永遠の代用品
午後8時05分に到着する電車の5両目に乗るのがいつもの日課。なんで5両目かと言うと改札が近いから。だって、少ない改札に我先にと群がり大行列をなす列に加わりたくないから。丁度、改札前の車両に乗れば、スムーズに出られる。ちょっとした生活のコツ。多分みんなしてるけど。
家は歩いて10分だからバスには乗らない。乗りたい気持ちはいつでもある。疲れてるし。でも派遣社員で切り詰めた生活なのにそんな贅沢してる暇はない。
何より、一度贅沢を覚えて味を占められたら困る。自分のことを信頼してないから。
しかし、そんな自制の日々は今日までだったらしい。なぜなら、駅の入口で呆然として立ち尽くす私に、滝のような雨が襲いかかってきたからである。今日の天気予報は降水確率0%。
素直が取り柄の私は当然、折りたたみ傘など持ってない。この恨み末代まで忘れ難し。激しく打ち付けられる雨しぶきの行方を追いながら、かわいいお天気お姉さんへ、復讐を誓う。
それにしても、走って帰ろうかと思ったが、風邪引いたり、転けたりしたら医療費がかかるし、何よりスマホが水没したらと思うと恐ろしい。
現代日本では、概ねの場合、人間の体より機械の方が値段がつく。健康保険のありがたみを感じるべきか、電子機器を手放せない情報社会を嘆くべきか。どうにもやみそうもない雨を眺めつつ、観念してバスに乗ることを決意した。
バス代として失われる220円に思いを馳せながら、いざ初のバス乗り場に踏み込もうとした瞬間。
「あの!すみません」
いつも同じ時間の同じ車両に乗ってる若い男が声をかけてきた。こちらが、毎日せっせと歩いて帰ってるのを横目に優雅にバスで帰る男が。
しかも、一度家の近所で見かけたことがあるから高々10分の距離をバスにのるブルジョワ階級である。敵に近い存在だ。こんな貧民に何の用でもあるのかと怪訝に思いながら一応、「はい……?」と渋々返答。
「いつも歩かれてますよね?僕、バスで傘ほとんど使わないので良かったら使ってください」
驚きである。なんたる紳士。心の中で男呼ばわりしてたのを訂正して今後は男性とよぶことにする。
「いいんですか!助かります。そんなに遠くないからバス乗るの勿体無いと思ってたんです」
「バス代、高いですよね。僕は会社が定期代を出してくれるからつい乗っちゃうんです。いや、本当は、歩いた方がいいんだけど。健康にいいし。雨、すごいから気をつけてください」
あんな短距離に、バス代がでる。やはりブルジョワな男性と自分の差にクラクラしながらありがたく傘を頂戴するために礼をいう。
「お気遣いありがとうございます」
差し出された傘を受け取る。持ち手が木。折り畳み傘でもなければビニール傘でもない。仰天、仰天。
「あの……こんな高価な傘お借りするの申し訳ないです」
「いやいや、いいんです。気にしないでください。会社に置きっぱなしにしてて、忘れたままにしてて久々に使ったぐらいなんです。……ズボラで恥ずかしいな」
あら、はにかんだ顔が可愛らしくて素敵。しかし、こんな高価な傘を置き傘にするとはやはり相容れない人間。
「そんなことないですよ。こんな素敵な傘をお借りしてすみません。後日、お礼しますね」
「お礼なんて、いいですよ。何なら、そのまま使ってください。あっ!バスが来ちゃうんでここらへんで失礼します」
男性は、有無を言わずに立ち去ってしまった。これがブルジョワの余裕なんだろうか。私だったら到底、安物には見えない傘を帰ってくるか分からない見知らぬ人間なんぞに絶対に貸したくない。あまつさえもらっていいなんてこの世が終わる日でも言えないだろう。
心の広さの差を感じる。せめて、返すときは精一杯お礼を言おう。相変わらず降り続く滝のような雨を見ながら傘を開く。
優しい色合いの木の持ち手。落ち着いたネイビーの中に真っ白なラインが入った上品な傘。
なんで気づかなかったんだろう。元彼がいつも使っていた傘だ。
元彼はすごく変だった。まず、これだけケチな私と付き合う時点で変だった。
私はデートに誘われて、遊園地の入場料に悲鳴をあげ、食べ物の値段の高さに卒倒するような女である。話すためにカフェに入るのも断固拒否したこともある。我ながら、選ばれる理由が無さすぎる。
しかし、彼は何故かめげなかった。早々にお金がかかるデートは諦め、お金のかからないデートに誘われるようになった。
それは近所の公園に植えられてる花をスケッチして図書館で名前をしらべたり、散歩をしながら同じ標識が何枚あるか数えたりするようなデートだった。
友達にはつまらない子供みたいなデートと言われた。そんなことはない、楽しくて楽しくて幸せだった。それでも世間的には、お金をかけたデートがそれなりに好まれるのもわかってた。だから一度だけ耐えられず聞いてしまった。
「こんな、子供の遊びみたいなデート、楽しい?普通は、映画いったり、水族館いったりするんでしょう?」
「楽しいよ。場所はどこでもいいんだよ。君と話して、時間を共有出来れば」
「そんなこと言って」
「じゃあ、僕がデート代、全部払えば君は楽しめるかい?」
ドキリと嫌な感じに心臓がはねる。無理だ。いつだって一方的に何かをもらうのは苦手だった。払ってもらった分、その人が求めるように振る舞わなくてはいけない気になるから。そうしていくうちに自分を見失うのが怖かった。自分から話を振ったくせに、押し黙る私をみて、彼は微笑む。
「だから、お金のかかるデートには興味ないよ。君が君らしくいられる時間を共有したいんだ。誠実な君が好きだよ」
人生で初めて、運命を感じた。
心から対等な気持ちでいれたから。そんな気持ちにさせてくれる彼の優しさが好きだった。しかし、その後に車がぶつかったガードレールの曲がり具合にデザイン的な美しさを延々と語り出したので気のせいだったかと遠い目をした。どうでも良すぎる。
そんな彼が唯一譲らなかったのが件の傘である。
この傘は1本、5500円。傘にしては高価ではあるが買えなくもない値段。人々はそう評価してるようである。
しかし、わたしはケチである。断固として購入を防ごうとあの手この手で説得しようと試みた。いつもならすぐに折れる彼が頷くことはなかった。
「これが、欲しいんだ」
その微笑みに黙るしかなかった。
ある晴れた日、とうとう負けた私を連れて百貨店に傘を買いに行った。広々として、磨き抜かれた白い床が輝き、店員は身綺麗でとてつもなく親切。クーポンが使えそうにもない空間に震えてるうちに買い物は終わっていた。
のちに彼から、借りてきた猫があれほどまで似合う人間は、他にいないとからかわれたりもした。失礼である。
その帰り、幸か不幸か急な夕立に襲われ早速、傘の出番がやってきた。5500円の力、見せてもらおうではないか。思った通り、ビニール傘と性能に差はなし。遠い目。落胆。そんな私を見ながら彼が見透かしたように笑う。
「5000円ぐらいで何も変わらないよ。でも気に入った傘があると、憂鬱な雨もたのしくなる。雨音もなんだか気持ちよく感じるんだ」
土砂降りで足はびしょ濡れ。髪は湿気で爆発して鳥が巣にするのにちょうど良さそうな姿になってるし、眼鏡は曇って瞳が曖昧にしか見えない。10人が見たら10人がダメだしするような姿。それでも世界で一番カッコよかった。
心の豊かさが人を美しく見せる、その瞬間に出会えた。虹の麓を見つけるような奇跡。ネイビーの傘の下、激しい雨音を聴きながらいつまでも一緒にいれるように柄にもなく願ってしまった。
だが、永遠は訪れなかった。
一緒に暮らすようになってから少し経ったある日。彼は嬉しげなような哀しげなような曖昧な表情で帰ってきた。口の端が震えてたから嬉しさが勝っていたのかもしれない。
「海外に転勤が決まったんだ。本社がある、アメリカに」
目の前がまっくらになった。終わりが始まったから。
「だから、結婚してついてきてくれないか?」
血の気の引いた私の顔を見ながら慎重に彼は言った。嬉しげな表情は立ち去り、いつのまにかこわばった表情になっていた。暖かな食卓が急激に冷ややかでよそよそしい沈黙で満ちる。
「君に負担をかけるのはわかってる。君がお金のことで、人に頼ることが嫌いなことも」
味噌汁からたちのぼる湯気を見つめながら、ぼんやり自分の手元をみつめる。プロポーズだ。嬉しいはずなのに細かく手が震えてる。
「でもどうしても君も仕事も諦めたくないんだ」
懇願してる彼をみつめた。別れたくなかった。心から。はいと言おうとしたのに口から出たのは、別の言葉だった。
「むりだよ…」
知り合いもいない海外、働くにも制限がある。まだ、大学の奨学金が膨大に残ってる現実を思うととてもじゃないが頷けなかった。
それに、なにより異国の暮らしで彼との関係がおかしくなるのが怖かった。永遠を願うほど好きだった。汚れた思い出になるぐらいならセピア色の美しい思い出であることを望んだ。そして、私達はあっさりと別れた。
「あの、少しずれてもらっても?」
傘を広げ、愛おしいネイビーの色を見つめながら物思いにふけってた私に、苛立ちながら若い男が声をかける。
「すいません……」
我に帰り、囁くように謝りながら端による。豪雨のなか、ぼんやりと通路の真ん中に居たのでさぞかし邪魔だっただろう。反省。早く家に帰ろう。9時には観たいドラマが始まるし、傘のお礼も考えなきゃ。
午後8時05分、いつもの5両目からスムーズに改札をでる。傘を貸してくれた男性は、少し後ろの車両にいるのか少し出てくるのが遅いから、バス乗り場付近で待つ。仕立ての良い、上品な光沢があるスーツの男性。来た。
「あの、こないだは傘ありがとうございます」
「ああ!わざわざすみません。そのまま捨ててしまっても良かったのに」
誠実そうな顔が照れたようにはにかむ。やっぱり彼に少し似てる。
「そんな、こんな素敵な傘ですから。この傘のおかげですごく土砂降りでしたけど、なんだか楽しく帰れたんです」
「それは良かったです。そう言われるといい傘に見えてきました。……置き傘じゃなくて普段から使おうかな」
私はうっそり微笑む。そうでしょう、素敵な傘でしょう。
「ええ、素敵だと思います。あと、心ばかりのお礼によろしければ」
そう言って、お礼の品を差し出す。
「えっ。申し訳ないな。かえって気を使わせてしまって」
驚きながら男性は受け取る。
「あの日、わざわざ声かけてくれたのが本当に嬉しかったんです。だからお気になさらずに。中身は安物のハンカチで申し訳ないんですが」
正直なところ、ハンカチの値段は私にとっては痛い金額だった。男性にとっては取るに足らない金額の安物だろう。でも、きっと使うはず。ハンカチの色はネイビー。彼が好きだった色。男性の瞳を見つめながら恥ずかしげに微笑んでるように見えるように調整。
「安物なんて!わざわざ選んで頂いた気持ちが一番嬉しいですよ。うれしいなぁ必ず使いますね。それにしても悪いな。良かったら今度食事でもいかがですか?」
そう言われるのを待ってた。貸してくれた時の顔を見た時、純粋な善意じゃないのはわかってた。ほんの少し心のどこかで下心があるそんな表情だったし、視線がどこか値踏みをするような視線だったから。欲望が孕む眼差しはすぐにわかる。自分もそんな目をしてるから。
「まぁ!それこそ悪いですよ。……もし、お疲れでなければ、たまに途中まで一緒に帰りませんか?私、ずっと彼氏と話しながら帰ってたんですが別れてしまって話し相手がいなくて寂しいんです」
少し、悲しげに話す。彼氏と別れたと言った瞬間、嬉しげに輝くのを見逃さなかった。上手く行ってるようだ。
「そうだったんですか!そんなことでよければ是非。ーー早速なんですけど、今日からどうですか?」
「……ええ、もちろん。今日はいい天気ですからね。お名前はなんてお呼びしたらいいですか?」
名前を聞きながら彼を改めて観察する。髪はストレートで眼鏡はなし。高級そうなスーツと腕時計。鞄と靴はよく手入れされてるのか街灯の光を浴びて、黒々と輝いていた。どこをとっても彼と似てない。
それでもこれから、男性の内面を知って、容姿から、服装から、持ち物から元彼の幻影を探すだろう。そして、足りない部分は少しずつプレゼントで彼の持ち物に寄せていこう。値段は苦しいけどこればかりは仕方ない。必要経費だ。
なんて不誠実。自己中心的。心の中で自分を咎める声がする。でも、もう止まれない。隣で嬉しげに話す男性を見つめる。笑ってる顔はどこか似てる気がしてる。似てると願ってるだけかもしれないけど。
愛しい代用品になる予定の貴方。私も貴方の望むような女性でいることに努めよう。代償に苦手な遊園地にも行って思い出を作ろう。誕生日には、嬉しそうにディナーだって奢られてもいい。その度に大げさに喜んだり涙ぐんだりして完璧な彼女でいよう。それがせめての償いだから。
でも、貴方もそうでしょう。私を見るたびに誰かの面影を探してる。私が恥ずかしげに微笑むと嬉しげになるものね。私たち、とてもお似合いだと思うの。きっと上手くいく。そうじゃなきゃ困る。
彼が好きって言ってくれた誠実さを捨てたんだから。
私の最上の宝物と引き換えに代用品の傘を得るのだ。
そうして、私たちが日々を過ごすたび改めてこう思うのだろう。あの時だけが永遠の夢の日々だったことに。それともいつの日か夢から目覚めて目の前の貴方を見つめる日が来るのだろうか。
ねぇ、隆之さん。




