13◇間違っているのは
「これ! これが絶対お似合いです!」
ルジェナが嬉しそうに広げたのは、青いワンピースだった。ドレスもあったが、動きにくいからとエミーリエが断ったのだ。
今のエミーリエは公女ではないから、何もせずに座っているつもりはない。動きやすいに越したことはないだろう。
ルジェナに勧められるまま、エミーリエは青いワンピースに着替えた。薔薇のモチーフがついていてとても綺麗だった。心が躍るけれど、エミーリエに贈り物をしてパヴェルに何か利益があるものだろうか。
エミーリエが彼らを信用し、自分の事情を話すように仕向けているとする。けれど、現時点でエミーリエの持つ情報が重要かどうかなどということは、パヴェルはもちろんエミーリエにだってわからないのだ。
「さあ、座ってください」
ルジェナは嬉しそうにエミーリエの髪を整え始める。
昨日、指輪を見つけた後にルジェナはエミーリエにとても感謝してくれた。指輪が見つかったのは偶然で、エミーリエは何もしていないのに。
それでも、話を聞いて親身に探してくれた、それが嬉しかったと。そして。
エミーリエ様がいてくださってよかった。そう言ってくれたのだ。
誰かから必要とされたことがなかったエミーリエだ。昨晩は嬉しさのあまり眠れなかった。
人のために何かをするとはこんなに幸せなことなのかと。それを初めて知った。
それができた自分を、エミーリエは生まれて初めて褒めてあげたくなった。
「できましたよ! もう素敵すぎて、どこからどう見てもお姫様です」
大げさなことを言うルジェナだが、その表情には信頼が見える。今思い起こすと、それはラドミラにはないものだったかもしれない。
あの頃のエミーリエは自分を憐れみ、殻に閉じこもっていた。ラドミラに甘え、寄りかかるばかりだったのだから、信頼など生まれるはずもなかったのだ。それに気づけなかった。
鏡に映るエミーリエの髪にはドレスと同色のリボンが飾られている。
「ありがとう、ルジェナ」
「いいえ」
――と、こうなってくると、ルジェナがせっかく仕上げてくれたのに部屋に閉じ籠っているのではいけない気がした。
せっかくのおめかしだから、外へ出よう。
ルジェナが他の仕事をしている間にエミーリエは屋敷の外へ出てみた。香草が生えているのとは違う庭園を歩いてみることにする。
タロン公国の自宅にも庭園はあったが、昼間にエミーリエが外にいると皆が不快な顔をするので出ていかないようにしていた。
花は花瓶に生けた切り花。それがエミーリエの知る花だ。
あのラドミラと出かけた丘の光景を別にすれば。
この国は、気候風土もタロン公国とはほとんど変わらないように思う。過ごしやすく思うのは、今の季節だからだろうか。
清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、鬱々としていた過去が嘘のような気がしてきた。これからどうすべきなのか、まだ何も考えられないでいるのにのん気なものだ。
それでも、人を気にせずに過ごせるというただその一点だけでエミーリエの心は驚くほど軽くなった。
フラフラと気ままに庭園を歩き、時折会う庭丁に挨拶し、少し休むのに丁度よさそうな木陰があったので近づいた。茂みを回り込んで、そしてエミーリエはつまずいた。
何につまずいたのか、それはその上に倒れ込んで初めて気づいた。そこに誰かが脚を投げ出していたのだ。
心地よさそうな木陰だと思ったけれど、先客がいた。エミーリエは木に背中を預けてもたれかかっていた先客の胸板で頬を打った。
これが逆だったらエミーリエは潰れたかもしれないが、先客は頑丈だったためにまぶたを持ち上げただけで苦しそうではない。
どうして王子が木陰で寝ていたのかは知らない。
踏んだエミーリエは不敬罪だろうか。
「ご、ごごめ」
激しくどもってしまったのは、パヴェルの顔が近すぎたせいだ。エミーリエの手は、未だにパヴェルの胸の上にある。
パヴェルは目を擦ったが、エミーリエはパヴェルから距離を取ることができなかった。髪がパヴェルのシャツに絡まってしまっていた。
なんて失態だろう。
焦って髪を引っ張るエミーリエの手首をパヴェルがつかんだ。
「髪が千切れる」
「ちょっとくらい構いませんっ」
思わず言ったら、パヴェルは空いている方の手でシャツのボタンをブチリと千切った。
「あ……」
エミーリエの髪は解け、落ち着く。パヴェルも手を放した。
「千切るならこっちの方がいい」
「そんなこと……。王子殿下のお召し物を傷めてしまって、それに、踏んづけてしまって、どうお詫びしてよいやら」
「使用人の仕事は増やしたが、皆優秀だ。これくらいすぐ直してくれる」
わたしが直しますと言いたいところだが、そのためには脱いでもらわなくてはならないのでとても言えない。諦めて頭を下げた。
「すみません、まさか人がいると思わなくて」
すると、返したパヴェルの声はどこか照れくさそうに感じられた。
「転んだようだが、怪我はないか?」
「はい、どこも」
「ここは丁度いい木陰だから、たまにこうして休んでいる。こんなに熟睡するつもりはなかったんだが」
王子にも息抜きは必要だということか。だからといって外で寝なくてもいいとは思う。
パヴェルがエミーリエのことを知らないように、エミーリエもまたパヴェルのことを知らない。第二王子だというから、王太子ではないにしろ、王位継承権はかなり上位だろう。それなりの気苦労はあるはずだ。
エミーリエは座り直すと、パヴェルの頭に手を伸ばした。これにはパヴェルの方が驚いた。
「葉っぱが」
パヴェルの金髪に枯れ葉が絡んでいた。エミーリエの手元の葉を見て、パヴェルは苦笑する。
「そんなものをつけて戻ったら、すぐマクシムに突っ込まれるな」
完璧なように見えたパヴェルが、どこか幼くも感じられ、エミーリエも少し笑った。
すると、パヴェルは不思議そうにつぶやいた。
「大体の女子供は俺が目を向けると委縮する。最初はお前もそうだろうと思ったが」
「だって王子様ですから。女性はわかります。でも、子供もですか?」
「子供の方がひどい。大抵泣かれる」
「あら、何故でしょう?」
「顔が怖いんだろうな」
淡々と事実を述べているかのように言われた。確かに、そういうところは子供には受けないかもしれない。
それでも、この人は優しい。大きくて立派で品格のある犬が心優しくないとは限らないのと一緒だ。
王族であっても、容姿に恵まれていても、能力が優れていても、パヴェルは人を見下すことをしない。
「王族を前にして親が緊張してしまうから、子供は意味もわからず不安になるのでしょう。それから殿下ご自身も、子供の扱いに困って緊張されているのではないでしょうか?」
小さな子供に泣かれると傷つくのだろう。ささやかな悩みが微笑ましくも感じた。
エミーリエが言うことが一理あるとパヴェルも感じてくれたのだろうか。軽くうなずいた。
「王族の中でも俺は特に評判がよくないからな。相手が緊張するのも無理はない」
何故かそんなことを言った。エミーリエにはとても恵まれた人に見えるのに。
「それでしたら、きっと評判の方が間違っているのでしょう。わたしは自分が感じたことを信じます」
エミーリエを助け、今もこうして無理強いをせずに事情を話すのを待ってくれている。
どんな評判かは知らないが、こんな人が悪く言われるのはおかしい。だから率直な意見を述べたまでだ。
「わたしは皆様のことを信じていないから何も言えないのではありません。どうお話ししていいか、まだ整理がつかないだけなのです。いずれはちゃんとお話しようと考えています」
「わかった」
パヴェルは短く答える。エミーリエは立ち上がると、パヴェルに向けてお辞儀をした。
「この場所のことは秘密にしておきます。わたしももう来ません」
彼の憩いのひと時を邪魔するつもりはないのだ。むやみにこの場所に踏み入ってはいけない。
そう思ったけれど、パヴェルは首を揺らし、そして言った。
「来たいのなら来ればいい。寝心地は保証する。ただし――葉を頭につけて戻らないようにな」
エミーリエが思わず声を立てて笑うと、パヴェルも笑っていた。
今日は散歩に出てよかったのかもしれない。心があたたかくなった。
この服と、髪を結ってくれたルジェナに感謝した。
◆
『母上……っ』
何度も夢に出てくる母の姿は、パヴェルに信じてほしいと言ったあの直後、連行されていく際に振り向いて見せたあの笑顔だ。
幼いパヴェルに向け、笑った。
その意味を勝手に解釈してよいのなら、自らの潔白を示しているように見えた。
しかし、それが母を見た最後であり、その後、母には裁きが下された。
本来ならば斬首だったが、高貴な身の上であるがためにその辱めは避けられた。
とはいえ、助命は聞き入れられなかった。毒杯を煽ることになった母は、もう何も言えない。
それでも、息子のパヴェルだけは信じてくれていると思いながら逝ったのだろう。
いくつになってもその願いの重たさがパヴェルにのしかかっている。
その証拠に、気がかりなことがあったり疲れたりすると、母の夢を見る。
そして、夜眠れないと、短時間でも仮眠を取ろうとどこかで隠れて休む。部屋だとマクシムが呼びに来るので、見つからない場所で。
それが――。
浅い眠りを遮ったのは、あたたかな衝撃だった。
最初は犬か何かが飛びついてきたのかと思ったが、声がしてまぶたを開くと、エミーリエだった。
寝ているパヴェルに気づかず、つまずいてしまったらしい。こんなところに人がいると思わなくて当然だが。
ぼうっとしながら、焦って謝るエミーリエを眺めた。
母とはまるで違う、小動物のような娘だ。いや、母も少女の頃は無垢だったかもしれない。それが、権力争いの渦に巻き込まれたが故に変わらざるを得なかった。
慌てていたのも最初だけで、エミーリエは気がつくと自然に笑い、パヴェルを恐れている様子もなくなった。
「あまり評判がよくないことは自覚しているからな」
エミーリエはその本当の意味を知らない。
その評判を知らない人間といるのがこんなに気楽なのだと、パヴェルも初めて感じた。そして。
「それでしたら、きっと評判の方が間違っているのでしょう。わたしは自分が感じたことを信じます」
知らないからこそ、言えることだったとは思う。
だとしても、正直なところは嬉しかった。
「この場所のことは秘密にしておきます。わたしももう来ません」
だから、エミーリエがこれを言った時、自分でも驚くような返しを口にしていた。
「来たいのなら来ればいい」
ここへ来て、またこうして話すことが嫌ではなかった。
それはパヴェルにとってとても珍しいことであると、エミーリエは感じ取れただろうか。
ただ楽しそうに笑っていた。
――目の前にいるこの男が、王の子であるのと同時に罪人の子でもあると知らないから。
パヴェルの母は、邪魔な正妃に毒を盛った。
直接にではない。自分が指示したと知られないよう手を回し、密やかに。
けれど、悪事は露見する。
死んだのは正妃だけではなく、自分自身もだった。
母には気位の高さがあった。
だからといって、思い通りに行かないと凶行に及ぶなどとは狂気の沙汰だ。
パヴェルはその血を受け継いでいる。いつか、この皮を突き破って欲の深い自我が現れるのだとしたら耐えられない。
いつでもそんな思いが胸の奥底にある。
エミーリエの優しい笑い声は、パヴェルを薄暗い気持ちから遠ざけてくれた。
できることなら、この娘にはずっと笑っていてほしい。




