2-18 奇襲(2)
「!……間違いないのか」
「はい。野生にはほとんどいないと聞きます。もちろん、野良犬という可能性もあるのですが」
少し首を傾げてルイが聞く。
「野良犬って?」
「……主人から離れて野生で暮らすようになった犬のことです」
ルイは、ふうんと音にならない声を漏らす。葦原ではペットは富の象徴であり位置情報を完全に管理されているから、野生の犬など存在しない。
「神聖法廷の猟犬だとして、ここで何をしているんだ?」
「周囲の警戒でしょう、偵察だと思われます。遊軍の規模は分かりますでしょうか? 確認できたら良いのですが……」
ルイは頷いてから、中空のタマに目配せをする。範囲を絞ることで、遠方を少しでもセンサーで測れないか、そう無言で聞くつもりだった。しかし、タマは後方の戦場の方を見ている。見ているといっても、ソフォンに実態があるわけではない。ただ、それは後方に注目すべき何かがあってセンサーをそちらに集中させているということは意味していた。
なにか戦場に変化でもあったのか。そう聞こうと思った時だった。
『ルイ、櫛稲田の陣地に危機が迫っているかもしれません』
どういうことだ、と怪訝な顔をするルイにタマが話を続ける。
『あの犬が神聖法廷の飼い犬だとすると、放った理由は偵察ではなく後方の安全確保だと思われます』
タマがルイに視線を合わせる。
『正体不明の一群が、高速で櫛稲田の陣地後方に迫っています』
*
櫛稲田の将軍ナガスネの眼には、戦闘は膠着状態に近づいていると見えていた。
表面的には櫛稲田と連合帝国の合同軍が圧倒している。実際に、神聖法廷は会敵してから少しずつではあるが戦線を後退させ続けている。勇猛さで知られる神聖法廷の兵士は、その名に恥じることなく多くの奴隷兵や櫛稲田兵を屠りつつも、連合帝国の奴隷兵を使い捨てにする戦法、および櫛稲田の弓・魔法・剣で構成された三層構造の布陣に圧倒されているように見える。
実際、それは正しい。今は連合軍が優勢であることに異論はない。しかし、神聖法廷が自壊していく兆しがないことをナガスネは気にしていた。
劣勢での戦いは苦しいものだ。ナガスネは何度か神聖法廷の厳しい攻勢に押されて苦しんだ経験から、押されているときの困難さをよく理解していた。劣勢の時には、戦闘を放棄する、或いは攻めることを少し手控える、という選択肢が多数の兵の心の中に現れるのだ。誰しも義務感だけでなく、死への葛藤も持っているのだから当然のことだ。ギリギリに保たれていたバランスが限界を超えた時、一気に全軍は崩壊していく。不利な状況において、踏み止まることがどれほど困難なことかをナガスネは理屈ではなく経験で理解していた。
そのため、神聖法廷が粘り強く踏み止まっていることにナガスネは内心困惑していた。狂信的な、自分は生まれながら亜人より優れた存在だという甘美な幻想を信じる神聖法廷の兵士たちの士気の高い。しかし、いまの状況は士気の高さだけでは説明できない気がしていた。
何かが、神聖法廷軍を崩壊させないでいる。このままでは、押している側の疲れも無視できなくなる。ナガスネの豊富な経験は、近いうちに合同軍にも息切れが生じ、両軍は拮抗し始めると囁いていた。
「いつ、どう撤退すべきか……」
ナガスネは呟く。
生まれつき病弱であったナガスネの声量は成人してからもずっと小さく、そのため拡声魔法を長年の努力の末に開発させたほどだ。少人数の会議なので魔法を使うほどでない時でも、指示を聞き逃さぬようナガスネの近くに伝令兵を寄り添わせるのが常だった。
しかし、今はあまりに小声であったため、伝令兵は僅かに視線を向けただけだった。ナガスネは勿論、撤退を示唆する自分の呟きがどれだけ全軍に動揺を与えるかについて理解している。だから、いまは誰にも話さず一人孤独に考えなければならなかった。
そこに伝令が入る。
「報告。狙い通り、左翼に連合の石竜部隊が、右翼にはヤグラ率いる遊撃隊が奇襲に入り大きく戦果をあげているとのことです」
「いまのまま続けよ」
ナガスネはそう現状を肯定する。
本来であれば、とっておきの石竜部隊とヤグラ遊撃隊は神聖法廷を壊滅させる最後の一手のはずだった。だが、予想以上に神聖法廷が踏み止まっている為、少しでも敵兵を狩るため出陣させたのだ。
とりあえずこれで神聖法廷の戦力をさらに削れることは間違いない。問題はいつ今日の幕を引くか。そう考えた時のことだった。
「奇襲! 背後!」
誰が叫んだのか、ナガスネには分からなかったが、それは問題ではなかった。素早く振り返り、後方のテントのいくつかに火の手が上がっていること、そこに数人の神聖法廷の騎士がいて既に交戦が始まっていることを確認すると、ナガスネは素早く決断した。
「後詰めから兵を出せ、前線は戦線を維持しろ」
背後からの強襲という事態は、危機的シナリオの1つとして対応方法も決めていたので、方針が決したと見るや伝令役たちは冷静さを取り戻し素早く動いていく。また、今後に出される指示を予測し戦闘の準備を自主的に始めているものも多く見られた。
ナガスネは考える。確かに不意は突かれたが敵兵はそう多くないはずだ。何故ならば、ここ前線基地ローディスに攻め込むかの判断をする前から、ローディスが保有している兵力規模を精力的に精査してきたのだ。門から入っていく兵、出て行く兵、そして納入される物資の量と頻度。それを事細かに数えてきた。この分析から導き出されたのは、ローディスに存在すると推定される神聖法廷の兵数と、いま主戦場に出ている神聖法廷の兵数がほぼ一致しているということだった。
勿論、推定は事実とは異なるから、安易な判断は禁物だ。それでも、まだ見ぬ多数の軍勢が存在して背後から挟み撃ちを仕掛けているということは考えにくい。ならば、これは我々の戦意の挫くため混乱を引き起こすのが目的だろう。
ナガスネは豊富な経験に基づき、ここまでを瞬間的に判断した。だが、事態はナガスネが無意識に期待したほど単純ではなかった。
「祝福旗! あの旗印は祝福騎士です!」
「……!」
「将軍、危険です!」
驚きと切迫感から悲鳴のような部下の叫びを聞き、ナガスネは戦力推定こそ誤っておらず敵兵は少ないものの、事態はずっと深刻であることを悟った。
「奴の狙いは我だ! 前線の待機兵も本陣に集めよ!」
手空きの兵は前線からも掻き集めるよう指示してから、ナガスネは額の冷や汗を片手で拭き取ってから近くに置いていた剣を手に取った。
ナガスネは、自身が櫛稲田の戦闘面における精神的支柱であるだけでなく、様々な状況判断の中核になっていることを十分に理解していた。自身が倒されても、制度としては指揮官の座は自動的に副官に移る。だが、この想定外の事態を臨時の指揮官がおさめるのは難しいと思われた。
そして、その認識が正しいことを示すかのように、櫛稲田の本陣は混乱の度合いを高めていった。
[タマのメモリーノート] 月追とは、ひとたび獲物を指示されれば月までも追っていく執拗さから名付けられたという。(後にルイがサクヤに聞いてタマが記録)





