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遺産相続禁止法  作者: 美祢林太郎
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4 大山権蔵(83歳、資産推定10億円)の場合:美食

4 大山権蔵(83歳、資産推定10億円)の場合:美食


 誰しもが財産を増やすことが正義で、財産を消費していくことはどこか後ろめたく感じていた。お金を稼ぐのは使うことが目的だったのだろう。何を後ろめたく感じる必要があろうか。お金を使うことによって、日本全体の消費が増大することで内需が拡大し、その結果、経済が活性化するではないか。老人も正々堂々とお金を使えばいいのだ。別に資産価値のあるものを買って次の世代に残す必要はない。食べて糞となってなくなることが一番だ。糞はまた生産から消費へと循環していく。


 富裕層の老人たちは、大なり小なり美食に走った。大山権蔵も例外ではなかった。


 わしはとにかく世界中の美味しいと言われているものを、すべて食べ尽くして死にたい。そのために全財産を使うのだ。しかし、これまで仕事ばっかりしてきたので、高価な美味しいものを食べたことがない。もちろん、現役時代は接待を受けて赤坂の高級料亭や銀座のフランス料理店に行ったことは数え切れないほどある。おそらく目が飛び出るくらい高い料理だったのだろうし、舌がとろけるほど美味しい料理だったのだろう。その頃のわしは商談に熱心で、料理をゆっくりと味わうことを知らなかった。口先だけで「これは美味しいですね」と言って、あまり噛みもせず飲み込んでいたような記憶がある。今でも何を食べたのかまったく覚えていないし、料理の名前もわからない。

 ああ、そう言えば、わしがまだ若かった頃、そうだ20代で社長秘書をしていた頃だ。社長について赤坂の料亭に初めて行った時、玄関の傍の小さな部屋で社長の用事がすむのを待っていたら、おかみさんがお盆に載せてうな重と肝吸いを持って来てくれた。あれはそれまで味わったことがないほど、べらぼうにうまかった。おかみさんがそっと「これ、十万円よ」と教えてくれた。わしはその時出世しようと心に誓ったんだ。あれは夏の暑い日だった。

 わしは中堅の広告代理店の社長になったので、もちろんわしの方からそうした料亭に政治家を接待したことも少なからずあった。わしはあの世間を騒がせた贈収賄事件にも絡んでいたのだが、なんとか逃げ切ることができた。

 妻に一緒にうなぎを食べに歩こうと誘うと、怪訝な顔をして「まあ、珍しいこと」と言われ、「わたしは用がありますから」と冷たく断られた。この五十年間、わしが妻を食事に誘った記憶がない。わしはタクシーに乗って一人で、秘書だった頃に訪れた料亭に行き、うなぎを食べた。それほど美味しいとは思わなかった。店の味が落ちたのだろうか、それともわしの舌が肥えたのだろうか。はたまた、わしは記憶の中でうなぎの味を膨らませていただけなのだろうか。よくわからない。おかみさんを呼ぶと、若女将が出てきた。先代のおかみさんはとっくの昔に亡くなったとのことだった。 

 家に帰って、妻に向かって、これからわしは全財産を使って美食を探求するから一緒に付き合わないかと誘ったのだが、これまで友達や子供たちと十分に食べ歩いてきたので、今更食べ歩きなんかしたくない、とあっさりと断られた。わしは家族で一緒に食事に行った記憶がない。それを妻に言うと、「そりゃあそうでしょう、仕事ばっかりだったんですから」、と冷ややかに言われた。わしも「おまえの料理を何十年も食べたことがない」と言い返してやろうか、と思ったが、もはや夫婦喧嘩に使う無駄な時間とエネルギーは残っていない、と思い直して言葉を飲み込んだ。

 わしより十歳下の妻は彼女の父親から財産を相続して、わしが死んだ後もこれまで通りの生活を営んでいけるだけの財力があった。もちろん体力も気力も有り余っているようだ。子供たちは元気な妻と仲がいい。わしなどまったく相手にしていない。こうしてわしは自分一人で高級な料理店を食べ歩くことにした。淋しくなんかない。今までずっとこうしてきたんだから。

 巷で美味しいと評判になっているものがわからなかったので、近くの本屋で『今評判の店』という本を手に取ってページを捲って中を見たが、そこにはラーメンやハンバーガー、お好み焼きといったチープな料理しか載っていなかった。どうも庶民向けの本のようだ。辛味噌ラーメンに松崎牛のステーキをトッピングして一杯一万円というラーメンが載っていたが、ラーメンにしては高いのかもしれないが、所詮ラーメンなのでたかだか一万円でしかしない。こんな安いラーメンを食べ続けても、財産が減るわけがない。それに見るからに油っこそうだ。体に悪い。一日10杯も食べることはできないだろう。

 ハンバーガーにしたって、米沢牛のひき肉を使って作ったものだと言うが、これも一個一万円が上限だ。こうしたジャンクフードに頑張って値を付けても最高は一万円が上限のようだ。お好み焼きにしても、所詮中に入れる肉を松坂牛のステーキにしているくらいだ。わしとしては、お好み焼きはやっぱり牛よりも豚だろうと思うのだが、豚では高級にならないようだ。

 正直に言うと、ラーメンやお好み焼きはわしの大好物なのだが、こんなので腹を膨らませていたら、死ぬまでに財産を使い切ることはできない。こうした料理を喜んで食べられるのは、金を使い切ることに頓着せずに生活できる現役世代までだ。わしら年寄りにはこんなもので寄り道できる時間はない。

 書店の店員に相談すると、美食と言ったら何の本をさておいても『ミシュランガイド』だろう、と教えてくれた。そう言えば「ミシュラン」という言葉は聞いたことがある。たしかそれはタイヤの名前だったのじゃないか。きっとタイヤ屋と料理本のミシュランは別会社なのだろう。まあ、そんなことはどうでもいいことで、わしは店員に薦められるがままに『ミシュランガイド東京202×』の最新版を購入した。このガイドブックを手掛かりに、日本にあるミシュランの三ツ星レストランを食べ歩くことにした。

 どの店も一年前から予約を入れておかなければ食べられないようだが、わしは知り合いの厚生労働大臣の名前を出して、すぐに入店できた。それにしても、こうした店に一人で食べにくる客はまれのようで、店の者から怪しまれたが、そんなことを気にしていては先に進めない。料理の味をしっかり味わうには一人がいいのだ。話をしながら高級料理を食べるなんて、料理に申し訳ない。

 レストランで注文を訊かれると、「一番高いワインとコース」と応えた。ウェイトレスは一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐににこっと笑って「かしこまりました」と頭を下げ、厨房に入って行った。ワインはたしか「ロマネコン」、いや「ロマネコンチャン」、おそらく「ロマンコンチィ」という一本百万円以上するものだった。味の方は・・・、わからん。が、いつもしたり顔で飲んだ。周りのテーブルの奴らを見て、わしのワインを飲む仕草も様になってきたはずだ。こんなのチョロいものだ。

 出てきた料理をスマートフォンで写真に撮り、レストランの名前と料理の名前を書いてインスタグラムに載せた。さすが三ツ星と言おうか、どこのレストランでもSNSに掲載するのをやめてくれるようにやんわりと注意されたが、わしは「はい、はい」と田舎者の好々爺のように振る舞って言うことをきく振りをしたが、実際は一切これを無視した。年寄りが居直ると怖い物知らずだ。

 SNSが最近のわしの趣味である。3店舗目から、三ツ星レストランをわし独自に百点満点で採点し、SNSにその結果を載せることにした。

 わしは本来味覚音痴なので、日本料理の薄味や隠し味、フランス料理の繊細な味には、いつだって低い点を付けてやった。ええい、こんなの23点だという風にだ。下一桁の数字は、評価にリアリティを持たせるためである。特に意味はない。

 高級料理店のテーブルの上には、醤油やソースが置いてなかったので、お願いしたが、醤油やソースを持って来てくれることはなかった。そこで、わしは醤油とソースと七味唐辛子の三種類の調味料を上着の内ポケットに隠して、レストランに持参するようになった。そして店の者に見つからないように密かに自分の味に調整することにした。わしが調味料で味を調整すると、料理の味が格段に美味しくなった。このことを店のシェフに教えてやりたかったが、どうせいらぬお世話なのだろう。一回見つかった時には、丁重にやめるように注意された。わしはSNSに醤油やソースで調整した後の得点も掲載した。32点の料理が94点になる。「いいね」が百万回以上押された。わかる者はわかるんだ。

 若い頃のわしは健啖家だったが、年を取って胃が小さくなったようで、いつも全部の料理を食べ切れないので、多くの物を食べ残すようになった。残したものを折り詰めにして持って帰っていいか、と店の者に訊くと、いつも丁重に断られた。そこでわしはタッパウエアを家から持参して、店の者にわからないように、残った物をタッパウエアに詰めてアタッシュケースに入れて、自宅に持ち帰った。時々アタッシュケースから汁が漏れたが、そんなこと気にはしていられない。わしが帰った後は皿が完食したようにきれいになっているので、きっと店員もわかっていて見逃してくれていたのだろう。

 家に帰って家族の者たちに持ち帰った料理を出したが、手を付けようとするものは誰もいなかった。多分、翌日にはすべて捨てられてしまっていた。電子レンジで温めて食べれば美味しいはずなのに、家族の者はくだらない意地を張っているいるようだ。まあ、逆の立場だったらわしも手を付けないだろうけど。

 それでもわしは毎回レストランから残り物をタッパウエアに詰めて自宅に持ち帰ることをやめなかった。生来の貧乏性なことに加えて、家族の者への面当てでもあった。老人は陰湿なところがある。

 202×年の日本には、ミシュランの三ツ星は21店舗しかなかったので、二か月も経つとすべての三つ星を食べつくしてしまった。すべての店で食べたというだけで、すべての店のすべてのメニューを食べつくしたというわけではない。わしはその店のもっとも高い値段の料理を食べればそれでその店を征服した気になった。店は山ではないにもかかわらずにだ。それに同じ店に足を運ぶのは、わし自身何か気が引けるところがあった。インスタに載せたり、タッパーウェアで料理を持ち帰ったことが、心のどこかで後ろめたいようだ。

 次にわしは、世界中のミシュランの三ツ星を訪れることにした。世界には100店舗以上はあるはずだ。わしのインスタのフォロワーはこの頃すでに1000万人を超えていたが、ミシュランはわしの評価を完全に無視していた。

 わしはまずファーストクラスでパリに飛んだ。飛行機の中でフランス人のキャビンアテンダントに「ロマンコンチャン」はあるかと訊くと、日本語で「残念ながらありません」という答えが返ってきた。

 さすがに世界に100店舗もあると、いくら頑張っても一年ではまわりきれない。健康に気をつけているつもりだが、それでもこの半年で20キロも体重が増えてしまった。そう言えば、食べ歩きのレポーターはみんな激太りしている。食べ歩きは健康によくない。だが、もう後には引けない。

 健康診断のために日本に帰ってきた。久しぶりに食べる永谷園のお茶漬けが最高に美味しかった。今日の夜はカップラーメンの味噌味、塩味、醤油味の三種類ですますことにしよう。時差ボケで夜中に目が覚めたらマルちゃん焼きそばバゴーンだ。

 主治医はしばらく日本にいて、体調を整えてはどうかと進言した。医者は他人事だからそんな呑気なことを言っていられるんだ。そんなことをしたら財産は減って行かない。自動的には財産は減らないのだ。

 お分かりだろうが、家族の者は財産を減らすのにまったく協力的ではない。少しは努力して財産を減らしてもらいたいものだ。おまえたちだって、わしの金でいくら食べてもいいんだからな。もし太るのが気になるのなら、ジムに行ったらいいんだから。全部わしの金でやってくれ。わしの金が残っても全部国に召し上げられるだけだからな。最後の最後まであきらめるなよ。

 主治医から、日本には医食同源の隠れた名店があると聞いた。中国から珍しい漢方薬を仕入れて、何十年も煎じてエキスを取り出したスープが出るらしい。これは財産を減らすことと健康増進に一石二鳥だから、早速予約することにした。だが、わしと同じことを考える老人たちがいっぱいいるようで、予約で満員で、早くて十年待ちだそうだ。なんと悠長なことだ。7年後にわしは生きているかどうかわからない。ここでは大臣のコネはきかなかった。それでも、手付金百万円を払って一応予約を入れておくことにした。

 残念なことに、胃袋には限界がある。わしの資産はどんなに高級料理を食べてもびくともする額ではない。わしは、かつて北大路魯山人が運営した美食倶楽部の「星岡茶寮」のような会員制高級料亭を建てて経営することを思いついた。世界から超一流の料理人を集めることにした。会員は自分だけだった。一人だけの会員の店を会員制と呼べるかどうかはわからない。でも、会員制と言った方がカッコいいように思った。

 わしの財産に比べて胃袋はあまりに小さすぎる。それに腸も悲鳴を上げているようだ。胃薬と整腸薬を忘れないように飲まなければ。3日もうんこをしていないから、下剤も忘れないように飲まないとな。

 こうなってくると、財産を減らすことは苦行だな。


     つづく


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