7◇思い上がり
エミーリエが目を覚ましたのは、人の話し声がしたからだ。
けれど、とっさに目を開けてはいけないと思った。
状況がわからないままなのだ。眠った振りを決め込み、耳だけ澄ませる。
「――じゃあ、また何かあったら呼んでください」
「はい。ありがとうございます、先生」
先生と呼ばれたのは医者だろうか。
エミーリエ自身はこれまで医者を呼ばれたことがなかった。大きな病気をしなかったせいもあるが、医者に診てもらうほど大事な身ではなかった。
寝かされているのはちゃんとしたベッドの上だ。エミーリエの部屋のベッドよりも柔らかい。
助けてくれたのは誰だろうか。ここは裕福な人の屋敷のような気がする。
本来ならばちゃんと顔を合わせて礼を言い、感謝すべきだ。わかっているけれど、エミーリエはそれが怖かった。
忌み嫌われていた自分だから、助けられた相手に嫌悪の目を向けられるのが怖い。
禍を呼ぶと知ったら、助けたことを後悔するはずだ。
自分の身に起こったことを話して、信じてもらえるだろうか。
最悪、殺されることはないだろうか。
「では、私はパヴェル様にご報告に行ってくるわ。彼女が気がついたら教えてね」
先ほど医者とやり取りをしていた、凛とした女性の声だ。まだ若そうだけれど、浮ついたところがない。
「はい、畏まりました」
それに恭しく答えた声は多分、侍女だろう。こちらもまだ若く、元気が有り余っているような印象だった。
一人目の女性が出ていった音がした。侍女はそれからもベッドの横についていて、時折エミーリエの顔を覗き込んでいた。
その侍女も席を立ち、部屋の外へ出ていくのがわかった。食事かお花摘みか、とにかく一時的にエミーリエから離れてくれたのだ。
エミーリエは目を開けてベッドから起き上がると驚いた。
本当に寝かされていた部屋は豪華だったのだ。ベッドには天蓋がついているし、猫脚のテーブルも椅子も艶やかだ。マントルピースの上には絵画も飾られていて、実家よりもすべてが上等かもしれない。
そして、自分の恰好を見る。エミーリエが着せられているのは侍女のための寝間着だろう。綿素材で柔らかいが、飾り気はなかった。ベッドのそばにはエミーリエの濡れた靴が置かれており、とりあえずそれを履く。
この格好で外へ出るのは躊躇われたが、見つかる前に逃げ出したかった。あまりの不安から涙が滲むけれど、それでも窓を開けた。急がなければ侍女が戻ってきてしまう。
窓から下を見ると脚が竦みそうだった。なるべく下を見ないようにしながら身を乗り出す。
外壁は濡れていて、雨が降っていたことを思い出した。
慎重に出っ張りに足をかけ、壁に這っている蔦をつかみながら横ばいに伝っていく。どこかに下りられるところがあるはずだ。
こんな、物語の中のような冒険をすることになるとは思わなかったけれど、エミーリエは懸命に指先に力を込めた。
この屋敷が大きいのか、エミーリエがほとんど進めていなかったのか、終わりが見えない。じりじりと外壁を移動しているうちに、開け放たれた窓から悲鳴が上がった。
「あ、ああっ! なんてところに!」
侍女が慌てて叫んでいる。エミーリエはどんなに騒がれても振り向かなかった。今、とても体勢を変えることはできないのだ。
それよりも早く進まないと。ここから下りていなくならないと。
そんなことばかり考えていたエミーリエは、きっと冷静ではなかったのだろう。それすら気づけなかったけれど。
この時、進行方向にバルコニーがあった。あそこに上っても屋敷からは出られない。しかし、通過するのも難しい。
どうしようかと悩みながらも進むと、バルコニーに人が出てきた。
「何をしている!」
あまりの声の厳しさに、エミーリエは驚いて身を竦ませた。そして、しがみついていた蔦がブツリと音を立てて切れた。
声にならない悲鳴を上げ、エミーリエはそれでももう片方の手でなんとか蔦をつかんで落下を免れた。ただし、そこに体重をかけすぎてはまた切れてしまうに決まっている。
「こっちに手を伸ばせ!」
鋭い声が飛ぶ。建物の影が被さり、その人物の顔までは見えなかったが、若い男性のようだった。エミーリエを助けようと手を伸ばしている。
けれど、エミーリエは恐怖を感じるばかりだった。
禍を呼ぶとされるエミーリエがあの手を取れば、相手を不幸にしてしまう。無理だ。
エミーリエはその場でゆるくかぶりを振った。
「グズグズするな! 早く!」
相手の声に苛立ちが混ざる。
それでも、あの手は取れない。ここから落ちることになっても。
その人物はエミーリエが竦んで動けないと思ったのか、バルコニーを乗り越えてきた。
この人まで一緒に落ちてはいけない。エミーリエの頭から血の気が引いていく。
何か、何か言わなければ――。
「わ、わたしに関わると不幸になります。どうか、放っておいてくださいっ」
いつでも、エミーリエは人から必要とされたことがなかった。迷惑をかけたくないと思えば、人と関わらずにいるしかない。
それなのに、これを言った途端、相手はエミーリエを叱った。
「お前のせいで不幸になる? 他人の人生に影響を及ぼせるとはお前の思い上がりだ。少なくとも俺は、自分のことは自分で決める。不幸になるとしたらそれは俺のせいだ」
強い言葉だった。
その男性は、エミーリエの手首をしっかりとつかんだ。
「っ!」
エミーリエの表情に恐怖が浮かんだのを見たはずだが、その男性は怯まなかった。エミーリエの手首を自分の肩に押しつける。
「御託はいいから、ここをつかめ」
「で、でも……」
この男性は、本当に大丈夫なのだろうか。
それとも、何かが起こるのはこれからなのだろうか。
わからないけれど、この男性がエミーリエを助けようとしてくれているのに応えようとしないのは恩知らずだろう。エミーリエは言われるがままに男性の肩の辺りを皺になるほど握った。
そうしたら、男性はエミーリエの腰に腕を回し、抱えるようにして体を寄せた。そのままで人を呼ぶ。
「マクシム! 誰かいないか!」
すると、バタバタと慌ただしい足音がしてバルコニーに数人の人が飛び出してきた。
「パヴェル様!」
「なんてことを……っ」
この男性はパヴェルというらしい。そして、様と敬われて呼ばれるからにはこの屋敷の子息だろう。
「先に彼女を引っ張り上げてくれ」
「は、はい」
また、新しい人が来てエミーリエに触れようとする。エミーリエが逃れようとしても、パヴェルにつかまれていて逃げようがなかった。
駄目だ。傷つけたくないのに、傷つけてしまう。触らないで――。
しかし、怯えたエミーリエが縮こまっていても、柔和な顔つきをした男性はエミーリエの手を取り、笑顔で言うのだった。
「急に知らないところに寝かされていてびっくりしたでしょう? でも、大丈夫ですよ。ここにはあなたに危害を加える人間はいませんから、安心してください」
彼もまた、エミーリエに触れてもパヴェルのように平然としていた。
そんなことがあるのだろうか。あの占いは、まさか外れていたのだろうか。
すぐに影響が出ないだけだろうか。
もし外れていたならどんなにいいか。
「あ、あの、わたし……」
戸惑うエミーリエに、あの凛とした女性も手を伸ばして支える。
「今は何も言わなくていいのです。とにかく休みましょう」
この女性も平気そうだ。エミーリエには意味がわからなかった。
引き上げられ、バルコニーの上で呆然とへたり込む。そうしたら、パヴェルがエミーリエに視線を合わせるように膝を突いた。
「お前の名前は?」
この時になって初めて、エミーリエはパヴェルの顔を正面から見た。
濃い色合いの金髪が少し乱れているのはエミーリエのせいだ。見透かすようなグレーの淡い瞳がエミーリエに向いている。
整った顔立ちをしていて、年恰好が近いせいか兄のヴィレームを思い起こさせる。家族の中で唯一エミーリエに優しかった兄に似ている、ただそれだけで心細かった気持ちがほんの少し和らいだような気がした。
滲む涙を堪え、答える。
「エミーリエです」
「そうか。エミーリエ、二度とこんなことはするな」
厳しい面持ちではあったけれど、決して冷たい人ではないのだと思う。
そうでなければ、身を乗り出してまで助けようとはしてくれなかったはずだから。
エミーリエがうなずくと、パヴェルは大きな手をポン、とエミーリエの頭に乗せた。そんな他愛のないことで堪えていた涙が零れた。
頭を撫でてほしいと願っても、それが叶わない子供だったのだ。
パヴェルはエミーリエを振り返ることなく行ってしまった。エミーリエは感情の整理がつかなくて礼を言うことすらしていないと後で気づいた。




