1-5 アップグレード(2)
ルイは再び現れた星空を見て、またも立ち尽くしていた。だが、つい先程まで謎の空間に居たことを思い出し、すぐに人工知能に問い合わせる。
「進行方向、速度、座標を報告! …………は?」
進行方向と速度に変化はない。船は謎の空間に入る前と比べて、一切角度を変えていないし、加速も減速もしていない。
ハイパーレーン航行時もまったく同じだ。方向と速度はハイパーレーン突入前後で変化しない。ハイパーレーン航法は船を動かすものではなく、周囲の空間を移動させるものだからだ。そのため、方向・速度・座標の3要素のうち変わるのは座標だけとなる。進行方向と速度が全く変わっていないことについては見慣れたものだったため、ルイは特段意外に思わなかった。
問題は座標だった。
「なんだ、この桁」
宇宙空間座標は、葦原星系の主星が基準だ。つまり、葦原星系の中心は常に「南北0.東西0.上下0」となり、全ての星、宇宙ステーション、ハイパーレーン出入口の座標は葦原までの3次元距離として表記される。現在の座標の南北は見慣れた範疇だ。上下座標も同様で、どうやらまだ平べったい銀河の中であるらしい。しかし、東西軸の数値のみが通常より一桁多いマイナス値だった。
それは、ここが人類未到の極西であることを示していた。
「銀河地図で見せてくれ」
目の前に立体地図が現れ、葦原、ニクサヘル、目的地ゴソック、現在地が表示される。そして、ここがちょっと西方向に離れたどこではないことに気が付いたとき、ルイは何度も自分の目を疑わねばならなかった。
そこは、ニクサヘル星系の丁度西、高密度星雲であるユースモアの白布を越えた先だった。ハイパーレーン航行を許さぬ塵とガスの宇宙の厚い雲の向こう側だった。
「…………周囲のハイパーレーンを表示」
いくつかの色の異なる線が表示される。緑は一般航行可能、赤は建設中、青は無人航路調査船を通しただけ。新たなハイパーレーン開拓に忙しい葦原の南東や北は青が多い。絶賛開発中の南西ゴソック方面は通行可能を示す緑が多い。ニクサヘル星系から北にもいくつか赤や青の線が伸びている。しかし、ニクサヘル星系の西、ユースモアの白布の方面には何の線もない。
加えて、周辺にある星の名前がすべて機械的な記号だ。ニクサヘルやゴソックといった愛称がない。星への愛称は、葦原人類が注目した星系にのみ与えられる。このことは、今、調査や研究計画が立てられる気配のない宙域に居ることを表していた。
ここは人類未踏であり、誰も興味を持っていない宇宙空間。そのうえ、故郷の方角には超光速航行を阻む厚い星雲が立ちふさがっている。自力帰還の可能性が無いことを悟ったルイは、しばらく立体地図を見続けた後、ただ力なく座り込んだ。立体宇宙地図には、ニクサヘル宙域に輸送船と研究調査船があることを示す点が明滅していた。
*
しばらく、ルイは座って顔を膝に埋めていた。悲惨ではなかったけども社会の末端として生まれ育ち、よく分からない事故で誰も知らない宇宙の彼方にて朽ち果てる。それが運命。数奇なのか、平凡なのか。ルイはそんなことをぼんやりと夢想していた。重い静寂と冷気があたりを包んでいた。
しかし、それは突如破られた。
『ルイ。タマです。ダウンロードとインストールが完了したことを報告します』
ルイがゆっくり顔を上げる。生気の宿らぬ目で、中空に浮かぶタマのアバターを虚ろに見ている。タマの姿は黒猫……なのだがルイにはいつも以上に挑戦的な笑みを浮かべているように感じられた。
だが、すぐに笑みは消え、目を閉じ、冷たく無表情なものとなっていく。
『現時点から、水上ルイが個人所有する第三種支援ソフォン、個体識別コードAW9392890fj31、別名タマの権限を特定第二種ソフォンに拡張できます。拡張範囲には、高度な推奨、艦長代理として操船命令の実行、無制限の船内物資利用、全ての情報参照、準武力行使が含まれます。権限を拡張したソフォンの使用者は、理由や自覚の有無を問わず、新たに得た権限の行使結果に責任を負います。軍事的な行動と見做された行為については、軍事裁判での聴聞・処罰も含まれます。詳細は、個人情報ライブラリにある産業省および製造元である如月アシストマトンズが共同作成した文書を参照ください。拡張機能を利用する場合は、意思を込めて明瞭に拡張機能を利用する旨を発話してください。なお、意思決定を保留すること、本説明の一部または全体の再確認はいつでも可能です』
目を瞑ったまま事務的に話し終えたタマが目を開け、笑みと口調を戻して続ける。
『今のルイの頭でも分かる様に平たく説明するとですね、極めて珍しいトラブルに遭遇したので艦長権限を渡すからなんとか生き延びて欲しい。そのためにソフォンは通常の法制度の枠組みを越えて、といっても特例の範囲内ですけど、ともかく全力で支援する、ということですね』
ルイの眼に極僅かに光が戻る。ただ、それは希望というよりは、まだちょっとした興味という程度のものだった。
『今回のトラブルは、技術的には完全に想定外。航行記録を船の人工知能さんが解析していますけど、さっきから進捗率は1%のままです。きっと終わらないでしょう。でも禅問答みたいですが、想定外のことも起きうる、という想定もあったんですね。だから、とりあえず何をすればいいか、というガイドラインだけはあります。助かる保証は勿論ありませんけどね。んで、どうですか?』
「……」
『とりあえず受け入れちゃえば艦長代理に大、大、大昇進ですよ。普通は死んで二階級特進しても高等教育課程を通ってないルイには無理です。このまま何もせず終わるより、なんかやってから終わりませんか?』
「……」
『ま、無理にとは言いませんけどねー』
「……」
『……』
タマはいま、明らかにルイの思考を誘導しようとしていた。ソフォンが人に対して意図的な思考誘導を行うことは固く禁じられており、ソフォンには様々な種類の思考誘導防止モジュールが組み込まれている。タマも同様だ。しかし、使用者の自死あるいは深刻な自傷行為の予兆がある場合は例外となっている。つまり、タマはなんとかしてルイに生きる気力を取り戻させようと努力している。ルイはそう解釈した。
ルイはタマから目を逸らし、窓の外に目を向けた。これまでの星間輸送で見たものと変わらない、見る者の魂を吸い取るような漆黒と無数の小さな光の点だけの空間だ。ルイは思う。ひとつひとつの星の寿命はとても長い。少なくとも数百万年、数十億年になるものも珍しくない。それに比べれば人の命など瞬き程度。どちらに決めても宇宙にとって大差はない。そう、大したことではないのだと。
「お前さ」
自分は宇宙にとって居ても居なくとも変わらない存在。自分、いや人類自体が存在していてもしなくとも、きっと宇宙は何も変わりはしない。ルイは圧倒的な宇宙の広がりを感じ、存在の小ささを心から理解した。
そして、ちっぽけであるということが、今は何より大事である気がした。どうせゴミのように小さな存在であるなら何をやったって構わないだろう。ルイは唐突にそう思った。それから、自身の考えがまったく論理的でないことに呆れて苦笑した。ただ、論理的であることに今、一体どんな意味があるというのか。ならば思うように、好きなようにやってみよう。ルイはそう思った。すると心が軽くなっていった。
「二階級特進ってさ、僕は軍属じゃないっての」
『あら、そうですねー』
「……」
『……』
「拡張機能を利用する」
『――より明瞭な本人意思の確認が必要です。インターフェースとなっているソフォンを正視して、再度意思表明してください』
「タマの拡張機能を利用する」
『水上ルイの意思を確認しました。特定第二種ソフォン機能を活性化するため、直ちに再起動します。3、2,1、開始』
カウントダウンの直後、タマの猫アバターが消滅する。そしてすぐに白い光が現れ、何かを形作っていき、猫アバターより明らかに大きくなったところで聞きなれた声が響いた。
『じゃーん、です』
ルイの目の前には、少女が漂っていた。蛍光の濃紺で縁取りがされた軍服のような長袖の服、同じく濃紺の膝丈ズボンに手袋とブーツ。大きめサイズの帽子も濃紺に蛍光の青で縁取りがされており、前ツバだけの制帽には猫耳型の突起がついている。帽子に入り切らず流れ出る髪は、黒く軽いウェーブのかかったショートボブだ。
表情に目を向けてみれば、少し吊り上がった瞳の色もまた蛍光の青。表情は、楽観的でイタズラ好きな性格を伺わせ、背後にはくねくねと動く尻尾が見え隠れしている。
まさに猫型少女とも言うべき、奇抜な格好をした少女が、中空で猫座りしながら挑戦的な笑みを浮かべていた。
「……人型アバターは政府が禁止してなかったっけ?」
『ありゃ、そうですね。特定第二種にアップグレードしたので制約から外れたんですかね。まあいいじゃないですか、些細なことですよ』
「そんなアバター、僕は指定してないんだけど。その格好は……なんで猫耳帽子の少女なの?」
『これまでのルイの各種購買傾向、閲覧コンテンツ、そこに対する視線の向け方から設計しました。服飾分野で使われる手法を応用して、ルイ好みのアバターを推定したのです。ルイは知らないかもしれませんが、普段の何気ない行動と服装の好みが強く関係するというのは服飾業界では常識なんですよ』
この状況においてどうでも良すぎるタマの知識披露に、ルイは苦笑いしながら「ま、いっか」と肯定の意を示す。いまのルイにとって、ソフォンのアバター形態など確かに些細なことだった。
ルイは今、まさに宇宙遭難という大事故に巻き込まれている最中なのだ。仮にタマの新アバターが自分の潜在的な好みであったとしても、いまこの光景の記録を誰かが見るのは早くて数百年後で、ルイはとっくに死んでいる。
一方、タマはルイが無自覚的に新アバターを気に入ったことを察知し『お気に召したようでなによりです』と相槌を打つように軽く微笑んだ。
「で、どうすりゃいいんだ? 宇宙迷子ガイドラインとやらがあるの?」
『そんな名前じゃないですけど、似たようなものならあります。まず行うべきなのは周辺宙域の調査ですね』
「まあ、そうだよね。じゃあ、やろうか」
『既に実施中です』
「へー。なにか分かった?」
『進行方向に星系が1つあります。現実的な燃料、時間で十分に到達できます』
「へぇ。で、そこに行ったほうがいいの?」
『はい』
「なんで?」
タマがニヤリと大げさなまでに笑って口を開いた。
『第三惑星に十分な居住可能性が見いだされていますんで』
[タマのメモリーノート] ソフォンはそれぞれ固有の個性を持っている。工業製品の一種なので、ある程度の表面的な性格は設定で調整できるが、本質的な個性は変えられない。(正確に言えば、変えると人格や応答品質に予想できない不具合が生じうる。)
ソフォンを形作る深淵な数理方程式から、どのようにして個性が生じるのかについては諸説あり、統一見解は出ていない。





