第6話「二つの月の下で」
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四歳になった春、レインはアルヴェス家の日常を「観察する」ことに決めた。
朝の食卓。
セドリックが、パンの端をちぎって頬張りながら話している。
「今日の稽古で、ブレイ先生に褒められたんだ。『構えが良くなった』って。父上、聞いた?」
グレンが頷く。
「聞いた。だが、足の運びがまだ遅いと言っていたぞ」
セドリックの顔が一瞬曇る。
しかしすぐに顎を上げた。
「明日はもっと速くする」
エレナが微笑んでセドリックの皿にチーズを載せる。
「たくさん食べなさいね。強くなるには体が資本よ」
何気ない朝のやり取り。
しかしレインは、別のことを見ていた。
セドリックが父に褒められたくて目を輝かせていること。
グレンが指摘の後にわずかに口元を緩めていること。
エレナがチーズを載せる手の動きに、息子への誇りが滲んでいること。
──見えている。以前より、ずっと多くのものが見えている。
しかし、見えることと理解することは違う。
レインはこの家族の感情の動きを「観察」することはできた。
だが、それが自分にとって何を意味するのかは、まだ分からなかった。
* * *
午後。
セドリックの剣術の稽古を、庭の木陰から眺めた。
教官はブレイという壮年の男で、アルヴェス家に長く仕える剣士だった。
セドリックは木剣を握り、基本の型を繰り返している。
六歳。まだ剣は体に馴染んでいないが、構える姿には兄なりの真剣さがあった。
「腰が浮いている。重心を落とせ」
ブレイの指示が飛ぶ。
セドリックが歯を食いしばって腰を沈める。
汗が顎から落ちる。
レインは木陰で膝を抱え、それを見ていた。
セドリックの顔に浮かんでいるのは、苦痛ではなかった。
苦しいはずなのに、その目は生き生きとしていた。
強くなりたい。
父に認められたい。
弟を守れる兄になりたい。
言葉にはしないが、そうした想いが、汗だくの六歳児の体から滲み出ている。
効率では測れないものが、ここにはある。
レインは、それが分かっていた。
* * *
夕刻。
エレナが、レインの手を引いて屋敷の裏手の丘を登った。
アルヴェス領の東にある、なだらかな丘。
頂上には一本の樫の木が立っていて、その下から領地全体が見渡せる。
麦畑が夕日に染まって金色に輝いている。
遠くに小川の銀色の線。
その向こうに、どこまでも続く平原と、低い山並みの影。
空が燃えていた。
赤と橙と紫が溶け合い、雲の縁が金に輝く。
この世界の夕焼けは、地球のそれとは色が違った。
空気に含まれる何か──星脈の影響かもしれない──のせいで、赤の中にかすかに青い光が混じる。
現実離れした美しさだった。
エレナが、樫の木の根元に腰を下ろした。
レインをその隣に座らせ、夕焼けを眺める。
「ここから見る夕焼けが、お母さんは一番好きよ」
風が吹いた。
エレナの銀の髪が揺れる。
夕日の中で、その髪が淡い金色に見えた。
「お父さんにね、初めてここに連れてきてもらったの。まだ結婚する前よ。
不器用な人だから、何も言わないで、ただ二人で並んで座っていたわ」
エレナが笑う。
懐かしそうに、少しだけ照れくさそうに。
「でも、それが良かったの。何も言わなくても、一緒にいるだけで。
──ここの夕焼けを見ていると、そういう気持ちになれるの」
レインは黙って聞いていた。
「いつか、あなたの大切な人にも見せてあげてね。この夕焼けを」
大切な人。
その言葉が、胸の中で反響した。
──大切な人。前の人生では、そんなものは作れなかった。
いや。作れなかったのではない。作らなかったのだ。
美咲は大切にされたかっただろう。翔太は父親に大切にされたかっただろう。
二人とも、最初から俺の「大切な人」だったはずだ。
俺がそれを選ばなかっただけだ。
「……お母さん」
「なあに?」
「僕にも、できるかな」
言葉にしてから、自分でも驚いた。
三歳児──いや、四十七年を生きた男が、母親にそんなことを訊いている。
エレナは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「できるわよ。レインなら」
根拠のない断言だった。レインは何も言わなかった。
夕焼けが、ゆっくりと暮れていく。
空の赤が紫に変わり、最初の星が一つ、瞬き始めた。
* * *
夜。
家族が寝静まった後、レインは屋敷の書庫に忍び込んだ。
燭台の薄い光を頼りに、棚から本を引き抜く。
子供向けの入門書は読み終えた。
今夜の目当ては、もう少し踏み込んだ書物だ。
『ノルディス概史──大崩壊より現代まで』。
分厚い革装丁の本で、埃を被っていた。おそらく長い間、誰も開いていない。
頁を繰る。
情報が流れ込んでくる。
星暦八一二年。「大崩壊」。
古代文明を滅ぼした原因不明の大災害。
星脈が大規模に乱れ、大陸各地に「死域」が生まれた。
文明は断絶し、数百年の暗黒時代が続いた。
現在は星暦一五二三年。
大崩壊から七百年以上が経過し、文明は再建されている。
しかし古代文明の技術は大部分が失われたままだ。
五大国。
央域を治める自国ファルネーゼ。
北の鉱山地帯を握るカルドゥス鉄盟。
南の森を抱くヴェルデ諸部族連邦。
西の海を制するソレイユ海洋共和国。
そして東の荒野に孤立するアリダ守護領。
五つの国が大陸を分かち、資源と星脈を巡って互いを牽制し合っている。
レインの脳が、自動的に動き始めた。
各国の地理的な制約、資源の偏在、大崩壊という歴史的トラウマが政策に与える影響。
面白い。
純粋に、知的好奇心が刺激されていた。
この世界の構造は複雑だ。
複雑であればあるほど、その中に何が隠れているのか、それを知りたくなる。
胸の底で、何かが疼いている。
しかし、と本から顔を上げた。
窓の外を見る。二つの月が出ていた。
大きな青白い月と、小さな赤みがかった月。
五大国の均衡は脆い。
歴史書の記述から読み取れるのは、四十年前の「西方大戦」以降、表面的な平和が保たれているにすぎないという事実だ。
アリダの孤立と不満。ファルネーゼ内部の貴族間抗争。
ヴェルデとの森林開発を巡る対立。どこから火がついてもおかしくない。
ふと、数日前の光景が蘇った。
グレンが執務室で、見慣れない紋章の封書を読んでいた。
読み終えた後、父は珍しく眉間に深い皺を刻み、暖炉の火に封書を投げ入れた。
炎が紋章を舐め、紙が黒く縮んで灰になった。
何が書いてあったのかは分からない。
しかし、父があの表情をするのを見たのは初めてだった。
この世界は──前の世界より遥かに不安定だ。
本を閉じた。
燭台の炎が揺れている。
しかし、とレインは思った。
今日の夕焼けを思い出す。
エレナの横顔。セドリックの汗だくの笑顔。
グレンの不器用な口元の緩み。
四人で囲んだ朝の食卓。
この世界は──前の世界より、温かい。
月明かりが窓から差し込み、書庫の床に二つの影を落としていた。
二つの月。二つの人生。
かつての四十七年と、これからの時間。
燭台を吹き消し、暗くなった書庫を後にする。
自室に戻る廊下の窓から、丘の上の樫の木のシルエットが見えた。
エレナと一緒に夕焼けを見た、あの丘。
翌年、アルヴェス家に一人の老人が訪れる。
その時はまだ知らなかった。
あの偏屈な老人が、レインの人生を変える教師になることを。
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