璧な手配だった。すべきことをすべて実行した。
二日目の昼、レインは薬湯を持ってエレナの部屋を訪れた。
「お母さん、薬です。今朝より熱は引いているはずです」
エレナはベッドの上で身を起こし、薬湯を受け取った。
顔色は悪いが、目に力はある。
大事には至らない。
「ありがとう、レイン。あなたが全部手配してくれたんですってね。クラーラが感心していたわ」
「必要なことをしただけです」
「そうね」
エレナは薬湯を一口飲み、小さく顔をしかめた。苦いのだろう。しかし文句を言わず飲み干した。
空になった器を受け取ろうとしたレインの手を、エレナが両手で包んだ。
「レイン」
「……はい」
「ありがとう。でもね——」
エレナは微笑んだ。頬がまだ熱で赤い。
「そばにいてくれるだけで、いいのよ」
レインの手を握るエレナの掌は、熱のせいで普段より温かかった。
「……そばにいるだけでは、熱は下がりません」
「下がらないわね」
エレナは笑った。
「でも、元気にはなるの」
意味が分からなかった。
論理的に筋が通らない。
そばにいるだけで何が変わる。
薬を飲み、安静にし、栄養を摂る。
回復に必要な要素はそれだけのはずだ。
——分からない。
エレナの手を握り返すべきなのだろう。
しかし体が動かない。
何を言えばいいのかも分からない。
「お大事に」? 「早く良くなってください」? どれも——正しいが、足りない気がする。
レインは結局、空の器を持って部屋を出た。
廊下で、ヴァルターと行き合った。
老人は壁に背を預けて立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
レインが薬湯を運んでいく時には、いなかったはずだ。
「先生」
「ちゃんと薬を飲ませたか」
「はい。スケジュール通りです」
「そうか」
ヴァルターが目を細めた。
いつもの、何かを見透かすような目だ。
「レイン。一つ訊いてもよいかの」
「何でしょう」
ヴァルターは答えなかった。
廊下の窓から差し込む夕陽が、老人の白髪を橙に染めている。
しわだらけの手が袖の中に隠れ、灰色の瞳だけがレインを見ていた。
長い沈黙。
まるで、次の言葉の重みを計っているかのようだった。
「お前——母親の手を、握ったことはあるか?」
レインは答えられなかった。
握っていない。
先ほど、エレナがレインの手を握った。
しかしレインの方から握り返したことは——一度もない。
「……それが、何の役に立つのですか」
声が、思ったより小さかった。
ヴァルターは答えなかった。ただ一度だけ、レインの頭にそっと手を置いて、去って行った。
廊下に一人取り残される。手のひらに、エレナの熱がまだ残っている。
——握ればいいだけだ。たったそれだけのことが、なぜできない。
握ることに意味を見出せなかった。
手を握って、何が解決する。
何が変わる。
しかし今、エレナの掌の残り熱を感じながら、レインは初めて思った。
——変わらなくても、いいのかもしれない。
その考えは一瞬で消えた。頭が否定する。根拠のない直感は信用できない。合理的な判断だけが、正しい行動を導く。
レインは薬湯の器を台所に戻し、次の薬の準備に取りかかった。
手は動く。段取りは組める。やるべきことなら、いくらでもある。
——握るだけでいい。たった、それだけのことなのに。
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