3 財政再建と福祉国家
3 財政再建と福祉国家
国家に没収された遺産によって、国の財政は潤されることになった。
2022年時点で、日本の借金は1,241兆円に上り、一人当たり1,000万円も借金していた計算になる。一方で、日本の個人金融資産総額は2,005兆円あった。平均すると一人当たりの貯金の方が借金よりも二倍近くも多いのだから、一部の政治家や経済評論家が唱えていた、日本の借金はまだまだ大丈夫だ、という主張の根拠はここに依拠していた。この2,005兆円は金融資産に限っているので、不動産や貴金属、絵画などのお宝の資産を含めるとこの何倍にも資産は膨れ上がることになる。こうした国民の資産を背景に、国家は我々国民一人ひとりの財布を当てにした放漫経営をずっと続けてきた。それかと言って、政治家は誰も国民の資産を召し上げるような剛腕を振り下ろす者はいなかった。国民の反発が怖かったのだ。そんなことをすると、暴動が起こってもなんら不思議ではなかった。政治家は静かにして、ただひたすら国の破局によって引き起こされるハイパーインフレを待つばかりだった。これなら、政治家は直接自らの手を汚さずに、そして罪悪感を感ずることもなく、国の膨大な借金をチャラにできると心の底で思っていた。政治家は誰も無責任だ。
この何十年も続いた日本国家の放漫経営が、この度亡くなった国民の資産を召し上げることによって、一挙に解消されることになった。どうしたわけか暴動は起こらなかった。そして借金を返しても、まだ莫大なお釣りが国に残ることになった。なにせ、金融資産だけでなく土地も貴金属もすべて資産と名のつくものは、国が没収したからである。財政の健全化によって、日本の国際信用度は高くなった。
法律が施行されてすぐに海外への資産隠しが横行した。だが、隠した資産を使うことはできなかった。海外資産は間髪を入れずに凍結されたからだ。
国の財政が潤ったのは、何も没収した財産のためだけではなかった。富裕老人が、国に財産を没収されるのを嫌がってどんどん金を使っていったので、あらかじめ予想して規模をはるかに超えて消費が拡大し、税収が増えて国の財政は潤ったのだ。
家を自分のものにして資産にしようとする者は減っていった。家は借家が当たり前になった。家賃は高騰したが、そのうち安定した。その他、不動産やダイヤモンドなどの貴金属も購入する者がほとんどいなくなり、すべてがレンタルとなっていった。資産として残す意味がなくなったからだ。資産という概念すらが薄らいでいったといえる。
次世代に財産を残せないので、一代限りで自己完結しなければならない。子孫に繋がっていくドラマなどはほとんど存在しなくなったのだ。
だが、会社の創設者となったら、たとえ血が通っていなくても志を同じくする者たちが、後を継いでドラマが展開されて行く。もはや血の継承なんかどうでもよくなった。人間は長らく血に拘り過ぎていた。心配しなくとも、日本全体として文化は継承され発展していく。
教育費は、幼稚園の入園時から大学院を卒業するまで、すべてただになった。医療費や介護費も無料になって、国民は安心して生活を営むことができるようになった。
貧しい家庭においては、以前から相続するような遺産はなかったので、「遺産相続禁止法」の施行前の状態とほとんど何も変わることはなかった。これまで通り、ある家庭は必死で親の面倒を見、ある家庭は親をほったらかしにしておいた。そして、学校の教育費が無料になろうが、子供の教育に熱心な家庭もあれば、そうでない家庭も依然としてあった。教育費が無料になろうが、子供が自動的に賢くなったりするわけではない。貧しい家庭の子にチャンスが生まれただけだ。
教育以外にも、貧困層の生活に変化が生じた。富裕層の遺産が国庫に納付されるようになって、その金が社会福祉に回されることで、それは引き起こされた。国立や公立の高品質の老人ホームが日本中至る所に設置され、介護を必要とする老人たちはこうした老人ホームに無料で入居できるようになり、子供が老人の世話から解放されることになった。老々介護というかけ言葉で、かなりの無理を強いられてきた老人夫婦も、これでやっと解放されることになった。幸いなことに、老人介護に関係した殺人事件は、激減した。また、最近社会問題視された「ヤングケアラー」は老人ホームの設置によって死語となっていった。日本に横たわっていた問題の多くは、財政の健全化で解決できたのだ。
この法律の成立によって、老人たちは定年を迎えた時、人生に一つのピリオドを打つようになった。だらだらと働くことはなくなった。
余計なお世話なことに、国から次のような人生設計の3パターンが提唱された。
1:老人になるまで働いて金を稼ぎ、それから後の人生を死ぬまで消費を続ける。
2:ある程度稼いだら何年間か休んで、その間消費し、消費が終わったらまた働く。こうした周期を人生で何度か繰り返す。
3:同時に生産と消費を続行し、一生働き消費し続ける。
「遺産相続禁止法」は、なんら伝統的な家族を否定したわけではない。夫婦は同じ家に住み、子育ては従来と変わらず親が責任を持って行うことになっている。親や祖父母が生きている間は、かれらの資産に合せて、一緒に豪華な家に住んだり、おじいさんの驕りで高級料理店で食事をしたり、海外旅行に行ったり、コンサートや美術展に行くことができる。
教育に熱心な親は、公的な教育サービスに加えて、子供に家庭教師を付けたり塾に行かせることもできる。望むなら海外に留学させることだって可能だ。こうしたことは従来とは何も変わっていない。親はより良い生活を求めて、懸命に働くことが望まれている。
瀬戸田政権は、社会の活性化のために競争原理を否定しなかった。いや、競争を今まで以上に奨励したと言っても過言ではない。所得税を全廃し、所得格差を否定しなかった。国の高福祉政策によって、国民が働くなることを避けたかったからだ。競争のないところ、だらけた弛緩があるだけだ。成人した健康な人間が国に甘えてもらっては困るのだ。それは強欲とは別のフェイズの醜い社会をもたらす。瀬戸田は向上心のある国民からなる活気に満ちた社会を望んだ。
では、具体的にこの法案によって社会はどう変わったのだろうか。政治家は「地盤、看板、鞄」のうち、少なくとも鞄(金)を子供に受け渡すことができなくなり、政治の世襲制つまり家業化は減少していくことになった。政治家の中には、自分が元気なうちに子供に政治家を引き継がせる者がいて、世代交代が急速に進んで行った。一方、現役を退くことを嫌がる老醜の政治家も多く、子供との軋轢を生んだ。
政治家は本来強欲なものであるし、若い政治家も親からの継承を頼らずに、政治家を志す一般の人たちと同じように、自分の知恵と才覚、それに努力によって地位を築いていくのが正しい姿である。まだ、法律が成立してあまり時間が経っていないので、甘い汁を吸った親の世代のことが忘れられないでいるのだ。
二世議員になろうと目論んできた若者は、「地盤、看板、鞄」が残されず、選挙の自由競争社会に投げ出されてしまって議員になれないことを親のせいにし、親を軽んじるようになった。こうした無能な二世議員は、親を叱責し、親の金を持ち出しては、遊び回る日々を過ごした。親が亡くなるまで、そうした遊興の日々が続く。かれらは議員になって、銀座で遊び、女を侍らかせ、官僚を奴隷のように傅かせる未来像は、泡のように消えてしまったのだ。
財産を没収する国ってなんだ。何の権限があって国は私有財産を没収できるんだ。これは一種の暴力だろう。この暴力に抗うためには、財産を一円も残さないことだ。だが、財産を使わせるのも内需拡大に役立って、国の財政を潤すことになる。いっそ死ぬ時には紙幣を燃やしてしまった方がいいのではないか。すると国には何も残らない。ざまあみろ。
愛国心はないのか? 国に対して感謝の念はないのか? あるわけないだろう。好きでこの国に生まれてきたわけじゃないんだ。どうしたわけかたまたまこの国に生を受けただけであって、それからは決まりきったようにこの国で育って働いてきた。
貧乏人がごちゃごちゃ文句言うんじゃないよ。おれは法律に触れることもなく、平均的な国民よりもずっとたくさんの税金を納めてきた。国に感謝されこそすれ、国に対して何の後ろめたさも抱くことはないね。このうえ、国に財産を残す必要はないだろう。むしろ、他の国に財産を移したっていいくらいだ。おれにはその選択の自由もないというのか。これは理不尽だ。別におれは外国で生活したことがあるわけではないので、積極的に外国で優雅な生活がしたいわけではないが、有無を言わさない国の横暴さに頭にきているんだ。
富裕層の老人たちが、働かずに遊び始めた。かれらの間では、築き上げた全財産を国に召し上げられるくらいなら、すべて消費してしまおうという考えが主流になった。政治家や大企業の役員を引退した富裕層の老人たちは、これまでは様々な団体に天下りしたりしていたが、そんな役職に就くものは、皆無とは言わないが、ほとんどいなくなったことは確かだ。かれらの頭の中は、自分が築き上げた莫大な財産をどのようにして生きているうちに使い切るかで一杯だった。
死んだら即財産が没収されるので、子供たちが豪勢な葬式を上げてくれるとは思えなかったようで、自身で金を払って豪華な生前葬を執り行うことが大流行した。
『死ぬまでに財産を使い切る方法』に似たタイトルの本がたくさん書店に並び、いずれもベストセラーになった。
不安なことは、自分の死がいつ訪れるかわからないことだ。自分の財産が一円たりとも国に召し上げられるのは嫌なので、死んだ日に財産をゼロにしたい。しかし、もし財産を使い切ってしまってから生きていたら、貧しい生活が訪れる。天国から地獄だ。貧しい生活はどれほど続くかもわからない。あらかじめ10億円を保険金として払っておけば、死ぬまで面倒を見てくれる、高級マンションを改装した民間の老人施設がある。だが、そんな生活はつまらない。高級であろうと低級であろうと、みんなで童謡を歌おうが、パターゴルフをしようが、施設の生活は退屈なことに違いはない。そんな生活は勘弁である。それならば、金がなくなった時に自殺ができれば最高だと思うのだが、おれはそんな勇気を持ち合わせてはいない。インターネットの闇サイトで、誰かに自分を殺してもらうように依頼することができる話を聞いたことがあるが、日々殺し屋を怖がって生活するのも辛すぎる。とにかく資産を使い切った時点で死にたいのだ。これも欲深さの裏返しなのは間違いないのだろうけどな。
富裕層の上級国民は老後に子供に世話になる必要はなかった。高度な医療や手厚い看護を受け、豪奢な介護施設に入居する財力があったからだ。かれらははなから子供の世話になる予定はなかったのだし、子供たちも親の世話をする頭はなかった。
「遺産相続禁止法」が施行されてからは、識者の一部は、家制度そのものが崩壊して、子供たちは親を敬愛しなくなったし、老後の面倒をみなくなったと主張している。こいつらは、そんな糞みたいなやつらとばかり付き合っているのだろう。それとも自分の家がそうなのだろうか。財産がない庶民は以前と変わらずに、生き生きと生活をしている。周りをよく見て見ろ。
農家は「遺産相続禁止法」に戸惑った伝統的な家業の一つだ。今の日本では、親から田畑を引き継げなかったら、農業を行うことはできない。農業が崩壊したら、国の食料確保が破綻してしまう。国力を維持するためには食料の自給率を高めなければならない。そこで、農業に関しては国も時限立法を設けて、比較的手軽に次代に引き継げるようにした。伝統工芸の工房についても然りであった。
ここで国際情勢に目を転じると、隣国は「遺産相続禁止法」によって日本の財政が健全化されたことに、ある種の危惧を抱いていた。それは、豊かになった財政から軍事費に回されるかもしれないと考えたからだ。
そんな隣国の心配をよそに、日本は一風変わった浮かれ方をしていた。
つづく