2-1 神聖法廷へ(1)
岩交じりの砂漠をバギーに乗ったルイが駆けている。同乗者は誰もおらず、背後を追う石竜もいない。
いまルイは1人だった。ここは、岩がほとんどなく赤い砂ばかりの<死の大砂漠>――大陸北東の巨大砂漠地帯はこう呼ばれているらしい――より風が強いらしく、砂埃が常時立ち込めていて視界が良いとは言えない。そのため、タマはセンサー出力を高めて周囲を捜査し続けているが、ところどころ岩があるものの障害物とはなりえず、走行は容易だ。
動植物は<死の大砂漠>と同様にまったく見当たらない。ただ、背後を見れば遠くに纏まった数の木々をまだ視界に収めることができる。それは櫛稲田を取り囲む森であった。いまルイは、櫛稲田をひとりで出発して南西、神聖法廷が支配する地へ向かっていた。
『概ね予定通りです。天気予報も悪くないので、昼過ぎには到着するでしょう』
自動運転を行うタマの報告を聞きながら、ルイはバックパックから大きな葉で作られた包みを取り出す。そして、草の茎で作られた閉じ紐をほどいて包みを開け、中に入っていたふたつの大きな握り飯のうち片方を手に取って食べ始めた。
「葦原の米と比べると少しぼそぼそしているけど、結構イケるな。具は山菜の味噌漬けかな?」
『拍子抜けするほど簡単に、しかも想定を遥かに越える品質で食料問題が解決しつつあるようで何よりです』
「まったくだ。助かったよ、本当に」
ルイとタマのこれまでの調査により、概ね高天原で出される食事を食べても問題ないことが分かってきていた。しかも、連合帝国のアズマ府の食事は味が絶望的であったのに対し、櫛稲田の食事は味がそれなりに良いことが分かったことで最大の難題とされていた安定的な食料確保に目途が立ちつつあった。
現地文明や植生からの調達が難しかった場合、船から持ち込んだ食料が尽きてしまう前に野菜や豆、芋を生産できる体制をルイだけで構築する計画であった。ただ、農業の知識はタマが持ち込んでいるとはいえ、水源と土地の確保に加えて開墾、作物の収穫と備蓄までをひとりで行えるのか。さらに、長期的に生産量を安定させるとなれば肥料の確保に、水不足や冷害などについてもちゃんと対策できるのか。どちらもルイは自信を持てずにいたし、タマも簡単なことではないと認めていた。
まさに食料の確保は、喫緊かつ長期的な大問題であったのだ。そのため、少なくとも当面は食料に悩まなくて良くなったことで、ルイの不安は大きく和らいでいた。
「次の具は……昆布の佃煮か。うん、ちょっと香りが強いけど旨い」
『昆布の佃煮ときましたか――。味噌と醤油、昆布出汁に加えて味醂の存在も確定ということですね。ルイの舌が信用できるのなら、という前提付きですが』
「……佃煮ぐらい何度も作ったことあるから間違いないよ。それにしても、これだけ調味料があれば、だいたいの食事は作れちゃうなあ」
ルイは口いっぱいに頬張った握り飯を竹筒に入った水で胃に流し込みながら、櫛稲田で一泊したときのことを思いだす。櫛稲田は、服装だけでなく食事についても葦原との共通点が多く見られる興味深い土地だった。
*
血蜘蛛の群れを殲滅してから煙の谷を抜けた後、ルイはサクヤとヤグラと共に危なげなく櫛稲田に辿り着くことができた。
「櫛稲田は森の中にある」
サクヤはそう言っていたが、ルイの感覚では林の中にあるといった印象だった。
確かに、白い幹に緑や黄の葉をつけた針葉樹が其処ら中に生えてはいる。だが、鬱蒼としているというほどではなく、木々の中にいてもそれなりに遠くまで見通すことができる。
大地は砂漠と違って起伏が多く、樹木の幹と似た白っぽい色の土で覆われている。ただ良く見れば、地面にはところどころ赤い筋が伸びていた。これはサクヤによると、過去に砂漠の赤い砂を含んだ雨水が流れた跡であるという。また、水が流れた跡は自然と平坦になっているから歩きやすいので、道になっていることが多いということだった。つまり、櫛稲田の道はどこも概ねほんのり赤い。
「畑や水田ばかりで……砦などの防御施設が少ないことに加えて、櫛稲田へ攻め入った敵に土地勘がなくとも、どこに道があるかある程度分かってしまうのです」
そうサクヤは続けて、櫛稲田は守るには難しい土地である理由を説明した。
(確かに、土地の問題もあるかもしれない。けど、砦が少ないというのは防衛の準備をしてこなかったってことじゃないのか……。それなりに起伏はあるんだから、ちゃんと防衛に投資していればもう少し守りやすい土地になっていた気がする)
ルイはそう内心で思ったが、口に出すことはなかった。政権批判だと受け止められてしまいそうだし、そうなれば領主の娘であるサクヤの家族批判になってしまう。それに、葦原で二級市民として生まれて第二級社員として働いた経験から、正論やそれに近い意見というものは適切な場で適切な話の流れの中で、良い関係性のある相手に穏当な表現で伝えねば正しいか正しくないかは関係なく決して歓迎されないことをルイは理解していた。
「この度は娘のサクヤ、戦士ヤグラを助けていただき感謝の言葉もない」
到着後、ルイは櫛稲田の領主から直接感謝の言葉を受けた。
ルイは、領主――すなわちサクヤの母――のことを柔和で穏健で質素な趣を持った優しそうな人物だとは思ったが、それ以上の特別な何かがあるという印象は持たなかった。それに、表面的には柔和であるが本心は一切見せないという、葦原のエリート層であれば誰もが備えている陰険な仕草が備わっていないように見えたことに違和感を覚えた。
領主は口ではルイへの感謝の言葉を語るのであるが、その眼は決してルイを見ようとせず、その態度は非常に事務的であった。つまり、心からは歓迎していないという内面が見え見えであったのだ。最初は単純に文化の差かと思ったが、サクヤを見る限りそうとも思えない。
本心を笑顔の中に隠すことは、統治者ならば必ず持っているべきスキルというのがルイの感覚だ。事実、葦原の管理職階級はみな本心を隠すことに長けている。それなのに、領主の内心がこんなに筒抜けでよいのか、とルイは疑問に思った。総合すると、領主は隣人としては好ましくとも、畏れられつつも頼られるような強力な統治者ではない、という印象をルイは櫛稲田の女王に持った。
それから、領主は連合帝国と共同戦線を張って神聖法廷へ対抗するのに忙殺されていると、人の上に立つものとしてはあまりにも正直かつ無邪気に言い、早々に会見を切り上げた。そのため、会見はルイが跪いて適当に話を聞いているだけで終わってしまった。
「好きなだけ櫛稲田に居て宜しい。食事に興味があるなら是非試していくがよい。願わくは櫛稲田……そしてサクヤと友好的な関係を築いてほしい」
領主は去り際に、こう言い残して去っていった。ルイはその言葉の最後、サクヤと友好的な関係を築いてほしい、という部分にだけ感情の揺れと温かみを確かに感じとった。
「母上のお許しが出ました。これまでのこと、私からも改めてお礼を申し上げます。是非とも、しばらくゆっくり櫛稲田で休んでいってください。いま逗留される部屋を準備しておりますから、それまで食事にしましょう」
そして、ルイは案内された会食の場で櫛稲田の食事に出会うこととなる。炊いた米、昆布出汁のきいた清汁、醤油を使った青菜のお浸し、味噌を添えて焼いた干し魚。どれも親しみのあるものばかりだった。
体に合うか確かめたいと主要な食材を会食前に貰って解析していたため概ね食事内容を予想できていたとはいえ、それでもいざ目の前に箸と共に出されてみればルイは驚きを隠すのに精一杯となった。あまりに葦原との共通要素がありすぎて、遠く離れた星系の異なる種族から出された食事にはどう考えても見えなかったからだ。
「お口に合うとよいのですが……」
そう言って食べることを促すサクヤを見ながら、ルイは少し汁を吸ってから、焼き干し魚、米と手を付けていった。どれも素朴ながら暖かさがあった。未知なる地にいる緊張で、心の奥深くが緊張で凝り固まっていたルイの心に自然に染み込んでほぐすような味だった。
ルイは控えめに、しかし心の底から「美味しかったです」とサクヤに伝え、用意された個室に戻っていった。





