38◇決別
パヴェルが決意をし、兄と話をしようと兄の居室に足を向けた時、いつもならば冷笑してくるような者たちが怯えた目をしてパヴェルに道を譲った。
父の宣言が耳に入ったが故のことだろう。
兄は部屋にいなかった。
ここで待つべきかとパヴェルが扉の前で考えていると、そこにシャールカの双子の兄、カレル・オルサークがやってきた。
顔こそシャールカによく似ているが、性質が違う。カレルには世を拗ねたようなところがあった。
とことんシャールカと折り合いが悪く、パヴェルにも敬意を払うことはない。
それでも、カレルは兄にだけは従順だった。王太子だからと思うのか、兄の優しさに触れたのか、そのどちらかだ。
この時のカレルは、どこか張りつめた顔をしていた。
兄が王太子でなくなったことと関係があるのだろうか。
「殿下……」
敵というには大げさだが、味方ではない。足元をすくわれないように警戒はすべきだ。
けれど、この時のカレルはいつもと違って見えた。シャールカと同じほどまっすぐな目をパヴェルに向ける。
「すぐに書庫へ来てください」
「書庫?」
そこに兄がいるのかもしれない。けれど、何故カレルがパヴェルを呼ぶのかがわからない。
躊躇っていると、カレルは苛立たしげに、裏返りそうな声で言った。
「あなたみたいに恵まれた人は嫌いです。あなたはシャールカと同じだ。涼しい顔をしてなんでもこなしてしまう。だから私は、ルドヴィーク様のお気持ちが痛いほどわかります。でも、だからってなんでも利用していいわけじゃない」
「カレル?」
唖然としてしまうほど早口でまくし立てられた。
「いいから、来てください! エミーリエ嬢に何かあってからじゃ遅いんだ!」
その名を聞き、パヴェルはハッとしてうなずいた。
「書庫だな?」
今度はカレルを置いていく勢いで走り出した。
もし兄がパヴェルを許せないと感じた場合、その矛先がエミーリエに向かうことがあるだろうか。
あの兄に限ってそんなことはないと思いたかった。これがカレルの姦計でないとは言いきれない。
それなのに、今のカレルは信じてもいい気がした。
パヴェルが本気で走り出すと、カレルを追い抜いた。それでもカレルがついてきているのはわかった。
書庫の扉を勢いよく開くと、窓際に兄の背があった。
そして、その背に隠されているのはエミーリエだ。
「兄上……」
この時、パヴェルに向けられた兄の表情は、これまで見たどんなものよりも冷たかった。
兄はエミーリエから手を放し、そのままパヴェルの横をすり抜ける。
その時、ひと言――。
「僕はもう、疲れた」
それだけを言った。
何に疲れたのだろうか。
王太子であることにか。人の期待に応え続けることに疲れたのか。
ただ、兄はパヴェルに追いかけてきてほしくはなかったのだろう。背中がパヴェルを拒絶していた。
そのことを悲しく思うけれど、当人が言うように兄は休息を求めている。
カレルは一度だけエミーリエの方に目を向けると兄を追った。
パヴェルは、エミーリエに近づく。エミーリエは唇を固く結び、震えていた。
「エミーリエ」
声をかけると、エミーリエの目に涙が浮かんだ。
だから、何も訊かずに抱き締めた。エミーリエの手がパヴェルの背に回る。
もし、兄がエミーリエを傷つけていたら、いくら兄でも許せなかった。
本気の害心があったのかどうかは当人にしかわからないが、エミーリエは恐ろしかっただろう。
「すまない。もう怖いことはないから」
そう言って慰めたつもりが、エミーリエは緩くかぶりを振った。
「怖かったのかどうかもわかりません。ただ悲しかっただけです」
優しかった兄がパヴェルに対する苛立ちをエミーリエにぶつけた。それが悲しかったと。
そう考えたけれど、本当はそんなものではなかった。
それを知ったのは、その翌日のことだった。
父に呼び出され、パヴェルは愕然とした。
「ルドヴィークは王族としての身分を捨てて出家するそうだ。今朝、身ひとつで僧院の門を叩いた」
「まさか……」
やはり、パヴェルが兄からすべてを奪ってしまったのだ。疲れた兄は世の中のすべてを捨てたくなった。
しかし、父は困惑したように告げた。
「昨晩、あやつと話した。あれも苦しんでいたらしい」
「ですが、これではあんまりです。やはり私が王太子になどなるべきではありません」
「そうではない。ルドヴィークを苦しめていたのは、過去だ」
そこで初めて、パヴェルは母たちの真相を知った。
兄がそれを父に語ったのだという。
信じてと息子に言い残した母。
今になって、最後まで信じきれなかった自分を恥じた。
それと同時に、霧が晴れたように積年の苦しみから解かれた。
けれど、兄はどうなのだろう。さらなる苦しみを背負ったのだろうか。
「兄上は身分を捨てることで楽になれたのでしょうか?」
「ずっと抱えてきた秘密を明かせて楽になったとも言える。しかし、それによって変わる風向きに耐えられるほど、あれの心は強固でも柔軟でもない。王族として生きるよりは心安らかにいられるのやもしれぬ」
それならば、もう何も言うことはない。
最後に母の汚名を雪いでくれたのだ。これまでのことを恨んだりはしない。
「お前には会いに来てくれるなと伝えてほしいと言っておった。会いに来たところで会うつもりはないと」
パヴェルの顔など見たくないということなのか。合わせる顔がないから来てくれるなというのか。
兄の心が安らかであるのなら、波風を立てるようなことはしないでいたい。パヴェルはこの国をよりよく治めることで報いることができるだろうか。
「兄がいない以上、私が王位を継ぐしかないのですね」
「そうだ。お前しかいない」
「妃に迎えたい娘がいます。立太子の後、結婚のお許しを頂きたいのですが」
この大国を治めるのが並大抵のことでないとわかっているからこそ、たったひとつのわがままだけは許してほしかった。
父は片方の眉を跳ね上げる。
「舞踏会の日に連れていたあの令嬢だな?」
「はい」
「どこの家の者だ?」
「――タロン公国、タロン公の末娘、エミーリエ・バベッジです」
それを言うと、さすがの父も唖然とした。
「タロン公国だと?」
「はい。当人がそう言うだけで、私も赴いたことはございませんが、エミーリエはそこからカーライルへ迷い込んだそうです。それが事実なら身分は申し分ないはずですが、もし仮にただの庶民であっても私は彼女の他には考えられません」
面と向かって言うと、父はひたすら目を瞬いていた。
「お前にそこまで言わせる娘がいるとはな。そうか、それで以前、タロン公国の名を口にしていたのか」
「はい。できれば向こうにも結婚の許しを請いに行きたいところですが、今のところどのようにして向かえばいいのかわからないままです。追々探していきたいと思っています」
エミーリエは川を使って洞窟を通ったと言っていたが、川の流れは逆で、どのようにしてタロン公国に向けて進めばよいのか謎なのだ。縛られて舟底に転がされていたため、エミーリエもよく見ていなかったらしい。
「確かに不思議な雰囲気の娘だったが、まさかタロン公国とはな」
「お許しを頂けますか?」
重ねて言う。父は苦笑した。
「私個人の意見ならば、許す。ただ、民を納得させるのはお前とエミーリエ嬢自身だ」
「わかりました。ありがとうございます」
パヴェルは父に向け、深々と頭を下げた。
妃たちが争い、命を散らし、苦しんだ父だ。それに巻き込まれ、間近で見ていたパヴェルが複数の妃を娶るつもりがないことも承知でいてくれるだろう。
それでも許しをくれたことに、ただ深く感謝した。




