25◇書庫での出会い
カーライル王国の歴史は、戦いに明け暮れていたと言っても過言ではなかった。
西のヴァラフ王国、北東のクバラ王国、北のカイト公国、南西にビーク公国――そして東にはタロン公国。
隣接する国家が多い。カイト公国とビーク公国はもとは小王国であったのだが、カーライル王国が制圧し、その血筋を絶やした。
そして、もとはカーライル王国出身の王侯貴族にその位を与え、統治させている。国として独立しているのではなく、この二国は事実上カーライル王国の傘下にある。
タロン公国は例外として、ヴァラフ王国、クバラ王国とは小競り合いを繰り返してきたが、カーライル王国はそのたびに領土を広げている。大陸一の強国だった。
ただしここ数十年、どの国も戦をするような余力はなく、この大陸は穏やかな時を過ごしているそうだ。
そんな軍事国家でありながらも、カーライル王国は音楽や芸術に理解がある。
町並みはすっきりと整った中に調和性があり、美しい。それこそが平和の象徴に見えた。
そして今、エミーリエは、まるで絵画のような壁紙と天井に見入っていた。王城ともなると、地方の屋敷とはまったく趣が異なる。
思えばエミーリエの生家も国自体が小さい上、諸外国との交流もなかったのだから、わりと慎ましいものだったのだ。
「今、お茶を運ばせますね」
シャールカがにこやかに言ってくれた。
「ありがとうございます」
エミーリエも笑って返す。
すると、扉がノックされ、入り口に近づいたシャールカに侍女らしき女性が小声で何かを伝えた。シャールカの顔は見えなかったが、あまり嬉しそうではない気がした。
「……わかりました。でも、少しだけです。私にはお役目がありますので」
「ええ、少しでよいそうです」
それだけが聞こえた。
シャールカは困ったようにエミーリエを振り返る。
「すみません、少しだけ所用のために外させて頂きますが、すぐに戻ります」
「ええ、わたしなら大丈夫です」
シャールカを困らせないように言ったが、もちろん不安はあった。
侍女がそこに残ってくれていたが、分を弁えてということなのか、エミーリエと会話を楽しむわけではなかった。用があれば声をかけてほしいという意味で控えている。
大人しくシャールカを待つつもりでいたエミーリエだったが、ふと聞き覚えのある声がした。
「――ようやくここまで来たね」
ハッとして顔を上げた。
頭の奥に響くような声だ。この声を知っている。
いつも困った時に聞こえるあの少年の声だ。
このところは何事もなく、この声を忘れてしまうほどだった。久しぶりに聞こえたと言っていい。
ようやくここまで来たと。
この言葉にはどんな意味があるのだ。
「……あなたはどこにいるの?」
思わず問いかけると、自分に声をかけられたと思ったのか、侍女が戸惑っていた。
「こっちにおいで、エミーリエ」
また、頭の中に声が響く。
エミーリエはソファーから立ち上がり、導かれる方へ進んでいた。
その声が明確にどこと示したわけでもないのに、エミーリエは進むべき方角をわかっているような気になっていた。
「あ、あの――」
侍女が何かを言いかけたけれど、今のエミーリエは他のことを考えられなかった。扉を開き、廊下へ飛び出す。
広い城の中だというのに、エミーリエは迷わなかった。階段を駆け下り、シャンデリアの続く廊下を行く。
そして――。
ここだ。この場所だ、とエミーリエは確信した。
鏡板の木目が美しいその扉が光を放っているようにすら感じられた。
扉に鍵はかかっていない。それどころか、エミーリエを待ち望んでいたかのように、扉は軽く開いた。
柔らかな光が照らすその部屋は広かった。天井がとても高く、丸みを帯びた壁には壁紙ではなく本がぎっしりと詰まっていた。古書独特の匂いがどこか懐かしい。
エミーリエはここまでの規模の書架を見たことがなかった。並んだ書籍の数に圧倒されていると、書架にかかった梯子から人が下りてきた。
「君は誰かな?」
司書だと思ったが、違ったのかもしれない。
二十代半ばくらいだろうか。襟足のところがはねた白銀の髪と飴色の垂れ目。背は高くもなく低くもない。こんな場所だからか、少し顔色が悪いようにも思えた。
着ている服はシャツもすべて絹地だ。ただの司書ということはないだろう。
「勝手に入ってしまってすみません。エミーリエと申します」
ペコリと頭を下げると、その青年は柔らかく笑った。
「いや、特に立ち入りが制限された場所ではないよ」
この時、本物の司書らしき男性が何かを言いたげに近づいてきたが、青年がそれをやんわりと目で退けた。
「本を借りに来たのかい?」
「貸して頂けるのですか?」
「借りたいのならね」
「それならお借りしたいです!」
タロン公国の実家にも、ベルディフ領のパヴェルの屋敷にも本はたくさんあった。けれど、そのどちらにもない本がここにはあるのかもしれない。
嬉しくて、ここへ来たのが何故なのか、目的がどこかへ飛んでいってしまいそうになった。
エミーリエが力強く答えたからか、青年は笑っていた。
「僕も本が好きだから、気持ちはわかるよ」
上品に声を立てて笑われると、エミーリエも少し恥ずかしくなった。
青年はその笑いが収まると、言った。
「それで、エミーリエ。君はどこから来たの? 僕を知らないところから来たんだから、結構田舎なのかな?」
――この人は、誰でも顔を知っているような人らしい。
誰だろう。エミーリエは焦ったが、知らないのだから仕方がない。
「そうなのです。とても田舎から……。その、憧れの舞踏会に出たくて」
「ああ、そうなんだ? 連れを捜しているうちに迷子になったってところかな」
そういうことにしておこう。エミーリエは曖昧に笑っておいた。
すると、青年は一冊の革表紙の本を手に、優雅に首を傾げる。
「じゃあ、自己紹介をしておこう。僕はルドヴィーク・イヴァン・カーライル。この国の王太子だ」
「えっ!」
エミーリエが口を押えて驚愕してしまった本当の意味を、当のルドヴィークは正しく知らない。
王太子であるということに驚いた以上に、このルドヴィークがパヴェルの兄だということに驚いたのだ。
似ているとは言い難かった。むしろ、性質がほぼ真逆のような気がする。
ルドヴィークは少なくとも、子供に怯えられて泣かれることはないと思う。とにかく、人当たりがいい。
「それは……ご無礼をお許しください」
エミーリエが改めて頭を下げると、穏やかな声が降った。
「いや、気にしなくていいんだ。舞踏会に出るというのなら、またそこで会うだろう」
「は、はい」
優しい人でよかった。ルドヴィークと会ったと言ったら、パヴェルは驚くかもしれない。
こんな人が兄なら、パヴェルもきっと仲良くしていると思えた。
この頃には、ここへ来た原因となったあの声はしなくなっていた。
その代わり、不思議なことが起こった。
一冊の本が空から降るようにエミーリエの前に落ちてきたのだ。とてもゆっくりと落ちてきたように感じられて、エミーリエはその本を受け止めることができた。開いているページを見ると、そこには何も書かれていない。
なんだろう、この本は。
誰かが落としたのかと思って見上げたけれど、それらしき人は誰もいなかった。
「その本は?」
落ちてくる瞬間を見ていなかったのか、ルドヴィークは不思議そうだった。
とても古びた本で、革表紙は黄土色に見えるけれど、もとはそんな色ではなかったのかもしれない。
「落ちてきたんですけど、白紙ですね」
「本当だ」
パラパラとページを繰っても、何も書かれていない。
ルドヴィークは司書を呼び、この本について訊ねた。けれど、司書でさえ首を振った。
「こんな本は見たことがありません。管理記号もありませんし、この書庫のものではないかと。表紙にも何も書かれていませんね」
「ふぅん。奇妙なこともあるもんだね」
何も書かれていない本。
けれど、何故かエミーリエはこの本が気になって仕方がなかった。どうしても手放せないような気になってしまう。
「あ、あの、この本をお借りしてもよろしいでしょうか?」
申し出ると、ルドヴィークと司書は目を瞬いた。
「読むところがあるとは思えないけど」
「でも、何か秘密がありそうでワクワクします」
それを言うと、ルドヴィークは優しい表情を浮かべてうなずいた。
「確かにね。じゃあ、何かわかったら教えてほしいな」
「はい!」
ここの本ではないと認めた以上、司書も駄目だとは言わなかった。本を掻き抱くエミーリエをただ見ていた。
「じゃあ、またね。エミーリエ」
「ご親切にありがとうございます、王太子殿下」
エミーリエも微笑んで返す。
そうして書庫から出て客間に戻ろうとしたが、エミーリエは道がわからなかった。
ウロウロして、道行く人に部屋を訊ねながら戻ると、途中の廊下でシャールカに出会った。
「エミーリエ様!」
「わぁ、ごめんなさい!」
きっと、いなくなったエミーリエを捜してくれていたのだ。駆け寄ってみて、エミーリエが本を抱えていることに気づいた。
「本を借りに行かれたのですか?」
「ええと、そこで偶然、王太子殿下にお会いしました。パヴェル様のお兄様ですよね」
これを言うと、シャールカがギクリとしたのがわかった。
答えるよりも先にエミーリエの肩をそっと押し、部屋へと急ぐ。その時、小声で言った。
「王太子殿下は何か仰っておいででしたか?」
「いえ? 本が好きだとしか」
「それならよいのですが」
この時の張りつめたシャールカの様子が、エミーリエには何故だかよくわからなかった。




