31◇眷属
パヴェルの過去を知って、エミーリエは以前よりもパヴェルのことを深く考えるようになった。
王子なのに気位の高さがないのも、弱者に優しいのも、押さえつけられて育ったからだ。
エミーリエは閉じ籠って育ち、孤独だった。パヴェルは人に囲まれながら孤独だった。
マクシムやシャールカのような理解者がいたとしても、彼らを巻き込むつらさも抱えていた気がした。
そんなパヴェルに寄り添っていたいと、エミーリエは願った。これがどういう気持ちからなのかはよくわからない。それでも。
ぼんやりとしながら、書庫で見つけた本をパラパラと捲る。
この本は白紙だったのだ。普通に目視するだけで読めるわけではない。けれど、どうせ考え事をしていて本の内容なんて頭に入らないから、ただ捲るだけでよかった。
古い本の匂いがする。
そこでふと、黄ばんだ本のページに何かが見えた気がした。
「あれ?」
きっと気のせいだろう。
そう思いつつもなんとなく指先でページをなぞった。すると――。
エミーリエが触れたところだけ、うっすらと玉虫色に光る文字が浮かんだ。これだけでは読めないけれど、確かに文字だ。
「何これ……」
驚いて手の平をページに載せてみた。
手の下から光が零れている。
エミーリエは高鳴る胸を押さえながら手を退かした。
その文字はエミーリエに語りかける。
中途半端なページを開いているのに、ここが冒頭であるかのような――エミーリエにはその文字が読めたのだ。
いつも使っている共通語ではない。タロン公国の洗礼の儀で使われるルーナ文字に似ているような。勉強したわけでもないのに、意味がスラスラと頭に入ってくる。
手で本を撫で、読みふけった。そして、そんなエミーリエに声がかかる。
「エミーリエ、真実の味はどう?」
ビクリと体を強張らせて顔を上げた。
エミーリエが困っている時に聞こえるあの少年の声だ。
姿は見えないとわかっているのに顔を上げた。それくらい、そこにいるくらい、声が鮮明に聞こえたのだ。
「あ、あなたは……」
まさかと目を疑ったが、そこにいたのだ。金色の目をした少年が。
尖った耳、紫色の艶めいた髪。服装は農民のように質素だったけれど、美しい少年だ。ただし、皮膚の下に血管が透けて見えることもなく、人間味が感じられない。
「僕はヴァスィル。こうして会えて嬉しいよ」
「ヴァスィル……」
名を呼ぶと、ヴァスィルは人懐っこく笑った。
「何度もわたしを助けてくれてありがとう。でも、どうして?」
この本によって彼の正体を知った以上、まったく緊張しないわけではなかった。
「空から君のことが見えたから。あそこから出てきた眷属の女の子がひどい目に遭わされていて、とても放っておけなかったんだ」
「眷属……」
「その本を読んだんだろう? 面白い遺物だ。探し当てるのに骨が折れたけれど」
「この本を出してくれたのはあなたなの? 真実を知る者がいなくなった時のために遺しておくと書かれていたけれど」
この本を書いたのは、太古の昔にカーライル王国で賢者と呼ばれていた男だ。彼は自らの血で記す、としたためていた。
つまり、彼もまた眷属であった。
「僕が語るより信憑性があるだろう? 地上ではもう誰も知らないんだろうね。君の故郷でさえも」
誰も知らない。エミーリエも何も知らなかった。そして、まだ理解できそうもない。
震えが止まらなかった。
「今のタロン公国の民は純粋な人間じゃない。そして、エミーリエ、君の血はとても濃い。だからこそ僕の声が聞こえて、僕の声に呼応して飛べたんだ」
タロン公国で行われている洗礼の儀。
あれは、血の濃さを調べている。〈竜〉の血の濃さを。
タロン公国の民は皆、竜の血を引くのだという。
その濃さは様々だが、時折先祖返りの濃い血を持つ者が生まれる。その者は、人でありながらも竜の化身でもある。
竜は翼を持つすべての生物の王であり、従えることができるが、人間は竜に屈さない。
過去にそんな人に興味を持った竜たちがいて、その中でも強い魔力を持った竜が人の姿となって地上で子を成した。
そして、子供たちを護るため、外界から独立した。
竜が番としたのはタロン公国の公子であったという。
カーライル王国の賢者であった竜は、地上で人と子孫を残すことはなく、最後は天へ帰った。
「僕はタロン公国とは関わりのない、天に棲むいにしえの竜の一族だ。人と慣れ合ったやつを身内だとは思っていない竜がほとんどだけど、僕は面白いと思ったよ。地上の竜は、どこから見ても人間なのに、竜と同じ気配がするんだね」
「あなたも人間に見えるわ」
「今の僕のこれは君と話すために作っている幻影だよ。僕はまだ未熟だから、本体で人間になるのは難しくて。本当の僕はこんな姿じゃないんだ」
それを聞き、ああ、と思い当たった。
「ヴァスィル、あなた、パヴェル様のお屋敷に来た竜ね?」
「あの時はありがとう。助かったよ」
「わたしの方こそ何度も助けてもらったわ」
互いに笑い合う。そうしたら、ヴァスィルは笑いながらどこか悲しそうに首を揺らした。
「種族とか、育ちとか、そればかりに囚われるのは嫌なことだと思うよ。現に、僕と君はもう友達だ」
友達。
竜だというけれど、ヴァスィルはとても柔軟な考え方をする。だからこそ、エミーリエに興味を持ち、助けてくれたのだろう。
「でも、人間は僕たち竜と同様、もしくはそれ以上に種族にこだわる。君にとって地上は生きにくい場所なのかな」
エミーリエは、タロン公国でさえ異質だった。このカーライル王国社会ではもっと奇異な存在になる。
それならば、自ずとここから去るしかなくなるのだ。いずれ、パヴェルとの別れの時が来る。
そう考えると、胸が絞めつけられた。
これは寂しいからだ。あの人の傷に寄り添っていたいと思えたけれど、それは過ぎた願いだった。人ですらないエミーリエがそんなことを願ってはいけなかった。
かといって、人の血が混ざったエミーリエは天にも居場所はないのだろう。
「わたしは一体、どこへ行けばいいの?」
思わず弱音を吐いてしまう。それでも、ヴァスィルは優しかった。
「それは君が選ぶことだ」
「わたしが?」
選んでも許されるのだろうか。何にもなりきれない自分が。
ヴァスィルはそっとうなずく。
「どこを選んでも楽な道ではないかもしれないけど、僕は見守っているから」
「ありがとう、ヴァスィル。あなたと友達になれて嬉しい」
「僕も嬉しいよ」
竜という生き物に描いていたイメージがガラリと変わった。ヴァスィルはとても人懐っこい。
エミーリエはずっと、理不尽な何かに押さえつけられていた。
その理由がやっと見えるところに現れた。
けれどそれは救いではなかった。
結局のところ、エミーリエは人に馴染んで生きてはいけないのだ。
そのうちにパヴェルと別れる日が来るのなら、せめて今は共にいられる時間を大切にしたい。
彼のためにできることを精一杯しようと思った。
気がついたら涙が零れていた。
ヴァスィルがいなくなっていたのは、エミーリエを静かに泣かせてあげるためだったのだろうか。




