15◇どこにもいないのは
飛竜が飛び去ってから間もなく、パヴェルが使用人に呼びに行かせていた獣医が到着する。
村から慌てて馬を飛ばしたせいか、眼鏡のずれた初老の獣医はひどく息を切らせていた。
「で、殿下。竜はどこです?」
「もう行ってしまった」
竜も獣には違いないから、竜の特性を教えてほしかったのだ。討伐するのに役立つだろうかと。
滅多に出現するような魔獣ではないので油断していた。パヴェルも初めて遭遇したのだ。
今後はしかるべき対処法を考えておかねばならないだろう。
それにしても、エミーリエのあれはなんだったのだ。エミーリエが触れた途端に竜は大人しくなった。まるで犬でも手懐けるように、エミーリエは竜を恐れずに近づいた。
そのおかげで助かったと言えるのかもしれない。けれど、一歩間違えれば危なかった。あんなことはすべきではない。
後で礼は言うけれど、注意も必要だ。
マクシムとシャールカが先ほどの出来事を獣医に語って聞かせている。すべてを聞き終えると、獣医は眼鏡を押し上げた。
「なるほど。それは興味深いお話ですね。ぜひその女性にお話を伺いたいところです」
「そうですね。ちょっと不思議な雰囲気のお嬢さんですよ」
なんてことを言いながらマクシムも気が抜けたように笑っている。
すると、獣医は微笑みつつも戸惑ったような表情を浮かべた。
「もしその女性がいなかったら大変なことになっていました」
「あの程度の大きさの竜なら仕留められたが?」
パヴェルがムッとして答えると、獣医は首を振った。
「だからですよ。もしその子竜を殺していたら、大変なことになっていました」
「どういうことだ?」
「竜は非常に知能の高い生物です。仲間意識も強く、同胞の、それも子供が殺されたとなれば、どんなことをしても敵を滅ぼしたでしょう。ですから、絶対に子竜を殺してはなりません。その女性は竜だけでなく、殿下や皆様方をも救ったのですよ」
――言葉がなかった。
たった一体の比較的小さな竜ならば仕留められると考えた自分が、皆を危険にさらしたとは。
あんなに厳しく言っても引かなかったエミーリエは、このことを知っていたのだろうか。
それならばちゃんと説明してくれればよかったのに。そう考えてため息が零れた。
あの状況で説明などされて、聞く耳があったはずもない。無知な自分はあれこれと怒鳴ってしまった。
これは真剣にエミーリエに詫びなくてはならないようだ。
「急に呼び立ててすまなかった。よく休んでから戻ってくれ」
獣医に声をかけてから屋敷へ足を向けると、マクシムがついてきた。
「本当に不思議なお嬢さんですね。まだ身元については何も話してくれていませんが、今なら何を聞いても驚きませんよ」
「そうだな」
まず、なんと言って詫びようか。
王族だからといって謝罪はしないという態度を取るつもりはない。非はちゃんと認める。
しかし、部屋にいなかったのだ。エミーリエは。
最初は怒っているか怯えているかで居留守を使っているのだと思った。
しかし、どれだけ呼んでも部屋に人の気配がないような気がした。
「えっと、侍女に訊ねてきましょうか」
マクシムがエミーリエの担当の侍女を呼びに行った。けれど、その侍女は何も知らなかった。
「エミーリエ様ですか? お部屋には戻られていないと思いますが。てっきり皆様とご一緒だとばかり」
鍵を使って部屋を開けるが、やはりそこは無人だった。
「他にエミーリエが行きそうなところは?」
「図書室がお好きみたいです」
その侍女もエミーリエを見なかったかと屋敷の中を訊ねて回ると言う。パヴェルとマクシムは図書室に向かったが、やはりここも空振りだった。庭のいつもの場所も見た。誰彼構わずエミーリエを見なかったか訊ねた。
それでも、どこにもいなかったのだ。エミーリエは跡形もなく消え失せた。
日が暮れていく中、マクシムがポツリと言った。
「考えられることがあるとすれば――」
「なんだ?」
「パヴェル様は、言うことが聞けないのなら出ていけと仰っておられました。だから出ていかれたのでは?」
その発言に、横っ面を張り倒されたような気分になった。
「そんなことを言ったか?」
「ええ、仰っておいででした」
まるで覚えていない。
あの時は焦っていて、エミーリエが危険だということを少しもわかろうとしないのにも苛立って、色々と口走った気はするけれど。
「パヴェル様はとにかく、急いで彼女を危険から遠ざけるために強い口調で仰っただけでした。でも、彼女がその真意を汲み取れるほどパヴェル様の物言いに慣れたとは思いません」
「だからといって、行く当てもないのに本気にして出ていくはずが……」
普通に考えたらそうなのだが、エミーリエは果たして〈普通〉だろうか。
そもそも、ここにいてもいいとパヴェルが許しただけであって、エミーリエ自身はここにいつまでもいるつもりなどなかったのかもしれない。
「行く当てが本当はあってそこへ戻ったのだとしても、まあ、あんな見るからに儚いお嬢さんが薄暗い中をフラフラ歩いていたらろくな目に遭いませんね」
マクシムも首を振った。
戻る場所などないような気がした。だからこそ、あんなにも頼りなかったのだ。
居場所がないまま、それでも出ていけと言われたからその言葉に従う。
出ていかなくてはならなくなるのに、それでも行動を起こした。考えなしなのか、強い意志があるのか、そこがわからない娘だ。
自分のことなどどうでもいいかのように振舞う。
パヴェルが自分の言動を悔いても、時を巻き戻すことはできない。
愕然としているパヴェルに、マクシムは言った。
「捜しに行って参ります。女性の足ですから、追いつけないなんてこともないでしょう。しばしお待ちください」
待っていて、それで――。
パヴェルがエミーリエを傷つけたかもしれないのに、屋敷でただ待っていろと。
そんなのは御免だ。
「待っているつもりはない。俺のせいなら、捜しに行かねばならないのは俺だろう」
「ですが……」
最後まで言わせず、パヴェルは踵を返す。
心臓が、飛竜に遭遇した時以上にうるさく騒いでいた。自分自身を責め立てるように。




