第1話 あるべきものが無く、無いはずのものがある、そういう話
空に落ちる夢を見た。
真っ逆さまに何もない空を落ちる夢。
雲一つない真っ青な空、頭上には海、頬を打つ風と日差し。
意識は朦朧としていて夢の中に近い。というか夢だ、たぶん。そう思った。
手足もうまく動かないし、それに頭から真っ逆さまに落ちているというのに、頬に触れる風はやさしくて、まるで空をふわふわと漂っているようだった。
現実ではきっとありえない。
私はまどろみに身を任せ、重い瞼を閉じた。
――少女が目を覚ました時
最初に感じたのは、風だった。
頬をくすぐる心地よい風…などと思っていたら急に横殴りにビンタされたみたいな強風が口と鼻を蹂躙して、髪をぐしゃぐしゃにしていった。
「ぶぁっ」
さすがに目を見開き、首を横に振る。
目に飛び込んできたのは、青とグレー。
どこまでも続く青い空と、その下にある――固く、平らすぎる灰色の地面。
地面?
違う、と少女の直感が告げる。
あまりにも広く、どこまでも継ぎ目のない人工的な造形。
そう、それは整いすぎていた。規則的に並んだ白線。遠くには鉄の塔のような構造物。
そして――
(低く唸るようなタービンの音?)
「……なに、ここ…?」
自分の声がやけに小さく感じた。風にさらわれて消えていく。
身体を起こそうとしたけれど、ふらりと視界が揺れる。少女の頭の奥は空っぽだった。
何も思い出せない。名前すら出てこない。
混乱する。
怖い――そんな気持ちが少女の心の中を支配しそうになったその時だった。
「――い、おーい――」
遠くから、誰かを呼ぶような声。
「おーい!」
元気な声が、風を切って飛び込んできた。
振り向くと、そこにいたのは目をらんらんと輝かせた一人の少女だった。
毛先の少し跳ねた、ボーダーコリーみたいなさらりとした癖毛。
半袖ショートパンツで、動きやすそうな服装。
身のこなしは軽やかで、まるで、今にも空へ飛び上がりそうな元気な女の子だった。
「よかった、生きてる!」
「え?」
戸惑う間もなく少女の顔を、元気な少女が覗き込む。距離が近い。屈託のない笑顔。
「いやー、急に落っこちてきたからさ、間に合わなきゃ人間トマトだねって話してたんだよー、えへへ」
「あの、え…と」
よく見れば、服装は白を基調とした軍服のようなデザイン。かなり装丁がよく高価な縫製に見える。
胸を張り満点の笑顔で足を大きく開いて立つ、見るからに元気そうな女の子。
ショートパンツの隙間から、機能的で飾り気のないグレーの下着がちらりと覗いているが、本人はまったく気にする様子がない、というか気付いていない。
「んん?ね、大丈夫?なにかあった?どしたの?」
大きくきらきら光る薄ブラウンの瞳が、少女を興味深そうに見つめている
――なんだか本当に元気な仔犬みたいだ
「えっと……落っこちてきた?」
「うん、君が空から、ひゅーんって」
――それで人間トマト…なんという物騒な表現
「…………」
そんなことより、何か答えないと、そう思ったが言葉が出てこない。
記憶が無い、と言って信じてもらえるだろうか、なんといえば分かってもらえるだろうか、そんなこと思うと、どう声をかけていいかが分からなかったのだ。
するとそんな様子を見ていた元気な少女は、一瞬だけきょとんとしたあと、すぐに
「あっ!」と声を上げた。
「もしかして、記憶ない感じ?よくあるやつ!」
――よくあるんか
聞き返す間もなく元気な少女があれこれ言葉を投げかける。
「大丈夫大丈夫!とりあえずここ、風強いしさ。中に入ろ!」
元気な少女はぐいっと手を引いた。驚くほど軽やかに、小さな体からは想像もできない強い力で。
連れていかれるまま少女は立ち上がる。
足元がわずかに揺れていることに、そのとき初めて気づいた。
「……揺れてる……?」
「そりゃ揺れるよ、海の上だもん!」
元気な少女は当たり前のように言った。
「ここ、空母の甲板だよ!」
――空母。テレビのニュースとかでしか聞いたことない名前。確か飛行機を沢山乗せて海を航海するっていう、大きな船
「私はコメット!」
「コメット…ちゃん?」
――不思議な名前。外国人…だよね、顔立ちもそうだし。
「コメットでいいよ!」
コメットは手を引いて歩きながら元気よく返事をして、顔だけ振り向いて二カッと笑った。
「とりあえずさ、あなたのことも教えてよ――名前!」
途端に少女は言葉に詰まった。
名前・・・それすら、思い出せないからである。
「……わから、ない……」
風が吹き抜ける。
一瞬だけ、コメットは黙った。
けれどすぐに、にぱっと顔を明るくする。
「あれー?みんな名前だけは覚えてるっていうか、こっちでの名前は知ってるってパターンが多いんだけど・・・」
「え……?」
――こっちでの名前
その言葉を聞いた途端
自然と頭の中に一つの名前が浮かび上がった。
馴染みのない名前、きっともといた場所でも、自分の周りにそんな名前の人はいなかったはず。漫画やゲームの中のキャラクターの名前、そんな遠い感覚――無いはずの、消えてしまったはずの記憶がそう言っていた。
でも、ふと浮かんだその名前が、自分の名前なのだと、何故だかはっきり実感できた。
「アン…ジュ。アンジュ…」
その名前が、自分のものだと――不思議と確信できた。
アンジュは、小さく息を呑んだ。
すると、なぜだかそれを聞いたコメットは、難しい顔になり、眉間を指でぐりぐりしながら難しいことを考えている…風のポーズをとりだした。いやポーズではないのだろう、本人は至って真剣だ。
「あのね~、えーっと…、ん~、わたし聞いたことない…ん~…」
それは初対面なのだからそうだろう――とアンジュは思ったが、しかしコメットの悩み様はそういった単純なものでもなさそうだ。何か理由があるのだろう。
しかし――
「ま、いっか。
とりあえず、みんなのところに行こう、たぶん信濃さんかグロさんとかがなんとかしてくれる!」
意外と早くコメットは結論を放り投げた。
――信濃さん、グロさん、というのがどんな人かは知らないけれど、なんか頼りになる人達らしい。
そんなどこか他人任せというか、バカっぽいコメットの言動に、アンジュは純粋に親近感を覚えた――あれだ、この子たぶん抜けてる子だ。
アンジュは再びコメットちゃんに手を引かれ歩きだす。
(ん?…あれ?)
しかしふと、どこか違和感を感じる。
なんだかいつもと違う。
具体的には目線が少し、いやかなり低い。それに――
(なんていうか、バランスが悪いっていうか、こう…歩くたびになんだか、ぶらぶらして、ん?)
血の気が引き、アンジュは慌てて体のあらゆるところを“ぱふんぱふん”と叩いて確かめる。
(胸のあたり…ない!ない!え!?うそ、縮んだ!?)
「え!?なに、どしたの?」
突然バフバフと自分の体を叩き出したアンジュに驚いたコメット。
そしてお腹の下あたりを確かめたアンジュ――しかし
「にょわああああああ!!」
突如この世の者とは思えない叫び声をあげた。
「ぎょえええええええ!!」
コメットもそれに驚いて奇声を上げたのだった。
あるはずのものが無く、無いはずのものがある。
そう、なんとアンジュは、おとこのこになってしまっていたのです。
まず最初に、議論したい、重大なテーマについてここに記しておく。
それは、
男主人公なのか
女主人公なのか
である。
この議論について、私は実に驚くべき証明を発見してしまった。
しかし、それを記すための余白が足りない。
よって、ここに記載することを断念する。
2026.3.31作者




