8◇事情
パヴェルは何も言わずに去ったが、その場にいた女性たちにエミーリエを託したのだと彼女たちは察したらしい。
「私はシャールカ・オルサークと申します。さあ、部屋に戻りましょうか」
シャールカと名乗った女性はそっと微笑みかけてくれた。
エミーリエの背中に優しく手を回し、立たせてくれる。エミーリエはうなずいた。
それでも、シャールカはエミーリエがどういう立場の人間なのかをまだ知らない。だからか、接し方に戸惑っている気がした。
部屋に戻ると、一緒についてきた侍女が提案する。
「気がつかれたことですし、湯浴みをされてはいかがでしょう? あたたまりますよ」
その提案はエミーリエにとってありがたいものだった。
「そうさせて頂けると嬉しいです」
小さな声で答えると、侍女はほっとしたようにも見えた。赤茶けた金髪をまとめた可愛らしい娘だ。
「私は侍女のルジェナです。湯浴みのお手伝いをさせて頂きますね」
「い、いえ、一人で入れます」
エミーリエは自分のことは自分でしてきた。湯浴みなど手伝ってもらう方が緊張する。
「そうですか? では、お湯の支度をして参ります。何かあればいつでもお呼びください」
ルジェナは頭を下げ、部屋から出ていった。残されたのはエミーリエとシャールカだ。
シャールカは軽く首を傾げてみせる。
「何故か使用人のお仕着せを着ていたようですが、あなたは本来であれば人からかしずかれる立場なのではありませんか?」
「それは……」
エミーリエが顔を曇らせて言い淀んだせいか、シャールカは苦笑した。
「お返事を聞かずともわかります。あなたは人に仕え慣れてはいませんから。何か事情がおありのご様子ですが、ご家族が捜されているのではありませんか? あなたの無事をご家族にお伝えした方がいいのではないかと愚考したまでです」
普通に考えるならばそうだろう。
けれど、タロン公国から来たと伝えていいか躊躇われる。もしこんな自分でも何かに利用されてしまうようなことになったら、どうしていいのかわからない。
だから、シャールカの申し出に甘えることができなかった。
「家族が捜しているということはありません。お気遣い頂き、ありがとうございます」
「家族がおられないのですか? それでしたら、これからどうされるおつもりで?」
何も答えられない。
これからどうしたらいいのか、それはエミーリエが一番知りたかった。
家に戻るのは容易ではないはずだ。
あれからラドミラはどんな嘘をついて、いなくなったエミーリエを貶めたのだろう。
そして、その嘘を家族は信じたのだろうか。
なんの力もないエミーリエは、この新天地で生きていける気がしない。
それでも、多くは望まないから、これからただの娘として地道に働けたらいい。世間知らずなエミーリエには無理な話だろうか。
シャールカはまだまだ聞きたいことがあるようだった。
けれど、ルジェナが元気よく戻ってきた。
「はい、支度ができましたよ!」
すると、その元気の良さにつられてか、シャールカは思わず笑った。笑うと、とっつきにくさが和らいでとても魅力的だ。有能そうでつけ入りにくい印象を相手に与えるが、本来はそう厳しい人ではないのかもしれない。
「では、どうぞ。質問攻めにしてすみませんでした」
「い、いえ」
得体の知れない娘なのだから当然のことだ。そんなふうに謝られるとは思わなかった。
「あなたを助けてくださったパヴェル様ですが」
「は、はい」
「口ではとても手厳しいことを仰られたかもしれませんが、その行動を見ればどんな方かはおわかり頂けたかと」
それだけ言って、シャールカは去っていった。
彼女の言う通りだった。
耳に痛い言葉ではあったけれど、パヴェルはエミーリエを責めたわけではない。他人を不幸にするなどと考える必要はないと言ってくれただけのことだろう。
エミーリエはルジェナが支度してくれた湯に浸かりながらそれを考えた。
さっぱりして再び部屋に戻ると、ルジェナはエミーリエを鏡台の前に座らせた。
「髪を梳かせて頂きますね」
「自分でできますけど……」
戸惑いながら言うけれど、ルジェナは譲らなかった。
「まあいいじゃないですか。こんなに綺麗な御髪なんですもの。梳ってみたいんです」
「は、はぁ」
こんなに人に触れられていいものだろうか。
エミーリエがビクビクしていても、ルジェナは楽しそうだった。
「まるで絹糸ですね。私は癖があるし、色だってこんなだし、羨ましいです」
ルジェナはなんて屈託のない娘だろう。
本当に楽しそうにエミーリアの濡れた髪を梳いてくれている。
物語の中で、仲のいい姉妹がお互いの髪を梳き合ったりする場面があって、エミーリエはそんなことは起こらないと思いつつも憧れていた。
誰かに髪を梳いてもらうというのはどんな感覚がするのだろう、と。
自分の髪さえも自分で切っているエミーリエにはまったくわからなかった。
それが今、ルジェナが丁寧に櫛を通してくれている。とても気持ちがよかった。手が優しく、時に鼻歌が混ざるルジェナの明るさに救われたような気分だった。
「じゃあ、お食事をお持ちしますね。食べられないものはありますか?」
「いえ、特には」
「わかりました! 少々お待ちください」
ルジェナが運んできてくれたのは、拾った娘に食べさせるには上等な食事だった。
パンは柔らかかったし、スープも濃厚で、肉は柔らかかった。たくさん食べて力をつけてから出ていけということだろうか。それでもありがたい。
エミーリエは感謝しながら食事を終え、そのまま眠りについた。
朝になって目覚めた時、すべてが夢のような気がしないでもなかった。