精神科医は、異常者のフリをした人間を見抜けるのか。
精神。それは物体で存在せず、事象だけを都合良く定義しているもの。
体内のどこにあるのかと言われれば臓器としては存在しておらず、いくつもの生体反応が複合した結果「精神」と呼ばれている。
非常に曖昧な存在だが、それを持ち合わせている生物が数多くいる以上、普通や異常といった組分けが生まれる。
多くの人間が属するものが普通。少数の人間しか属さないものが異常。この考え方の是非はここでは議論しない。そう考える人間が多いから、この考えも「普通」となる。
普通と異常とを別けられるとは言ったが、見た目での判断が極めて難しい分野である。主に精神科医が判断を下すが、中には誤った判断をされてしまった人間もいるのではないか。
今回は、精神科医の診断は本当に正確なのかを確かめるために行われた実験を紹介します。
この実験は、1973年に結果が発表されました。
精神科医の診断を欺けるかどうかを試す訳なので、もちろん、普通の人(以下は健常者と表記します)に異常者のフリをしてもらいます。
試す相手は普通の精神病院でなければならないので、何も知らない精神科医を騙す実験となります。
いずれネタバレはするとはいえ精神科医を騙すなどと許されないのではないかと思いますが、この疑問を抱いて実験を行った人物も精神科医でした。おそらく、1番反論ができない相手です。
この精神科医の名は、ローゼンハン。
ローゼンハンは2つの精神病院に対して、それぞれ違う実験を行った。
まず1つ目は上記にもあるように、健常者に異常者のフリをしてもらうこと。異常者のフリをして入院ができるかを試すのである。
ローゼンハンを含めた8人の健常者が、医師からの診察の際に共通の嘘をついた。
それは、幻聴が聞こえる、といった内容である。
何故この症状が選ばれたかというと、1970年頃の当時は幻聴に対する過去のサンプルデータが無く、患者が「聞こえる」と主張したものを「聞こえていないはず」と判断するのは不可能に近かったからである。
それゆえに医師は自分の技量で判断するしかなく、健常者達も騙し通しやすいと判断された。
そして医師に、誰かの声が聞こえる、ドスンと音が聞こえる、と嘘の症状を伝えた結果、なんと全員が精神障害を患っているとして入院となった。
1人には躁鬱、7人には統合失調症との診断が下された。この時点で、精神科医は正確な判断を下せないとの結論が出た。
ただし一応、この結論が出たのには時代背景がある。
当時は医療や科学技術が発達していなかったのもあり、物体として存在しない精神の診断を行うのは極めて困難であったこと。加えて、治療をしてほしい人間が嘘をつくなどありえないと考えられていたため、患者の訴える症状が本当だと無条件で信じてしまったこと。
これら2つの要素が合わさり、実験はとても簡単に結論が出た。
そしてローゼンハンは、このぐらいは通るだろうと予測していました。なので、入院成功後の過ごし方も他の健常者と打ち合わせしていました。
健常者達は入院後すぐに、幻聴が聞こえなくなった、と病院側に伝えました。
加えて看護師や医師に積極的に話しかけるなどし、精神障害が回復したとアピールした。
にも関わらず病院側は、異常者との判断を継続した。すぐに回復するなんておかしい。自分を健常だと思い込んでいるだけではないか。そう考えるほうが自然なのは理解できます。
結局健常者達は、最短で7日間、最長で52日間もの入院を余儀なくされた。完全に不要な入院生活であるにも関わらず、だ。
さらに退院も、簡単とはいかなかった。
健常者達は実験経過をメモに残していた。その行為すらも「筆記行動」という妄想性統合失調の症状だとレッテルを張り、病的な行動だと考えていたのだ。
そしていざ退院となっても病院側は条件として、「自分は精神疾患を持っていると認めること」「抗精神病薬の服用に同意すること」を、強制的にさせたのです。
退院となってもなお、異常者との判断は変わらなかったのです。
もっと言えば、異常は無いと主張する健常者の意見は無視され、嘘を信じて回復もありえないという精神科医の独断だけがまかり通ったのである。
そのぐらいには医者の意見には力があり、誤診があった場合は力に抗うこともできなかったということだ。
ちなみに実験中は看護師も精神科医も健常者達の嘘を見抜けなかったが、病院内では疑っていた存在がいたとされている。
それは、本物の精神疾患者達である。
入院中に関わった患者達の合計118人のうち、35人が健常者達に「本当は正常なんじゃないか」と疑いを持っていたのだ。
このことから、精神疾患を持っている人間だからこそできる判断がある、精神疾患を持っていない医者は先入観で判断してしまう、との結果を得られた。
先入観だけで判断するのはとても危険だ、と。
かくして十分な実験結果を得られたローゼンハンは、この結果を病院に発表した。
すると病院側は大激怒し、そのまま話が大きくなり、別の病院が話に入ってきたのである。
別の病院は、「自分のところではそんなミスをしない」と主張した。なのでローゼンハンは、2つ目の実験を開始した。
次の病院は始めから、 嘘をついた健常者が現れるはずだとわかっている。そこで実験内容は、3ヶ月以内に1名以上の偽物を送り込むので当ててみろ、というものになった。
それを受けた病院側は、この3ヶ月の間に入院した193名のうち、41名を偽物と断定し、42名に疑いありと判断を下した。さすがに疑い過ぎだろうとも思うが、外すよりはいいと考えたのだろうか。
しかしてなんとローゼンハンは、1名以上は送り込むという宣言を破り、誰も送り込まなかったのである。
これにより2つ目の実験でも大量の誤診を生み出し、精神科医は精神異常の診断をできない、との結果が出た。
もちろんこれは1970年頃の実験結果なので、現在では正しい判断をできる確率が上がっているはずである。
ただ、こういった「障害を訴える主張は本当に事実なのか?」という、患者の嘘を疑う認識が広く広まったきっかけとなった。
例えば現代でも嘘の症状がそのまま通ってしまえば、障害年金を不正受給する人間がもっと多くいたかもしれない。
医者の思い込みは危険であり、思い込みにつけ込む悪人も出てくる可能性もある。
そんな悲劇を生み出さないために、ローゼンハンは精神科医でありながら精神科医の敵となり、本当の精神患者達を守ろうとしたのかもしれない。