1-5 アップグレード(1)
ルイは窓の外を見ながら、声ひとつあげず立ちつくしていた。
ニクサヘルの大規模フレア観測を受けて船団の人工知能が隊列の調整を始めた直後、ルイの視界は突如、白く塗りつぶされた。あまりの眩しさに目を押さえて跪かなければならないほどだった。しかし、すぐに白い光の奔流は弱まっていったので、ほどなく目を開けることができた。そして、窓を見て絶句した。
窓、すなわち壁面に備え付けられた光学モニターの外には見たこともない空間が広がっていた。ニクサヘルのリングどころか、星ひとつ見えない漆黒の世界。その中で白や紫に淡く光る雲かオーロラのようなモヤが一面に広がって巨大な嵐を形成している。紀ノ国では月の明るい夜だと、巨大ガス惑星の水雲星から引き寄せられたガスが空に輝き舞う姿を見ることができるが、目の前の光景はそれとよく似ていていた。ただ、月光を受けて輝くのではなく、モヤ自体が秘めるエネルギーを漏らすように内側から輝いていた。
奇妙なのはモヤだけではない。その奥にはいくつかの巨大な球体が見え隠れしている。距離感がわからないので、遠くて天体のように大きいのか近くて宇宙ステーションぐらいなのか見当もつかない。が、ともかく球体が漆黒の中に浮かんでいて紫や青に輝くモヤが周囲を取り巻いている。
ここはどこなのか。見慣れた宇宙空間ではない。大気圏内でもない。一切の外界から隔絶されるハイパーレーン内とも違う。死後の世界……そうかもしれない。そんなルイの混乱した思考に艦隊の人工知能が割り込む。
「異常発生。本船は未知の事象に直面しています。繰り返します。異常発生……」
同時に各種データとエラーコードが表示される。ルイはひと目見て、船の人工知能でも何も分かっていないことを理解した。センサーデータはすべて通常ではありえない異常値ないしは計測不能を伝えている。エラーコードが示す意味は「その他の重大な状況」だ。つまり、情報量はゼロ。「何も分からない」ということを形を変えて言っているに過ぎない。
人工知能のアナウンスに内容は無かったが、ここは死後の世界ではなく現実は続いていて何か行動しなければならないことを思い起こさせる効果はあった。我に返ったルイは、叫ぶように船へ命令する。
「じょ、状況報告っ! 位置と速度!」
――計測不能。
「輸送船と研究調査船との相対距離!」
――計測不能。
「っ! 通信回線っ!」
――不成立、8回目の再接続を試行中。
ほぼ外界からの情報が絶たれている。基準が存在しないため位置や速度も測定できない。他の船との通信もできない。ハイパーレーン航行中と似た状況ではある。唯一異なるのは、光学センサーだけが反応をしていて、目の前の異空間としか形容できない光景を映していることだ。外部が完全な無になるハイパーレーン航行中とはまるで異なる。
出来ることはなにもないのか? ハイパーレーン航行中にできることはほとんど無いが、今もそうなのか。ひとつひとつ確認しなくてはならない。ルイはそう考え、改めて人工知能との応答を始める。それは、何か行動することで目の前の不安から目を背けようとする行為だった。ただ、実際そうすることで少し冷静さを取り戻していった。
「本船の周りに何かある……? つまり、ハイパーレーン航行中のように、周りには重力の膜はあるか?」
――本船は重力膜を展開中。
「っ……何故!? 突入前だったはずだ!」
――ハイパーレーンにと酷似した重力場の変化を感知したため、航行システムが自動展開しました。
「……いま、重力膜を解除することをシステムは推奨するか?」
――非推奨。重力膜に強い時空圧力が掛かっています。
この返答だけを見れば、ハイパーレーン航行中と同じく艦は超光速で移動しているのかもしれない。ならば、重力膜を解除すれば瞬時に圧潰するか、どことも分からない宇宙の果てに放り出されるだけ。ルイはそう考え、取れる選択肢は非常に少ないかもしれないと思い始めた。そのとき、何かが外界のモヤの中を通り過ぎたように見えた。ルイは窓を凝視しながら、人工知能に命令する。
「10秒前の光学モニターを映して! 再生……停止! ここ、拡大!」
モニターには、拡大表示された3秒前の外界が映っている。ルイが指差した箇所には、なにやら丸みを持った小さい影が高速で移動していた。ただ、最大まで拡大しても不思議なモヤに浮かぶ黒い染みのようにしか見えず正体は分からなかった。それはすぐにモヤの中に消えていったが、ルイはなんとなく警戒したほうがいいのではないかと感じた。
「火器は……使えるか?」
――光学兵器が使用可能。警告、非推奨。重力膜展開中に火器を使用した場合の結果は予測困難です。
――実弾兵器は搭載されていません。
ルイが乗る船には、小惑星の表面を削る、あるいは宇宙デブリを破壊することを目的としたエネルギー兵器が搭載されている。威力だけを見れば費用対効果の高い優れた装備だが、射程は短く撃つ前の予備動作が長いうえに連射できない。そのため、戦闘には全く不向きであり、だからこそ多くの民間船舶に搭載することが認められている。
ルイは射撃管制システムに待機を命じた。あの小さな影に意志があるなら、この距離では撃ってもあたらないと考えたからだ。
窓の外の風景は変わらない。モヤは活発に嵐を形成している。球体はまったく動かないから、おそらく非常に遠方にあるのであろう。ただしばらく待つことしかできないのだろうか? そうルイが思った時、目の前の幻想は突如消え去り、無数の星空が再び現れた。
[タマのメモリーノート]葦原の政治体制は寡頭制だ。首長の任期は20年。再任は2回まで。