17◇焦り
あんなにも頼りない娘の足に、馬でさえ追いつけないとは思わなかった。
辺りはどんどん暗くなっていく。
「皆がいた正面から出ていったはずはないんです。裏口を使ったとしたら、敷かれている道を通るでしょう。わざわざ森や川の方へ行くとも思えません」
マクシムはそう言うが、その道の先にある村にはエミーリエらしき娘が来た痕跡はなかった。
「彼女を最初に発見したのは川の方でした。絶対にないとは言えないのかも……」
シャールカも考え込む。さらに暗くなってしまえば、もっと見つけにくくなってしまう。
「ええと、酒場には情報が集まりますから、ちょっと行ってきましょう」
今のマクシムもシャールカも騎士の制服を着ていない。パヴェルの私情で動くのだから目立たない方がいいだろうという配慮で着替えた。それでも育ちの良さは隠せないが。
「俺も行く」
パヴェルは、じっと待っているのが苦痛だった。シャールカだけを馬の番に残し、マクシムと一緒に町の小さな酒場へと向かう。
看板を見ると二階は宿になっているようだが、まあ汚い。狭い。
しかし、そんなことは気にしていられない。
徐々に客が集まり出す中、どうにも場違いな二人に視線が集まる。それでもマクシムは人好きのする笑顔を浮かべて訊ねた。
「お姉さん、ちょっとお聞きしたいのですが、この村に十六、七歳で儚い感じのする小柄な女の子が来ませんでしたか? この辺りでは見慣れない顔だと思います。まっすぐな長い髪で、服装は青いワンピースだったかと」
カウンターの奥にいた両肩を露出した女は、赤い唇に手を添えて言った。
「ああ、あのキレイな娘でしょう? うちに泊まっているよ」
「どの部屋だ?」
前のめりになったパヴェルの勢いに驚きつつ、女は商売用の笑顔を向けた。
「今頃入浴中じゃない? 二階の部屋で待っているといいよ。女の子の方を部屋に連れていってあげるから」
「……わかった」
すぐにエミーリエの顔が見られなくて、謝ることができなくて、すっきりはしない。それでも居場所がわかっただけでほっとした。
とはいえ、どうしてこんな宿を選んだのだろう。
酒場なんて、エミーリエなら委縮して入れないような気もするが、他に空き部屋がなかったのかもしれない。
「マクシム、シャールカと外で待て。俺は二階の部屋にいる」
「いや、お一人にするわけには……」
「それならひとまず、シャールカに事情を説明してきてくれ」
「わかりました。すぐ戻ります」
マクシムは何かを気にしていたが、渋々外へ出た。
酒場の女はパヴェルに流し目をくれるが、パヴェルは受け取らなかった。それでも、女は媚びたような高い声で語りかける。
「お客さん、旅の人? 馬で来たのなら馬屋があるわよ」
「今、連れが手配しに行った。二階に案内してくれ」
「ええ、せっかちねぇ」
気持ちが急いているのは当然だ。ただし、パヴェルがどうだろうと、エミーリエが自分のペースで入浴しているのだから待つしかないのだが。
二階へと続く階段は狭く、床板も壁も傷だらけだった。酔っ払いが泊るせいだろう。
エミーリエが酔っ払いに絡まれているのではないかと心配になった。
「さあ、ここで待っていて」
馴れ馴れしくパヴェルの腕に触れ、女は扉を閉めた。パヴェルの正体には気づいていないようだ。
部屋はベッドがあるだけで、とりあえずパヴェルは座ってエミーリエを待った。
しかし――。
徐々に日が暮れていく。
それなのに、誰も来ない。かなり待たされた気がする。
下の方と外が騒がしいけれど、酒場だから馬鹿騒ぎをしているのだろう。
エミーリエどころかマクシムとシャールカも来ない。
立ち上がり、部屋から出ようとすると、扉が開かなかった。そこでようやく、罠にはまったのだと気づいた。
逆に言うのなら、ここまで気づかなかったのだ。パヴェルの焦りが思考を曇らせていた。その事実に愕然とする。
ほんの少し冷静になってみると、やはりここはエミーリエが近づきそうなところではない。
彼女を知っているかのような返答をされただけで信じてしまったが、美醜なんてものは主観に過ぎない。適当に言っただけだ。
ただでさえ急いでいるというのに、無駄な時間を費やしてしまった。
この間にもエミーリエは遠ざかっている。もしくは、ここの者たちがエミーリエも騙してどこかへ連れ去ったのだろうか。
「…………」
腰に挿していた短剣を握り締めると、その柄頭を怒りに任せてドアノブに打ちつけた。やわな作りのドアノブはひしゃげ、鍵ごとボロリと取れた。
パヴェルが戸板を蹴破ると、ひどい音がした。苛立ちを抱えながら階段を下りていったら、酒場では数人の男がテーブルや椅子を引き倒して寝ていた。
酔っ払いだから、ではない。穏やかな顔をしたマクシムだけがそこに立っている。
「ああ、パヴェル様、ご無事で! いや、怪しいとは思ったんです。でも、彼女の手がかりが他にあるわけでもなく、一度乗ってみたわけですが、まあ全部が嘘でしたね。馬泥棒ですよ。旅人の乗ってきた馬を預かったふりをして盗んできたそうです。客に馬は逃げたと伝えて、納得しなくても恫喝して、はした金を渡して放り出していたって白状しました」
「シャールカは?」
「馬屋にいます。馬も無事です。どうも彼女はこの村には立ち寄っていませんね。本当は、そんな娘など見ていないそうです」
やはりそうなのだ。見当違いの行動ばかりしてしまっている。
冷静さを欠くと、パヴェルもこんな陳腐な手に引っかかった。無垢なエミーリエは人を疑うことをしないから、どこかで容易く騙されている気がした。
どうしようもない自己嫌悪に押し潰されそうだ。けれど、今はそれに耐えて前に進まなくてはならない。
カウンターの近くで腰を抜かしていた女に、パヴェルは射抜くほどに鋭い目を向け、吐き捨てる。
「この嘘の代償は高くつく。覚悟はいいな?」
女はヒッと声を上げて震えていたが、パヴェルの怒りは少しも収まらなかった。女でなければ鼻の形がもとに戻らないほど殴っていたかもしれない。
「マクシム、お前はここの後処理に残れ。俺は先へ行く」
「先って、ラツェクの町ですか? 今から?」
マクシムが目を見張ったのも無理はない。
この村ですら、エミーリエの足では遠いと思ったのだ。ベルディフ領からも外れる先になど行けるものだろうか。
もしかすると、エミーリエはどこかに潜んでパヴェルたちをやり過ごしたのかもしれない。
見つかりたくなくて当人が隠れたのなら、見つかるものも見つからない。
それくらい、パヴェルはエミーリエを傷つけたのだろうか。
どうしようもなく、胃がギリギリと痛むのを感じた。
だとしても、このまま会わないわけにはいかない。
「今からだ。シャールカには屋敷に戻って他の者の手を借りて反対方面を捜索してもらう」
「ですが……」
「意見は認めない。とにかく、この場は頼む」
これを言い放ったパヴェルの表情にはゆとりがまったくなかったのだ。マクシムは困惑しつつも言った。
「ここを収めてから僕が屋敷へ戻って手配します。シャールカはお連れください」
それをするとマクシムは一睡もできないだろうが、パヴェルを一人で行動させるわけには行かないのだろう。
王子だから。
王太子である兄に何かあれば、パヴェルは王位に就かなくてはならない立場にある。
本当は、自分の感情だけで動いてはならない。
――あの側妃の子だ。排して当然だろう。
そんなふうに言われてしまう王子だった。
地位にしがみつきたかったわけでもなければ、こんなに息苦しい思いをするために励んできたのでもないのに。
「わかった」
パヴェルはうなずいた。
自分の失敗に二人を巻き込んでいるから、本当は偉そうなことを言えたものではない。けれど、細かいことは置き去りにしてでも早くエミーリエを見つけてしまいたかった。
そうしないと、これからパヴェルはどうしていいのかわからなくなる。
あの娘をこの惨い世界の犠牲にはしたくない。
今からラツェクまで向かうと話してもシャールカは動じなかった。
ただ、畏まりましたと武人らしく返しただけだ。
二人には感謝しかない。
惨たらしい結末はもうたくさんだから。
無言でひたすら先を急ぐ。
夜間には月明かりと小さなカンテラだけを頼りに進まなくてはならなかったから、何度か馬を降りて手探りで進むようなところもあった。
それでもシャールカは文句も言わない。責任感の強い彼女だからこそだろう。
それでも、シャールカもパヴェルと同様に眠っていないのだ。パヴェルよりも体力が劣る分、本音では休みたいはずだろう。振り回して悪いとは思う。
ほとんど空が白み始めた頃になってラツェクの町に着いた。
番兵たちは眠たそうに二人を迎え入れる。ここはベルディフ領ではない。この時、パヴェルの顔を見て、王子だと気づいたような素振りを見せたが、確証がなかったらしい。番兵たちはなんとなく畏まっただけで二人を通した。
大げさにされたくもないので、パヴェルもあえて名乗らない。それでよかった。
早朝の町は静まりかえっていたが、パヴェルはまず近くにあった宿へ向かった。そこにエミーリエが泊っていると思ったわけではない。
先を急ぐ旅人は、朝のこの時刻にはすでに支度を整えて宿を出ていこうとしていた。そんな中、パヴェルは逆に宿の部屋を取ろうとした。
客を見送りに外まで出てきた女将に声をかける。
「夜間、馬を走らせて疲れている。部屋で休ませてほしい」
「でも、お支度が整っている部屋がございません」
「休めれば構わない。ふた部屋頼む」
戸惑いつつも、部屋に通してくれることになった。馬を預けて宿へ入ると、シャールカも困惑していたけれど、パヴェルは言い聞かせる。
「俺もお前も疲れているから、仮眠を取った方がいい。一刻ほどしたら出る」
「畏まりました」
パヴェルがそう言うのなら、とシャールカも納得して部屋に入った。
ただし、パヴェルは部屋には落ち着かなかった。シャールカを休ませる目的でここに来ただけだ。彼女が休んでいる間にラツェクの町を一人で捜索するつもりだった。
後で知ったら怒るだろうが、シャールカにこれ以上の無理をさせたくない。
パヴェル自身はどうせ横になっても眠れない。自業自得だが。
朝の町はまだまだ静かで、ほとんどの住人が眠っている。
パヴェルはやはり、気が張り詰めているせいで眠たいと感じにくかった。疲れているというより、気分が重たい。
結局、夜が明けてしまった。エミーリエは昨晩、どれほど心細い思いをしたのだろう。
時間が経てば経つほど、エミーリエの手がかりはなくなっていく。元々、彼女については何ひとつ知らないままなのだ。
また騙されないように冷静さは残しておかなくてはならないのに、今も自分が感情的に思えた。
こんなことは久しぶりかもしれない。
ラツェクの大通りは道幅が広い。あてがあるわけでもなくそこを歩く。
あの娘はどういうところに駆け込むだろうか。まず、仕事を探そうとするのなら、斡旋所に行くだろうか。
そう考えたけれど、エミーリエにその判断ができる気がしなかった。彼女は浮世離れしていて、仕事を斡旋してくれる施設があることすら知らないようにも思える。
だからこそ、優しげな顔をして近づいてきた相手を信じ、仕事を紹介してやると言ったら簡単についていってしまうに違いない。それがどんな仕事だか理解するよりも先に。
考え出すと不安が溢れ出る。パヴェルは自分の頭を指先で押さえ、ため息をつきながら道の先にある広場を見遣った。
人々の憩いの場らしく、木々がたくさん植えられ、小鳥が遊んでいる。我が家のように穏やかだ。
パヴェルはそんな光景になんとなく心惹かれて足を向けた。そして、木の根元で靴を片方だけ拾った。
見上げると、靴の持ち主は長い髪を垂らし、木の上で縮こまっていたのである。
パヴェルが二の句を告げなかったのは仕方のないことだろう。




