19◇安堵
そこで何をしている、と問い質したかった。
けれど、木の上にいるエミーリエを見つけた途端に、パヴェルはとっさに声が出なかった。体が痺れるような、力が抜けていくような感覚は、間違いなく安堵だ。
見つけることができたという安堵。
けれど、エミーリエがパヴェルを認識し、表情を浮かべた瞬間に、そんな安堵は吹き飛んだ。
エミーリエは顔を曇らせていた。
もう二度とパヴェルと会うつもりはなかったのだとわかる。
それなのにパヴェルが勝手に追ってきたのだ。会いたくなどなかったのに。
出ていけと言ったくせに勝手だ。
そんなつもりはなかったと、それを言うのも勝手だ。
まず何を言えばいいのかわからないまま、パヴェルはそれでも口を開いた。
「エミーリエ……」
声をかけたら、エミーリエは泣き出しそうになった。
「も、申し訳ありません。すぐに消えます。――嘘です、すぐは無理です。ちょっとお時間をください。すぐには下りられなくて、本当に申し訳ありませんっ」
どうしてそんなところに登ったのか、そんなことはこの際いい。
パヴェルは上を見上げたままで言った。
「謝るのは俺の方だ」
エミーリエは、えっ、と小さく声を漏らした。そんなところにいるから、まるで猫にでも話しかけている気分になる。
「出ていけなんて本気で言ったわけじゃない。危ないから、怪我をさせないように下がらせたかっただけだ。気が急いて乱暴な言い方をしてすまなかった。それを本気にするような相手だとわかったからには二度と言わない。悪かった」
――今まで、どれくらいの相手にこんなふうに詫びただろうか。
多分、一度もない。弱い自分は見せられないと思って生きていたから。
それでも今は心から詫びなくてはならないと思った。これ以上、エミーリエを傷つけたくはない。
エミーリエは、呆けたようにパヴェルの謝罪を聞いていた。
「俺のところに戻るのが嫌なら、どこかお前が落ち着けるところを探す。だから、許してほしい」
すると、エミーリエはポツリ、ポツリと雨のように言葉を降らせる。
「殿下のところが嫌だなんて、そんなことはありません。でも、わたしが戻っても、殿下のお役に立てることは何も……」
嫌ではないと言ってもらえて、たったそれだけのことにエミーリエを見つけた時と同様の安堵を覚えた。
無垢な子供にいつも泣いて嫌われるのがつらかったのと同じように、エミーリエのような娘に嫌われるのも苦しかった。
「もう十分役に立ってくれた。エミーリエ、帰るぞ」
そう言って手を差し伸べると、エミーリエは小さな手で自分の目元を拭った。この善良な娘に心細い思いをさせてしまったことを申し訳なく思う。
得体が知れない。
謎が多い。
それでも、心の内がこんなにも清らかなのだから、それらが彼女を嫌う理由にはならない。
「は、はい! ――あっ」
エミーリエはなんとか木の上から下りようとしたのか、足を滑らせて落ちてきた。
その一瞬で心臓が潰れそうな思いをしたけれど、パヴェルは彼女を受け止めることができた。
前にも何度かエミーリエを抱えたことがあったけれど、今ほど彼女の体温を感じたことはなかった。不思議なくらい、胸の奥までその熱が伝わってくる。
「申し訳ありません!」
エミーリエは焦っていたけれど、パヴェルは笑って返した。すると、エミーリエは照れた様子で、ありがとうございます、とつけ足した。
それでも、パヴェルはすぐにエミーリエを下ろさなかった。抱えたままで問いかける。
「何故あの竜は大人しく去ったんだ?」
「えっと、耳に虫が入って慌てていたので、それを取ってあげたんです」
「見えたのか? よくわかったな」
「なんとなく、そうじゃないかって思えて」
「わかった。それで、今回は俺が悪かったが、今度似たようなことがあったら動く前に説明してくれ。聞くから」
「はい、そうします」
答えながらもエミーリエがそわそわしていたのは、地面に足がついていないせいだろう。
下ろしてから話せばいいものを、なんとなくこのまま語りかけたのは、このままだとエミーリエが顔を背けにくいからだ。
身長差があるので、エミーリエがうつむくとつむじしか見えなくなる。
それと、エミーリエの体温と重みが心地よかったせいかもしれない。
エミーリエが落ち着かないようなので下ろしてやると、慌てて脱げた靴を履いた。
その時、腹の音が小さく鳴っていた。振り返らず、しらを切り通そうとしたようだが、耳が正直に赤くなる。
パヴェルは妙に優しい気持ちになって、エミーリエの頭に手を載せた。
すると、エミーリエの髪に小さなガラスの破片が絡んでいた。どこかから逃げ出す時にガラスを割ったのだろうか。
怪我はないようなので、パヴェルはそのガラスをサッと払った。
「俺も食事はまだだ。シャールカも宿にいるから、宿で食べるぞ」
「主張のうるさいおなかですみません」
しょんぼりとそんなことを言うから、可笑しくて笑ってしまった。
「お前の口は主張をしなさすぎるから、腹を見習え」
「ええっ」
エミーリエを見ていると、どうしようもなく笑みが浮かぶ。こんなふうに自然と笑いたくなったことなどなかったかもしれない。エミーリエは不思議だ。
この時、エミーリエを連れて宿へ戻ろうとすると、道の途中で中年の男を連れた老婆がエミーリエを指さした。
「ああ! あの娘だよ!」
その途端にエミーリエはギクリとし、足を止めた。逃げ出しそうになるのをすんでのところで踏み留まったように見えた。
パヴェルは眉を顰めた。この二人は堅気ではないだろう。
老婆は鬼の形相でまくし立てる。
「勝手に部屋から抜け出すんじゃないよ!」
「い、いえ、あの、わたし、やっぱりお仕事はご遠慮させて頂こうかと……」
エミーリエは見る見るうちに青ざめる。
どうやらこの老婆に仕事を斡旋してもらう予定だったらしい。それがどんな仕事だったのかは聞きたくもない。
世間知らずなエミーリエは、雇ってくれるという言葉に飛びつき、途中で危機を察知して逃げたのだろう。だからあんな木の上にいたのか。
「はぁ? 今更何言ってんだい!」
老婆は激昂するあまりパヴェルのことが目に入っていなかったらしい。連れの男が老婆のショールを引っ張る。
「ばあさん、マズいって」
「うっさいね、あんたは黙って――」
しかし、そこで老婆とパヴェルの目が合った。そこに何を見たのか、老婆の顔色が変わった。
「この者に関わるつもりなら、俺を敵に回すつもりでいるといい。その覚悟はあるか?」
老婆はパヴェルの正体に気づいたのかもしれない。
まるで入れ歯が落ち着かないかのようにカチカチと鳴らし、ずっとエミーリエに突きつけていた指を後ろに隠した。それでいい。
エミーリエの肩を抱き、再び歩き始める。エミーリエがパヴェルを見上げる目には、迷惑をかけていないかという心配だけがあった。
けれど、パヴェルは自分がしたいように動いただけだ。誰に強要されたわけでもなく、ただエミーリエを護りたいと思った通りに。
宿に戻ると、シャールカは眠っておらず、パヴェルがいないと知って宿の辺りをうろついていた。
エミーリエの無事な姿を見てほっとしたものの、パヴェルが身分も考えずに町を一人で歩き回ったことが大いに不満だったようだ。それが顔に出ていた。
多少の無理はしたけれど、結果としてエミーリエを捜し出すことができたのだから、シャールカから小言を食らうくらいは我慢しよう。




