2-7 帰還(2)
岩交じりの砂漠をバギーが走る。運転席にはルイ、後部座席には女の子がひとり。
彼女はつい先程までバギーの速さに驚いたり笑ったりしていたが、いまは静かに寝息を立てている。五歳だと言われれば大人びている、十歳と言われれば小さすぎるといった印象だ。
ルイは再び、巨人の砂漠を走破していた。やや悪路ではあるが、無茶な運転は避けているし座席ベルトで固定しているので安心していられる。
周囲に人は居ない。ただ稀に獣らしき反応を感知するのみだ。行きは砂埃のせいで地平線を見ることはできなかったが、今日は風が穏やかなせいか遠くまで見渡せる。神聖法廷の前線基地ローディスが左手、西の方角にあるが、十分に距離を取っているから視覚補正が無ければ点にしか見えない。
『僅かながら木々が見えてきました。夕方には杭稲田に到着するでしょう』
「ああ、うん」
ルイは上の空だ。顔は前方ではなく東を向いている。その方角には煙の谷がある。その奥は赤茶けた砂しかない広大な死の砂漠だ。といっても、具体的に何かをみているわけではなかった。空に輝く小さな白い月と、さらにその上に浮かぶ青い月、その間をぼんやりと見ているだけだった。
(殺したんだよな、人を)
神聖法廷兵が子供の母親の首を斬ったとき、ルイは反射的に兵士を撃つと決めた。後々どうなるかも考えていない、完全に咄嗟のものだった。
振り返り、子供を見る。なんとも小汚い恰好である。髪はぼさぼさ、服はボロで血だけでなく得体の知れない染みがたくさん付いている。肌は荒れ放題で丁寧な保湿をされる葦原の子供とは大違い。手や足には砂やら泥やらが付着したまま。ろくに水浴びもしていないのだろう、僅かに異臭までする。
ルイは不潔さに嫌悪感を覚えそうになったが、そんな想いはアイシャの寝顔を見ると一瞬にして吹き飛んでしまった。
丸みを帯びた額、小さな目から延びる長い睫毛、半開きの幼い口。そのすべてが、私は誰もいない荒野で人知れず消えて良い存在ではない、と力強く訴えていた。
(この顔を見れば後悔なんて考えられない。確かに僕はひとり殺したけど、ひとり助けたんだ。それはいい、だけど……)
ルイが自分の手を見つめる。確かに自分でライフルを手に取って引き金を引いた。そして見事に兵を撃ち抜いた。
しかし実行した手には、人を殺した感覚が残っていなかった。すべてがまるで拡張現実型アトラクションでの出来事のよう。そんな肌感覚だった。
(発砲したとき遠かったし、タマが掛けていた認識阻害のせいで僕は死んだ兵士の表情を見ていない。だからなのか。これが銃なのか)
ルイは取り敢えず納得した。しかし、違和感は残った。
*
数時間後、ルイは櫛稲田の領主館の前に居た。
「あっ、もっ戻った! 本当に戻られたのかルイ殿!」
ルイが入り口の歩哨に戻った旨を伝えたところ、すぐにどたどたと板間を走る音をさせてサクヤが飛び出してきた。
「あ、もっ、戻りました」
慌てように驚いたあまりルイの声も少し上ずってしまう。
「そっ、そうか、良かった、です。もう戻ってこないかと……。あ、ごほん。無事のご様子で何よりです。部屋はそのままにしていますので……。ただ、戻られて早々に大変恐縮ですが、急ぎお話させて頂きたい件がございまして、後ほど私の執務室にて……あれ?」
ここでようやくサクヤがルイの隣の子供に気が付き、アイシャの顔と翼を交互に見返す。
「バ、バルタンの子……ですか? こちらは?」
アイシャを見てサクヤが驚いた表情を見せる。一方、アイシャは慌てず静かにサクヤの顔を覗き返した。賢い子だなと感心しながらルイが説明する。
「え、ああ。話すと長くなるんだけど、神聖法廷の兵士が奴隷のこの子を殺そうとしてたから助けて連れて帰ってきたんだ」
「……そ、そうですか」
ルイのいろいろ省略した説明に、サクヤだけでなく横に居る歩哨までもが顔を引きつらせている。
「兵士は止むを得ず殺しましたが、シュラマナから離れた荒野でのことでしたし、生き残りは居ませんので情報が漏れることはないと思います」
「そ、そうですか」
ルイは、説明不足過ぎたと軽く補足をしたが、それは二人の表情をさらに悪化させるだけに終わった。
ともあれ、サクヤはすぐに気分を落ち着け、歩哨にアイシャの水浴びと食事の世話するよう指示してから「また後ほど」と去っていった。多忙なのか、ずっと慌てた様子であった。
(もっと冷静で落ち着いた人だと思ってたけど、あれが素なのかな。バルタンってなんだろ)
ルイはそんなことを思いながら、アイシャの手を取りながら歩哨の案内に従って館の裏側に向かっていった。
*
「はあ~あ」
誰もいない小さな執務室で、椅子に寄りかかって天井を仰いだサクヤが溜息を吐く。
すると気分が落ち着くほどに、ルイが戻って来てくれたことの実感が浮かび上がり、心が安堵と嬉しさで満たされていくのを感じた。
サクヤは、神聖法廷にルイを送り出したことが正しかったのか、ずっと悩んでいた。
ルイが谷で示した武力は圧倒的だった。
この辺りで血蜘蛛を知らぬ者はいない。素早く動き、頑強な鎧さえ貫く前脚で致命の一撃を仕掛けてくる。倒されてしまえば、生きたまま自分の手足が喰われる様を見る羽目になる。弓矢で対処しようにも体や足が細くて当たらない。
血蜘蛛との遭遇例は少ないが、それは遭遇して生き残った者が少ないという意味なのだ。
そんな手練れでも緊張する血蜘蛛。その大群のほとんどをルイはひとりで撃破した。ライフルとかいう武器と、前後左右に目がついているのかと疑うほどの戦場全体を俯瞰する視野で、近づかれる前に極めて効率的に倒しきってしまう。
加えて、光を発する二振りの片刃剣と磨きこまれた剣技で血蜘蛛の女王の一刀両断するなど、接近戦もこなす。
極め付けは、櫛稲田の切り札である荒稲妻が効かなかったことだ。ヤグラによると、帯電したまま気絶した自分を抱き抱えたらしい。
実に強力な古代兵器使いだ。
それでも、とサクヤは思う。
血蜘蛛は強いが、神聖法廷には劣る。彼らは死を恐れず、必要とあらば容易く自分を犠牲にしてでも勝利を狙ってくる。万が一、中隊や大隊と接触してしまえばルイとて危険だ。
それに、より重要な懸念として、ルイは神聖法廷の民と同じ長身族で、そして男だ。神聖法廷に好意を持ってしまうことは十分に考えられる。他種族に対しては悪辣極まりないが、長身族の男にとっては住みやすい国なのだ。
あの国は古代機械文明を否定するから、すぐ手を組むことは考えにくい。しかし、敵対したくないとは思うかもしれない。そうなったら櫛稲田とは距離を置くだろう。
「放っておくとルイは連合帝国に身を寄せる可能性が高い、か」
サクヤが小さく独り言を言う。
ルイと共に櫛稲田に戻ると、みな大いに沸き立った。櫛稲田の滅亡すら想定される中、援軍と街道の話が出てきたのだ。それは希望そのものだった。援軍があればローディスを叩ける。街道があれば、連合帝国と継続して物資や軍をお互いに融通しあえる。そうなれば神聖法廷との均衡状態を続けられるだけでなく、要塞都市シュラマナから外に二度と出て来られないようにしてやることも出来るのではないか。
そんな闇の淵に突如射し込んだ光を喜ぶ人々へ、盛大に冷水を掛けたものがいた。
「ところで、そのルイというのは味方なのか?」
その誰かの一言に全員が押し黙る。答えられるものは誰もいなかった。
ルイは色々と常識外れの存在だ。この世界のどこに暮らしていれば神聖法廷を知らないなどと言えるのか。森羅や連合帝国についても同じだ。そのことを考えた時、誰もが気付いたのだった。
ルイが敵とは言えないが、味方とも言い切れない。今のところ揉めことを嫌がっているだけだが、もしも精鋭小隊か中隊に匹敵するほど強力な武力を個人で持ちバギーとかいう常識外れの機動力を持つルイが敵に回ったならば、櫛稲田の運命は危ういと。
続けて、ルイが神聖法廷への潜入視察を希望していることが明らかになった時、会議場の動揺はもはや隠しようのないものとなった。せめて首に縄でも付けておけないか。そう考えた者たちの視線が、ルイと共闘した領主の娘である櫛稲田サクヤに向かったのは当然であった。
だから、ルイを送り出したサクヤを待っていたのは、厳しくも無責任な質問だった。
正体をもう少し探ることはできなかったのか。
本当に戻ってくるのか。
神聖法廷から揉め事を持ち帰ってくることはないのか。
そもそも、神聖法廷に与してしまうのではないか。
サクヤ殿は魔法の腕前こそ卓越しているが、戦術や交渉の経験は浅く任せてしまって良かったのだろうか。
何故もっと相談しなかったのか。
向けられた視線の多くはサクヤを詰問するものだった。
「相談して、何が決まると言うのです!」
「あまり揉めるとルイが出て行きかねない。そうなれば連合帝国なら重用するだろう」
憤慨するサクヤへヤグラはそう冷徹に告げた。確かにそうだと思った。とりあえず今は櫛稲田に身を寄せてくれているが、繋ぎとめる強い絆に欠けている。
一方、連合帝国は欲と金で動く柔軟な国。ルイを貴族扱いして囲い込むぐらいのことはしそうだ。長身族も多い。彼は自分自身の価値に酷く無頓着だ。多くの人が重要人物――あるいは危険人物――と見なしているのに、交換可能で安価な歯車のひとつぐらいにか思っていないように見える。だから、貴族扱いは効果的に思える。どうも直感は違うと告げるのだが。
ともかく今、ルイは戻ってきた。それも、予定の2泊3日より短い1泊2日で。それは良いことだった。しかし、有翼族バルタンの、しかも日に当たると赤く光る羽を持った子供を救い、さらに神聖法廷の兵士を殺してきたと言う。
完全に揉め事でしかない。櫛稲田は平穏を乱す者を嫌う。その事を聞いたとき、サクヤの心は張り裂けんばかりであった。
「ルイ殿をお連れしました」
「! ――少々お待ちください」
案内のものがサクヤにルイの来訪を告げるが、纏まらない思索の中でもサクヤはなんとか落ち着いた声で返答することに成功する。
サクヤはルイが味方になると賭けていた。根拠はルイが時折見せる奴隷の扱いへの嫌悪と怒りだ。ルイは奴隷制を嫌っている。アイシャの件だってきっとそうだ。奴隷制を採用していない森羅を好きになってくれる可能性は十分にある。
しかし、それは願望交じりの憶測に過ぎないだけでなく、実のところ決断の後付けでしかない。本当の根拠は、サクヤの直感だった。
いまルイを手放すことが何か取り返しのつかない危険につながるとの予感。血蜘蛛との死闘の中で感じた、ルイとヤグラが組むとなんとかなるという不思議な安心感。それが、サクヤの決断の理由だった。
とはいえ、理屈の補強を怠ることはできない。私の勘は良くあたるとヤグラは言うが百発百中だとは到底思えないし、信用していない官僚も多い。そもそも理屈が無ければ組織は動かない。
(もうすぐ連合帝国からの援軍が到着する。ともかく神聖法廷の中で何をされてきたのか、全部理解しなければ……)
サクヤは机の近くにある鏡を見て笑顔が引きつっていないか確認したあと、自ら扉を開けた。案内のものに開けさせるより歓迎の意を示せると思ったからだ。
[タマのメモリーノート] 森羅の戦術教本によれば、小隊は12人、中隊は36人である。





