23◇サムエル事件
パヴェルは自室へ戻るなり、着ていたジュストコールを脱いでベッドに放った。型崩れしようと皺ができようとどうでもいい。
チュニックに着替えると、ソファーに座り込んで考えた。
――サムエルって誰だ、と。
いや、本当はずっとそればかり考えていた。
自分のことをあまり語らないエミーリエが初めて口にした男の名だ。
父親や兄を呼び捨てにはしないだろうから、弟と言いたいところだが、末っ子だと聞いた気がする。
では、使用人か。使用人が公女と躍るとは思えない。
親戚筋や友人――そうしたつき合いはなかったようなことも言っていた。
けれど、とても親しげに名を呼んでいた。気心の知れた間柄なのだろう。
考えられるとしたら、婚約者か。
妙齢の公女なら、いて当然だろう。
ぼうっと考え込むと、エミーリエの姿が浮かんでくる。
急ごしらえのドレスでも、とてもよく似合っていた。
今まで夜会では美しいと評判の令嬢たちに会ったけれど、これといって心動かされることはなかった。どんな顔だったか、もう思い出せないくらいだ。
どの令嬢たちも今日のエミーリエほどには魅力を備えていなかったように思う。
「…………」
待っている人はいないとエミーリエは言った。
サムエルは、ひどい浮気性で別に女を作ってエミーリエを捨てたのだろうか。
もしそうだとしたら、エミーリエはサムエルに未練などないはずだが、実際のところはどうなのだろう。
「サムエルって誰でしょうね?」
いきなりマクシムの声がして、パヴェルは驚きのあまり殴りそうになった。
それを辛うじて押し留めると、マクシムはそんなパヴェルににこりと笑った。何故か今はその笑顔に腹が立つ。
「心ここにあらずですか。どこまで飛んでいってました?」
「どこにも行っていない」
「いや、どれだけ声をかけたと思ってるんです?」
部屋に入って来たのにも気づかなかった。とんだ失態だ。
マクシムは苦い顔をしたパヴェルを眺め、ただただ楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「パヴェル様がこんなふうになったの初めてです。エミーリエ様のおかげで面白いものが見られてしまいました」
「うるさい。黙れ」
そんなことを言ってみても無様なだけである。
「パヴェル様が気になるようでしたら、探りを入れてみましょうか?」
探りと。
パヴェルが気にしているから教えてほしいとエミーリエに訊ねるのか。
そんな馬鹿な話があるかと顔をしかめた。
「余計な気は回さなくていい。俺は何も気にしてなどいない」
「どの口が仰るやら」
笑っているのに、今日のマクシムは妙に辛辣だった。
「まあいいでしょう。ご自分で直にお訊ねになるのが一番ですから。ただ――」
そこまで言ってマクシムは扉の前まで行き、ノブに手を伸ばした。そして、振り向きざまに言い放つ。
「エミーリエ様と躍るパヴェル様の眼差しのお優しかったこと。鬼神と恐れられた御方とは思えないほどでしたよ」
「っ――」
パヴェルが言い返す前にマクシムはさっさと行ってしまった。
その鬼神に、こんなにズケズケと物を言うのはマクシムくらいのものだ。
パヴェルは頬杖を突いた。気にならないふりをしてみたところで、本当は気になって仕方がない。
どうしてこんなに気になるのかといえば、エミーリエのことだからだ。
何かにつけて危なっかしく、どうしても目が離せない。
いつでも自分の視線の先で笑っていてほしいと願っている。
出会って間もない娘に対し、こんな感情を抱くようになった自分が信じられなかった。
けれど、惹かれてしまった事実は今更覆らない。
自分は、あの娘を愛しく感じている。
まずはそれを認めなくてはならない。
小さくため息をついて、パヴェルは目を閉じた。
翌日、エミーリエはドレスではなくワンピースを着て、手には本を持っていた。廊下で会うと、エミーリエは花が咲くように微笑んだ。
「昨日はありがとうございました」
ごく自然に礼を言った。あの取り乱した様子が嘘のように。
ただし、パヴェルの方は違う。不自然なほど緊張している。
それを覚られないよう意識しながら口を開く。
「ん。言うほど下手ではなかったな。その、サムエルと練習していたから――」
「っ!」
サムエルの名を出したら、エミーリエは動揺して本を落とした。
「ご、ごめんなさい。本が……」
この屋敷にあった本を借りてきたのだろう。エミーリエは拾う素振りを見せたが、それがうつむいて顔を隠すための仕草に思えた。だからパヴェルは先に本を拾った。
そうしたら、顔を上げたエミーリエはやはり赤らんでいた。
「サムエルって、誰だ?」
直球で訊ねた。余計なことは言わない方がいい。
エミーリエは恥ずかしそうに目を潤ませていた。その様子は可愛らしくて、それが余計に気に入らない。
「あの、それは、その……」
口ごもるのも照れているようにしか見えなかった。
余計なことは言わないでおこうと思ったのに、気づけば口から飛び出していた。
「婚約者か?」
――言ってしまった。
そんなことまで詮索するのかと、エミーリエは感じたかもしれない。
目を大きく見開いていた。言わなければよかったと後悔しても遅い。
ただ、エミーリエの反応が思っていたものとはまったく違っていた。
「………………え?」
この間はなんだろうか。
まるでひどく的外れなことを言われたかのような。
「あの、姉様たちは今のわたしの年齢の頃には嫁ぎましたけど、わたしみたいな半人前に婚約者なんて用意してくれるはずもなくて。だから、婚約者なんて」
いないらしい。
だからといって、まだ安心する気になれなかった。
「じゃあ、誰だ?」
「だ、誰と言いますか、誰でもないと言いますか……」
どうしてこんなにも言いにくそうにするのだろう。
隠されると余計に問い質したくなるのに。
「どんなヤツなんだ?」
しつこくしてはいけないと思うのに、止められない。
エミーリエは恥ずかしそうに頬を両手で包んだ。
「その、耳と足の裏がチェックで、腕のつけ根には木のボタンがあって。わたしがいけなかったのですが、左足についたベリージャムの染みがどうしても抜けなくて……」
「………………」
「一応クマのつもりでした。小さい頃に作ったので、誰が見てもクマに見えるかはわかりませんが」
もし、エミーリエが正直に話してくれているのだとしたら、笑ってはいけない。
笑ってはいけないのだが、笑うしかない。
パヴェルは自分の口を押さえて零れる笑い声を遮ろうとした。それでも、笑いが込み上げて仕方なかった。
エミーリエが少し傷ついたふうに見えて、パヴェルは笑いを含んだ声で告げた。
「すまない。お前のことを笑ったんじゃないんだ。これは自分の馬鹿らしさが可笑しくて」
勝手に勘違いしてやきもきしていた自分が滑稽で可笑しかった。
まさか、人生のうちでぬいぐるみ相手に嫉妬することがあるとは思わなかった。
ぬいぐるみを相手に踊っている小さなエミーリエは、さぞ可愛らしかったことだろう。その情景を思い浮かべ、優しい気持ちが湧く。
戸惑っているエミーリエに対し、パヴェルは晴れやかな気分だった。
「もうぬいぐるみは要らないな。踊りたければ俺と踊ればいい」
「でも、わたしは下手なので」
「下手だと思うなら余計に、練習だ」
こんなことを言っても、きっとエミーリエは遠慮するだけだろう。
「ありがとうございます」
礼儀正しく言うけれど、未だに遠い。
どう扱うといいのか、まだ答えが見えてこなかった。
それでも、あまり結論を急がない方がいいとも思えた。
ポン、と頭の上に手を置く。
今のところ、こんな触れ方が精いっぱいだった。
――余談だが、この一連の出来事は、後にマクシムによって〈サムエル事件〉と命名された。




