第08話「期末と国とドームの真実」
夏の手前の、重たい午後。
図書室はいつになく満席に近く、珍しく教科書を開いているやつらでいっぱいだ。
期末試験一週間前。
追い詰められた訳ではないけど、俺たちも図書室の片隅に陣取っていた。
「眠い。てか暑い。気温30度超えたら試験禁止って法律を作るべきだぁ」
「言い訳すんな。教科書一ページもめくってねぇじゃんか」
俺は頬杖をつきながら、ケンゴの横で日本史の教科書を開いていた。
向かいの席には、制服姿のリュシアと――なぜか中等部の制服のティアナもいる。
「なんでお前まで来てんだよ中学生。試験範囲とかぜんぜんちがうだろ」
「え〜、だってリュシアおねぇちゃと離れたくないんだもーん♡」
そう言いながら、ティアナはスマホを見ている。
もちろんノートは真っ白だ。
「ティアナちゃんはおねぇちゃん思いのいい子だなぁ。ユウリ、お前あまり邪険にするなよ」
「大丈夫! おにぃちゃんの態度は“好き”の裏返しだってティアナわかってるもん。ツンデレって言う文化でしょ☆」
悪びれずに笑うティアナにため息をつきつつ、隣の席に視線を移す。
そこでは完璧に美しいリュシアが、眉間にしわを寄せ、教科書をにらんでいた。
「リュシア……大丈夫か?」
「あ、はい。……いえ、わかって……いません」
キッパリ言い切るな。
「あの……なぜ、“国”という集団が、地球上に複数存在したのですか? 別の惑星と共存したのでしょうか」
「いや、惑星じゃない。国ってのは、地域の区切りみたいなもんだ」
「では“県”と“国”の違いは?」
「……言われてみれば、なんなんだろうな」
「えぇ!? 自分の惑星のことなのに、わかってないの?!」
ティアナが急にスマホから顔を上げる。
あまりにも正論過ぎて反論できない俺を眺め、ケンゴは声を出して笑った。
「ティアナちゃんすげぇ! ユウリ、お前もっと勉強しろよ!」
「うるせぇ黙れ、お前が勉強しろ」
「あ、そういやリュシアちゃん聞いた? 転校生来るらしいよ」
ケンゴが俺を完全無視して、しれっと話題を変える。
両手でこめかみを押さえていたリュシアは、日本史の教科書から顔を上げた。
「転校生……? あの、セレーネから、ですか?」
「ごめん、わかんないけど……。でもやけに急だったし、そっち筋じゃないかなぁ」
「……つか、セレーネって四月が年度初めなのか?」
「年度……とは?」
「そっからか」
「ははっ。でも確かにセレーネってよくわかんないなぁ。どんな感じなの? 政府とか、生活とか」
ケンゴの素朴な疑問に、リュシアは少しだけ視線を落とした。
そして、淡々と、けれどどこか誇らしげに語り出す。
「セレーネは、現在19の居住ドームに分かれており、それぞれの個体は、生まれた時点で生涯の居住ドームが割り当てられます」
「あたしもおねぇちゃんも、同じドームで育ったんだよ☆」
「そうですね。それから、出産、教育、進路、婚姻、食事、運動、睡眠、作業内容と割り当てる時間まで――すべてAIによって最適化されているのです」
「マジで?」
「すげぇ。いや、すごいけど……やばくね?」
「自分で選ぶとかないの?」
「選択とは、“片方を切り捨てる”ということです。切り捨てた側に対する責任を、個人が背負うべきではない――それが、セレーネの基本理念です」
選ばないこと。選べないこと。
それが正しい社会。
……それは、どこか薄暗い檻をイメージさせた。
「だから“県”とか“国”とか、そういう区切りがわからない……か」
「はい。ドーム単位での行政と生活圏が完全に一致しているため、無駄な“差”は発生しません」
「アニメに出てくる……ディストピアっぽいな」
「え?」
「なんでも管理されて、なんにも自分で決められなくて、それが幸せって……俺にはわかんねぇよ」
「わからない……ですか。それが……普通、だと思っていました」
リュシアの表情が、初めて、ほんのわずかに曇った。
俺は言葉を探しかけて、けれど、何も言えなくなる。
ケンゴもティアナも何も言わない。
元々静かな図書室に、もっと重い沈黙が降りた。
「やあ」
静かにかけられた声に、俺たちは同時に顔を上げた。
図書室の入口に立っていたのは、制服姿の上級生。
リュシアたちと同じような銀色の髪に、整った目元、高い身長、引き締まった身体。
まるで映画の中から抜け出してきたような、誰もが思うであろう“イケメン”がそこにいた。
「はじめまして。今日から“文化交流特別履修生”として、こちらに通うことになった……エリオ・ノイエ・カスティリオという者だ」
「……!」
その名前を聞いた瞬間、リュシアの肩が小さく震えた。
普段はどこか飄々としている彼女が、今は息を呑んだまま、動けずにいる。
エリオは、そのままゆっくりとリュシアの方に歩み寄った。
「久しぶりだね、リュシア。地球は楽しんでいるかい?」
ライラック色の瞳が揺れる。
しかし、頑なに顔を上げないリュシアは、言葉にならない何かにじっと耐えているように見えた。
それまでゆるやかに流れていた午後が、急に冷たく、鋭くなってゆく。
俺は立ち上がり、このいかにも好青年を絵に描いたような“先輩”とリュシアの間に身体を滑り込ませた。