第1話 「婚約破棄ですか? 承知しました」と言った瞬間、私の『収納魔法』が屋敷ごと荷物を回収してしまったので、これにて失礼いたします
シャンデリアの輝きが、磨き上げられた大理石の床に反射しています。
グラスが触れ合う軽やかな音。
着飾った貴族たちの笑い声。
建国記念の夜会は、華やかそのものでした。
ただ一箇所、私の目の前を除いては。
「ルチア・アルカディア! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄とする!」
オーケストラの演奏がかき消されるほどの大声でした。
声の主は、この国の第二王子であり、私の婚約者でもあるカイル殿下です。
彼は壇上の最前列に立ち、私を指差しています。
その隣には、ピンク色のふわふわとしたドレスを纏った愛らしい少女、ミラ男爵令嬢が寄り添っていました。
会場の空気が凍りつきます。
数百人の視線が、一斉に私へと突き刺さりました。
嘲笑、憐憫、そして好奇の目。
私は、ずれていた眼鏡の位置を人差し指でそっと直します。
「……婚約破棄、でございますか」
驚きはありません。
むしろ、予定時刻より五分ほど早いでしょうか。
殿下の腕に絡みついたミラ様が、潤んだ瞳で私を見つめてきます。
「ごめんなさい、ルチア様……! でも、真実の愛には勝てないんですぅ」
「黙れミラ。君が謝る必要などない。悪いのは、その陰気で地味な女だ」
殿下は私の顔を見るなり、露骨に顔をしかめました。
「ルチア。貴様は私の婚約者という立場にありながら、ミラをいじめ、嫌がらせを繰り返したそうだな?」
「嫌がらせ、とは具体的に何のことでしょうか」
「しらばっくれるな! ミラのドレスを隠したり、茶会に呼ばなかったりしただろう!」
やれやれ、と私は内心で息を吐きます。
ドレスが見つからなかったのは、ミラ様が脱ぎ捨てて洗濯係に出し忘れたから。
茶会に呼ばれなかったのは、彼女が招待状の返信期限を守らなかったからです。
すべて私が尻拭いをして差し上げたのですが、記憶から抜け落ちているようですね。
「それは誤解であると申し上げても、聞き入れてはいただけないのでしょうね」
「当然だ! 貴様のような可愛げのない女の言葉など、誰が信じるものか!」
殿下が手を振ると、周囲の取り巻きたちも同調して笑いました。
「確かに、ルチア嬢はいつも暗い顔をしているからな」
「収納魔法なんて地味なスキルしか持っていないし、王族には相応しくないよ」
「ミラ様のような華やかな方が、次期王弟妃にはぴったりだわ」
聞こえてくるのは、私の容姿と能力への侮蔑ばかり。
彼らは知りません。
この会場のクリスタルガラスのシャンデリアも、壁に飾られた名画も、足元の最高級ペルシャ絨毯も。
すべて私が個人の資産で購入し、管理しているものだということを。
王家の財政は、長年の浪費で火の車です。
それを私の実家であるアルカディア伯爵家が補填し、さらに私が『収納魔法』による物流コスト削減と在庫管理で、なんとか体裁を保たせていたのです。
ですが、それも今日で終わり。
殿下が自ら契約を破棄してくださったのですから。
「……承知いたしました」
私は静かに頭を下げました。
「カイル殿下のお望み通り、婚約破棄をお受けいたします」
「ふん、やっと認めたか。慰謝料などは期待するなよ? 有責はお前にあるのだからな」
「ええ、慰謝料は結構です」
私が顔を上げると、殿下は勝ち誇ったような笑みを浮かべました。
ミラ様も「よかったぁ」と甘い声を上げて、殿下の胸に顔を埋めます。
皆様、とても幸せそうですね。
では、邪魔者は退散するとしましょう。
「その代わり――私の『私物』は、すべて回収させていただきます」
「は? 私物だと?」
殿下が眉を寄せます。
「ええ。私がこの城に持ち込んだ嫁入り道具、および出資契約に基づいて貸与していた物品すべてです。婚約が破棄された以上、これらを城に置いておく理由はございませんので」
「何を言っているんだ? 好きにしろ。貴様の薄汚い荷物など、誰も欲しがらない」
「ありがとうございます。許可をいただけて安心いたしました」
私はにっこりと、今日一番の笑顔を向けました。
そして、白手袋をはめた右手を高く掲げます。
パチン。
乾いた指の音が、大広間に響き渡りました。
その瞬間です。
シュンッ!
風を切るような音がして、私の頭上から光が消えました。
巨大なクリスタルシャンデリアが、忽然と姿を消したのです。
「え……?」
誰かの間の抜けた声が聞こえたかと思うと、次は足元でした。
ふわり、と浮遊感が襲います。
床を覆っていた深紅の絨毯が、一瞬にして消滅しました。
剥き出しになったのは、ひび割れて黒ずんだ古い石床です。
「きゃあっ!?」
「な、なんだ!?」
貴族たちが慌てふためく中、私の回収作業(断捨離)は止まりません。
壁を飾っていたタペストリー。消滅。
窓を覆っていた厚手のベルベットカーテン。消滅。
テーブルの上に並んでいた銀の食器、グラス、最高級のヴィンテージワイン。消滅。
美しい装花も、座り心地の良い椅子も、暖炉の飾り格子も。
シュン、シュン、シュンッ!
次々と、私の『収納魔法』が吸い込んでいきます。
これらはすべて、私の帳簿に登録された「ルチア・アルカディア所有」の物品。
私の魔力に紐づいているため、呼び戻すのは造作もありません。
わずか十秒。
煌びやかだった夜会会場は、見るも無残な廃墟へと変わりました。
残っているのは、呆然と立ち尽くす人間たちと、掃除が行き届いていない薄汚れた石造りの枠組みだけ。
窓ガラスすらも(私が特注した断熱ガラスだったので)回収したため、ヒューヒューと冷たい夜風が吹き込んできます。
「さ、寒い……!」
肩を露出したドレスを着ていたミラ様が、悲鳴を上げて震え出しました。
暖炉の薪も、私が手配した最高級の無煙炭だったので回収済みです。
会場の気温は、急速に外気と同じ冷たさになっていきます。
「き、貴様……! 何をした!?」
カイル殿下が、真っ青な顔で私を睨みつけました。
震える指先が私を指していますが、その指輪も私が贈ったものですよ?
ああ、そうでした。
「殿下、その指輪と、着ていらっしゃる礼服の袖口のボタン。それも私の出資で購入したものです」
「なっ……」
「返していただきますね」
私が視線を向けると、殿下の指から指輪が抜け、袖口から宝石のボタンが弾け飛びました。
キラキラと宙を舞い、私の掌の上の亜空間へと吸い込まれます。
だらりと垂れ下がった袖口。
みっともない姿になった殿下を見て、周囲の貴族たちがざわめき始めました。
しかし、彼らも他人事ではありません。
彼らが手にしていたワイングラスも消えているので、中身の赤ワインが床にぶちまけられ、あるいはドレスにかかり、あちこちで悲鳴が上がっています。
「これは……どういうことだ……」
殿下が膝をつきました。
理解が追いついていないようです。
無理もありません。
今まで「当たり前」にあると思っていた環境が、すべて私一人の力で維持されていたなど、想像もしていなかったのでしょう。
「申し上げた通りです。私の私物を回収いたしました」
私は眼鏡の位置を直し、冷徹に見下ろしました。
「この城の備品の約九割は、私の資産でした。残りの一割は、建国当初からあるボロボロの石材と、皆様ご自身の私物くらいでしょうか」
「そ、そんな馬鹿な……! たかが伯爵家の娘ごときに、そんな財力があるわけが……!」
「我が家の財力ではありません。私が個人的に運用して得た利益です。ああ、ちなみに王家の借用書も回収しましたので、後日、正式に請求書を送らせていただきますね」
利子を含めると、国家予算の三年分ほどになるでしょうか。
払えるものなら払ってみてください。
「ま、待て! ルチア、話を聞け!」
私が踵を返すと、背後から殿下の焦った声が聞こえました。
今さら引き留めようとしても遅いのです。
「これにて失礼いたします。夜風が冷えますので、皆様どうぞお風邪など召されませぬよう」
私は優雅にカーテシー(膝を折る礼)をして、出口へと向かいます。
扉を開けると、そこには私が用意していた馬車――ではなく、ボロボロの王家の馬車が待機していました。
私の専用馬車はすでに収納済みですから、これを使うしかありませんね。
乗り心地は最悪でしょうけれど、ここから離れられるなら何でも構いません。
「ルチア! 戻ってこい! これは命令だ!」
遠くで殿下の絶叫が聞こえますが、風の音にかき消されていきます。
私は振り返りませんでした。
馬車に乗り込み、御者に「実家へ」と告げます。
窓から見える王城は、明かりの大半が消え、まるで幽霊屋敷のように暗く沈んでいました。
当然です。
城内の魔導ランプの魔石も、私が定期交換していたものですから。
「……ふぅ」
大きく息を吐き出すと、肩の力が抜けました。
重苦しい空気が漂っていたあの場所から解放された安堵感。
これからは、誰かの顔色を窺う必要も、理不尽な要求に応える必要もないのです。
ガタガタと揺れる馬車の中で、私は膝の上のバッグを撫でました。
この中には、無限に広がる私だけの空間があります。
お金も、資材も、食料も十分。
あとは、私が私らしく生きられる場所を見つけるだけ。
ですが、問題が一つ。
実家の父も、きっと殿下と同じ反応をするでしょう。
彼もまた、私を「便利な道具」としか見ていませんから。
「……さて、次の準備を始めましょうか」
私は眼鏡を外し、車窓から流れる暗い景色を見つめました。
実家での滞在時間は、おそらく十分も持たないはず。
その後どこへ向かうか。
地図はすでに、私の頭の中にありました。
誰も足を踏み入れない、国境の深い森。
あそこなら、誰にも邪魔されず、静かな生活が送れるかもしれません。




