32◇片時も
純粋な人ではない。
竜の血を持つ、人間と呼んでいいのかもわからない存在。
それがエミーリエだという。
タロン公国の人々の多くは、竜の血を受け継ぎながらも人としての部分がほとんどだ。
あの洗礼の儀の際に〈ウィルド〉とされる、その者だけが竜に近い。
この現実を、エミーリエは受け止めなくてはならない。
否定したところで事実は覆らないのだから。
けれど、エミーリエ自身は意図して特別な力を使える気がしなかった。人と同じように怪我もするのに、人間と言い張ることができないらしい。
この時、部屋の扉が叩かれた。エミーリエは驚いて涙を隠すと、時間をかけて部屋の扉を開いた。
そこにいたのはパヴェルだった。
「泣いていたのか?」
驚いたように言われた。
「あっ、これは、本を読んでいたら感情移入してしまって……」
そんな苦し紛れの言葉をパヴェルは信じただろうか。けれど、それ以上追及はされなかった。パヴェルにもどこか余裕がない。
「舞踏会は終わったが、俺はしばらくベルディフ領の屋敷には戻れなくなった。マクシムとシャールカもだ。お前だけなら、王都よりも向こうの屋敷の方が気が休まるだろう?」
「それは……」
言葉を失ってしまった。
残された日々をパヴェルのそばで過ごそうと決めたところなのに。
「何かお役目があるのですね? それでしたら、終わるまで王都でお待ちしたいと思います」
ベルディフ領は遠いから、パヴェルに近いところにいたい。
けれど、パヴェルは渋い顔をした。
「いや、俺たちは王都にいるわけじゃない。西の方へ行かなくてはならないから」
「西ですか? では、わたしもそちらにご一緒してもよろしいでしょうか?」
これを言った時、パヴェルは怒ったように表情を険しくした。
「駄目だ。連れては行けない」
パヴェルがこういう顔をする時、それはただ単に怒っているのとは違う。エミーリエももうそれを学んでいた。
「西へ何をしに行かれるのですか?」
理由を言いたくなかったらしい。渋々といった口調だった。
「ヴァラフ王国との小競り合いだ。女連れで行くわけには行かない」
小競り合い、と。
それはつまり、戦いになるかもしれないということだ。
戦なんて、それこそ現実味がないけれど、パヴェルにとって戦は身近なものなのだろうか。
危険だから、エミーリエのように戦えない娘は連れていけない。
エミーリエがついていっても邪魔になる。
――だとしても、行きたい。
パヴェルと離れているのが嫌だと思った。
「危ないからですか?」
つぶやくと、パヴェルは苦しげに息を吐いた。
「そうだ」
「パヴェル様たちは危なくないのですか?」
「まったく危険がないとは言わないが、後れを取るつもりはない」
「まったく危険がないのではない限り、見送るのは嫌です」
エミーリエが言い張ると、その頑固さにパヴェルが驚いていた。これまでのエミーリエならば納得して屋敷で待っていただろう。
「わたしも連れていってください」
パヴェルの服が皺になるほど、腕の辺りを握り締めた。
何を泣くのだと、パヴェルは変に思ったかもしれない。それでも涙が止まらなくなった。
この人のそばはエミーリエの居場所ではない。
だとしても、まだここにいたい。
エミーリエがすがっているパヴェルの腕が動いた。
部屋の扉の隙間を広げるように体を差し込むと、エミーリエの顔を両手で包み込んで上を向けさせた。
「戦地にまでお前を連れていったら、俺は片時もお前を離せないのだと世間から言われることになる」
互いの顔が近く、パヴェルの表情もぼやけて見えなかった。パヴェルはエミーリエを抱き締め、自らの服にエミーリエの涙を吸い取るように頭を押しつけた。
パヴェルの腕の力強さに驚き、エミーリエの方が力が抜けていく。
「俺はどう言われようと構わない。多分、連れていっても、離れて待たせていても落ち着かないんだ」
抱き締めて囁いてくれる。パヴェルはエミーリエを愛しいと感じてくれているのだろうか。
――自分が恋をする未来なんて予想もしていなかった。
けれど今、こんなにも胸が騒ぐ。パヴェルといる時がいつまでも続けばいいと願ってやまない。
涙は止まるどころか溢れるばかりだった。
「置いていかないでください。わたしもパヴェル様のおそばにいたいんです」
それが素直な気持ちだった。
パヴェルはエミーリエが苦しくないように腕の力を緩めた。
「ただし、向こうで勝手な動きは絶対にするな」
「はい」
「それから――」
何かを言いかけたが、パヴェルはその先を言わなかった。
「いや、全部終わってからにしよう」
それでも、パヴェルがエミーリエから体を離すと、包まれていた心地よさが消えて寂しくなった。
どんどん贅沢になっている自分を感じる。
また孤独が始まった時に耐えられるだろうか。
そんな心を隠しながら、エミーリエはパヴェルに微笑み返した。




