最後の録音
古いカセットテープレコーダーは、埃をかぶった中古店の棚の奥で静かに眠っていた。黒いプラスチックのボディには無数の傷があり、銀色のスピーカー部分は錆びて変色している。値札には「300円」と書かれていた。
「これ、まだ動きますか?」
店主は眼鏡の奥の目を細めて商品を見つめた。
「さあね。でも昔のものは頑丈だから、案外動くかもしれないよ。試してみる?」
私は小さくうなずいた。学生時代に使っていたカセットテープが実家から出てきて、懐かしさに駆られて衝動的に手に取ったのだ。
家に帰ると、すぐにプレーヤーを試してみた。電池を入れ、適当なテープを挿入する。再生ボタンを押すと、かすかなモーター音とともにテープが回り始めた。思ったより音質は悪くない。
ふと気づくと、本体の中にテープが入ったままになっていた。前の持ち主が忘れていったのだろう。私は好奇心に駆られてそのテープを再生してみることにした。
最初に聞こえてきたのは、中年男性の落ち着いた声だった。
『7月15日、火曜日。新しいテープレコーダーを買った。日記をつけてみようと思う。今日は特に変わったことはない。仕事は順調だし、妻も元気だ。明日は娘が帰ってくる予定だ。』
何の変哲もない日常の記録。私は早送りして、別の日付を聞いてみた。
『7月28日、月曜日。最近、家の中で妙な音がする。夜中に足音のような音が聞こえるのだ。妻に聞いても、何も聞こえないと言う。疲れているのかもしれない。』
男性の声に、わずかな困惑が混じっていた。私はさらにテープを進めた。
『8月3日、土曜日。また音がした。今度は確実に足音だ。階段を上がってくる音。でも二階に行って確認しても、誰もいない。妻は実家に帰っている。家には私一人のはずなのに。』
声に不安が滲み始めていた。私は興味深く聞き続けた。
『8月10日、土曜日。鏡がおかしい。洗面所の鏡に、時々知らない顔が映る。一瞬だけだが、確かに見えた。痩せた男の顔だった。医者に相談すべきかもしれない。』
『8月15日、木曜日。昨夜、寝室のドアが勝手に開いた。風もないのに。そして廊下に人影が見えた。声をかけても返事がない。近づこうとすると、影は消えてしまう。何かがいる。この家に、何かがいる。』
男性の声は震えていた。私は身を乗り出してプレーヤーに耳を近づけた。
『8月18日、日曜日。もう限界だ。奴らは一人じゃない。複数いる。夜になると、家中を歩き回っている。妻に電話したが、精神科を受診しろと言われた。でも私は正気だ。これは現実に起きていることなんだ。』
『8月20日、火曜日。録音を聞いている人がいる。今、この瞬間に。テープを通じて、誰かが私を見ている。聞いているのは誰だ?なぜ私を見つめている?』
私は背筋が凍った。まるで男性が録音機の向こうから私を見ているような感覚に襲われた。
『8月22日、木曜日。分かった。奴らは録音を通じて移るんだ。音を媒介にして、時間と空間を超えてくる。このテープを聞いている人...もし誰かがこれを聞いているなら...今すぐ止めろ。奴らは録音を通じて移る。もう手遅れかもしれないが...』
男性の声は恐怖で震えていた。私は反射的に停止ボタンに手を伸ばしたが、指が触れる前に、部屋の電気が突然消えた。
暗闇の中で、カセットプレーヤーが勝手に動き始めた。巻き戻しの音が響く。カチャカチャと機械的な音が部屋に響いた。
そして再生が始まった。
『7月15日、火曜日。新しいテープレコーダーを買った...』
しかし、聞こえてくる声は録音された男性のものではなかった。それは私自身の声だった。
『最近、家の中で妙な音がする。夜中に足音のような音が聞こえるのだ...』
私は立ち上がろうとしたが、体が動かない。暗闇の中で、自分の声がテープから流れ続けている。
『鏡がおかしい。洗面所の鏡に、時々知らない顔が映る...』
私は今まで、そんなことを録音した覚えはない。でも確かに私の声だった。
『奴らは録音を通じて移るんだ。音を媒介にして、時間と空間を超えてくる...』
気がつくと、私は震えていた。録音された私の声が続ける。
『もし誰かがこれを聞いているなら...今すぐ止めろ。奴らは録音を通じて移る。もう手遅れかもしれないが...』
カセットプレーヤーの赤いランプが暗闇の中で不気味に光っていた。録音は続いている。私の声で、私が体験していない恐怖が語られている。
そして私は理解した。このテープを最初に録音した男性も、きっと誰か別の人の声を聞いたのだろう。そしてその人もまた...
暗闇の中で、足音が聞こえ始めた。階段を上がってくる音。
私の録音された声が、恐怖に震えながら続けている。
『誰かが家の中にいる...』