第4話 「君の声は耳障りだ」と言われたので、完全防音の『静寂結界』を張って引きこもっていたら、なぜか国一番の魔導師様が「ここだけ静かでよく眠れる」と転がり込んできました
深夜二時。
草木も眠る丑三つ時ですが、私の家には幽霊よりも厄介なものが彷徨いていました。
ドサッ。ガタッ。
……コツ、コツ、コツ。
客室の方から、絶え間なく物音が聞こえてきます。
ベッドに倒れ込む音。
すぐに起き上がり、床を歩き回る音。
そして、苦しげな呻き声。
私は読んでいた本を閉じ、眼鏡を外して眉間を揉みました。
私の安眠が妨害されています。
これは由々しき事態です。
「……さすがに、放っておけませんか」
私はガウンを羽織り、ランプを手に客室へと向かいました。
ノックを三回。
「起きていらっしゃいますね?」
返事はありませんが、気配はあります。
失礼してドアを開けると、そこには惨憺たる光景が広がっていました。
アレクセイ様が、壁に手をついて荒い息を吐いていました。
昼間よりも顔色が悪く、目の下のクマが濃くなっています。
額には脂汗が滲み、瞳は血走っていました。
「……うるさい……」
「はい?」
「音が……止まない……頭が、割れる……」
彼はうわごとのように呟き、頭を抱えています。
私は耳を澄ませました。
しかし、聞こえるのは外の風鳴りだけで、室内は二重窓と防音結界のおかげで静寂そのものです。
「静かなものですよ。幻聴でしょうか」
「違う……魔力の、残滓が……世界中が、叫んでいる……」
よく分かりませんが、どうやら彼は私の感知できない「音」に悩まされているようです。
繊細な方ですね。
ですが、彼が眠ってくれないと、看病する私が寝不足になります。
回復が遅れれば、それだけ滞在期間も伸びてしまいます。
非効率です。
即刻、改善しましょう。
「少しそこをどいていただけますか」
私はふらつく彼を椅子に座らせると、ベッドの上の寝具をすべて引っ剥がしました。
そして空間に手を差し入れます。
「取り出し(アウト):『王室御用達・最高級水鳥羽毛布団(シルクカバー付き)』」
「取り出し(アウト):『形状記憶魔導枕(低反発)』」
ふわり、と純白の布団が舞い降りました。
これは以前、カイル殿下が「色が地味だ」という理由だけで突き返してきた逸品です。
中身は最高級なのに、見る目がないですね。
おかげで私の在庫になっていたのですが、ここで役立つとは。
さらに、サイドテーブルに小さな香炉を置きました。
「取り出し(アウト):『安眠の香(ラベンダー&カモミール配合)』」
薄紫色の煙が立ち上り、甘く優しい香りが部屋に広がります。
私の実家で、ヒステリックな継母を黙らせるために開発した特製の香りです。
効果は実証済み。
「さあ、どうぞ。これで眠れるはずです」
私が促すと、アレクセイ様は虚ろな目でベッドを見ました。
「……無駄だ。私はもう五年も、まともに眠れていな……」
言いかけて、彼はふと鼻を動かしました。
香りを吸い込んだ瞬間、強張っていた肩の力が抜けます。
「……いい匂いだ」
「でしょう? 毒ではありませんから、横になってください」
彼はおずおずと、新しい布団に身を横たえました。
雲のように柔らかい羽毛が彼を包み込みます。
「…………」
彼は瞬きを数回繰り返しました。
そして、信じられないものを見るような目で私を見上げます。
「……音が、消えた」
「防音結界は最初から張っていますが」
「いや、違う。君が来てから……いや、この布団か? 霧が晴れるように……」
彼の言葉は次第に不明瞭になり、瞼が重力に負けて落ちていきました。
「……あたた、かい……」
数秒後。
スースーという、規則正しい寝息が聞こえ始めました。
完全に落ちましたね。
子供のように無防備な寝顔です。
起きている時はあんなに鋭い目つきなのに、眠っていると年相応の青年に見えます。
「おやすみなさいませ。……ふぅ、やれやれ」
私は彼に布団をかけ直し、ランプの光を落としました。
これでやっと、私も眠れます。
夜中の労働に対する請求書は、明日まとめて作りましょう。
◇
翌朝。
キッチンでベーコンエッグを焼いていると、客室のドアが開きました。
「……おはようございます」
現れたアレクセイ様は、昨日とは別人のようでした。
顔色は健康的な肌色に戻り、目の下のクマも薄くなっています。
背筋が伸び、全身から漲る活力が感じられました。
「おはようございます。よく眠れたようですね」
「ああ……」
彼は自分の両手を見つめ、震える声で言いました。
「信じられない。朝まで一度も起きなかった。夢すら見なかった。こんなことは……記憶にある限り初めてだ」
「それは重畳。布団が合ったようで何よりです」
「いや、布団だけではない」
彼は私に歩み寄りました。
その迫力に、私はフライ返しを持ったまま一歩後ずさります。
怒っているのでしょうか?
「ルチア殿。君に問いたい。この家の『結界』は、どのような構成になっている?」
「構成、ですか? 物理障壁、認識阻害、温度調整、防音、防湿……一般的な生活魔法の組み合わせですが」
「一般的ではない」
彼は断言しました。
「私は『魔力過敏症』だ。世界中の魔力や感情がノイズとなって聞こえる。王城の最高レベルの結界内ですら、耳鳴りは止まない。だが……」
彼は真剣な眼差しで、部屋の空間を見渡しました。
「ここには、それがない。君の結界は、不純物を完璧に遮断している。ここは世界で唯一、私が呼吸のできる場所だ」
過大評価です。
私はただ、自分が快適に過ごすために、外部からの干渉(騒音や湿気や害意)を徹底的にシャットアウトしただけです。
私の「引きこもり用結界」が、彼の持病に効いたということでしょうか。
「それは偶然の産物ですね。ですが、お役に立てたなら光栄です。では、朝食にしますので座ってください」
「待ってくれ」
彼は私の手首を掴みました。
強い力ですが、不思議と痛くはありません。
彼の手は温かく、切実でした。
「頼みがある。……ここに、置いてもらえないだろうか」
「……はい?」
「嵐が止んでも、だ。私はこの空間が必要だ。いや、君という存在が必要だ」
朝から熱烈なプロポーズのような台詞ですが、文脈を読み解けば「高性能な空気清浄機を見つけたから手放したくない」という意味でしょう。
「私は帝国宰相だ。金ならいくらでも払う。地位も保証しよう。君が望むなら、この森の所有権ごと買い取ってもいい」
「宰相様が、こんな辺境で油を売っていてよろしいのですか?」
「仕事ならここでする。部下には場所を伝えない。……頼む」
あの「氷の魔術師」と恐れられる男が、必死な顔で頭を下げようとしています。
私はため息をつきました。
困りましたね。
一人でのんびり暮らす計画が崩れそうです。
ですが。
「……収納魔法の整理と同じですね」
「え?」
「散らかった状態を放置するのは、私の美学に反します。貴方のその乱れた生活リズムと体調、私が管理(収納)して差し上げましょう」
私が告げると、彼はぱっと顔を輝かせました。
「本当か!?」
「ただし、条件があります」
「なんだ? 何でも言ってくれ」
「一つ、私の生活空間を乱さないこと。二つ、家事は分担すること。三つ……」
私はフライ返しを彼に向けました。
「私の平和を脅かす敵が来たら、全力で追い払うこと。できますか?」
「誓おう。君の平穏は、今日から我が命をもって守る」
彼は跪き、私の手を取って甲に口づけました。
騎士の礼。
心なしか、背景に花が咲いているように見えます。
どうやら私は、とんでもなく高性能な(そして手のかかる)番犬を拾ってしまったようです。
まあ、カイル殿下よりは役に立つでしょう。
彼の手の温かさに、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、私は「焦げますよ」と素っ気なく返しました。




