29◇たったひとつだけ
罪人の子だと、そんな他人からの悪意は跳ね返していればよかった。
パヴェルには、これ以上悪くなりようがない評判を気にして生きるつもりはなかった。
人から好かれたいという願望はない。
ただし、自分を許してくれた父と、兄だけは違う。
特に兄は母親を亡くして悲しい思いをした。兄には幸せでいてほしい。
兄の幸せにスラヴェナは必要なかった。
エミーリエがそばにいれば、兄はきっと心安らぐ時を過ごすだろう。
パヴェルがそうであるように。
そんなことを考えてしまうから、エミーリエには結局何も言えなくなった。
あの娘は環境が変わってそれに順応するのに必死で、色恋には疎い。
伝えなければ、パヴェルがエミーリエをどう見ているのかなど気づきもしないだろう。
このままパヴェルが気持ちに蓋をしておけば、何も始まらない。
壁際で誰もダンスに誘うことなく考え事をしていたパヴェルに、兄と踊り終えたエミーリエが近づいてきた。
「パヴェル様、わたしはもう十分に舞踏会を堪能させて頂きました。そろそろ戻りましょう?」
「まだそれほど踊っていないだろう?」
夜はまだこれからだ。
それでも、慣れないエミーリエは疲れたのかもしれない。言いにくそうにパヴェルを見上げた。
「舞踏会では同じ方とばかり踊るのはマナー違反だとお聞きしました。それと、女性から誘うのもよくないと」
踊る相手がいないわけではない。誰もがエミーリエに興味を示している。
ただし、パヴェルを気にして誘いづらいというのはあるかもしれない。
それでも、エミーリエはもういいと言う。
「同じ相手と踊れないなんて困ります。それなら、ベルディフ領のお屋敷で踊っている方がいいです」
屋敷で踊るのなら、相手はパヴェルしかいない。それでいいと言ってくれるのか。
「つまらなくはないか?」
「どうして――あっ、パヴェル様にわたしの相手ばかりさせてしまうことになりますね。たまにでいいのです。お忙しいのは承知していますから」
「そうではなくて……」
キュッと心臓が切なさで収縮する。
他人との交流で心を動かされるようなことはないと思っていたのに、エミーリエはいつもパヴェルを揺さぶる。
エミーリエは、普段ならばもっとおどおどとしているのに、今日はまっすぐにパヴェルを見ていた。その目には労りのようなものもあったかもしれない。
「あの、わたし、パヴェル様のお母様のお話をお聞きしました」
人の口に戸は立てられないから、そのうちにエミーリエの耳にも入るだろうと覚悟はしていた。知られても構わないつもりだったが、実際は自分でも驚くほど動揺していた。
それは、兄がエミーリエに興味を持ったからだ。
パヴェルがいなくても、兄はエミーリエを護るだろう。
行き場のないエミーリエはパヴェルから離れていけない――そんなずるいことを考えていたのだと、今になって気づいた。
黙ったパヴェルをエミーリエは見つめている。
「聞いてしまったのに黙っているのは心苦しいので、これをお伝えしようと思いました。それだけです。知ったからといって、パヴェル様がわたしにしてくださったことが何か変わるわけではありませんから」
そんなふうに言って笑ってもらえるようなことを、エミーリエに対してできていただろうか。
その笑顔が愛しくて、喉がヒリヒリと痛んだ。
兄が望むのなら、自分は手を引けばいいと、本気でそんなことができるつもりだったのか。
何も求めずに生きていても、生きているからこそ、たったひとつだけは譲れないというものができてしまう。
それは相手が兄でも、誰であっても同じことだ。
どうしても、この娘だけは失えない。
パヴェルはエミーリエの手を握った。
急だったせいか、力強かったせいか、エミーリエは驚いていた。
「お前に嫌悪感がないのなら、ずっと俺のところにいてくれ」
どれくらいゆとりのない表情をしていたのか、自分ではわからない。エミーリエの方が落ち着いていたかもしれない。
「ええ、ありがとうございます」
柔らかく、ほっとしたように言ってうなずいた。
深い意味を受け取ってもらえなかったような気もするけれど、今日はもう疲れ果ててしまった。
「……帰るか」
「はい」
とにかくもう、エミーリエをむやみに人前にはさらさない。
次にここへ連れてくる時は、少なくとも婚約までは漕ぎ着けてからだ。
兄は――ああいう性格の人だから、残念に思いながらも最後には祝福してくれると思いたい。




