1-16 谷での決戦(3)
岩陰から姿を表したのは巨大な血蜘蛛だった。
形は大きく変わらない。四本脚で歩き、前から生えた短い二本は獲物を刈り取るためか鋭く尖っている。
だが、腹が決定的に異なる。大きく膨れている。メスなのだろう。ただ、それを苦ともせず悠然に歩き、顔の前にある脚を折りたたんで短く構えながらゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
ルイは向こうに引く気は一切ないと悟り、思案する。
逃げ出すことは可能だ。怪我した石竜一体は失うだろうが、二人乗りでもしながら全速力で来た道を戻ればよい。命は確実に助かる。
ただ、後続の援軍が行軍するかは別だ。巨大蜘蛛がメスなら大量の死骸を糧としてまた一大勢力を形成するかもしれない。
ルイには「蜘蛛をたくさん倒しましたが奥に大きいのがいて逃げ帰ってきました。でも大丈夫、きっと倒せます」と報告して、すんなり通るか微妙に思えた。
(そもそも、倒せると言い切れるかな)
休息してエネルギーを溜めれば万全の状態で戦うことができる。しかし、谷へ向かう前に聞いたタマの天気予報によれば、これから数日は曇りまたは雨らしい。そんな天候では、エネルギーが十分に溜まるのに何日かかるか分かったものではない。時間が経つほど、新たな血蜘蛛なり別の害獣がぽっかりと空いた力の空白を埋める可能性が高まる。
そんなルイの逡巡をヤグラが短い言葉で斬って捨てる。
「斬る」
「お前が強いのは分かってるけどよう、勝てんのか? 道案内の爆発する矢はほとんど使えないんだろ?」
斥候長が疑問を呈す。軽い口調は相変わらずだが声色は真剣。止めておけ、そう本気で言っている。
「いま倒さねば行軍が遅れかねない。そうなれば、櫛稲田が危うい。我が故国も連合帝国も不利になる。分かっているはずだ」
「精神論を聞いてるんじゃねえんだけどよー……しゃあねえな」
斥候長の苦言に、ヤグラは止まるつもりなどないと応えた。そのことを理解しても斥候長の口は相変わらず軽くて悪いが、逃げ出す気配を一切見せない。
ルイには二人が死を覚悟したように見えた。櫛稲田が属する森羅、連合帝国、そして名前の分からないヤグラの故国は既に一蓮托生であるようだ。
「ルイ。そこで見ていろ。小さな光の矢が効くようには見えん」
「いや、でもやりようはある気が……って、あっ!」
ルイへ下がれと告げたヤグラは、返答を待たずに凄まじい速さで駆け出していった。
「ならば援護せよ!」
「道案内! てめえ実は護衛だろ! なんで突っ立ってんだ!」
(護衛、確かにそうだった!)
ルイは急ぎ機動戦闘服の出力を高めて駆け出し、すぐに最高速に達する。ヤグラとの距離はみるみる詰まっていくが、ヤグラも素早くすぐ追いつかない。
そこにタマが切迫感のある声を上げる。
『省エネルギーモード解除を推奨、その場合エネルギー切れまで2分』
「解除! 全速!」
機動戦闘服が僅かに白く光り、ルイはさらに加速してヤグラの後を追う。それでも、すぐには追いつかない。見ればヤグラの体も仄かに青く光っていて、さらに加速したようだった。まるで同じく機動戦闘服の出力を最大にしたかのように。
すぐにヤグラが巨大蜘蛛に接敵する。
背中に担がれた大きく幅広な板剣はすでに抜かれ手に収められている。それを見た巨大蜘蛛は細い前脚を構えるとひとつを巨大な針を撃ち出すかのように突き出した。常人が反応できる速さではない。突きのあまりの鋭さを見たルイは、ヤグラが串刺しになることを直感的に確信した。
「っ! ……マジか」
しかし、驚くべきことにヤグラは迫る致命の一突を僅かな姿勢の捻りだけで躱した。それだけではない。体勢を戻しながら返す剣で硬い殻に包まれた脚の一本を叩き斬ってしまった。さらに返す刀で地についている別の脚の一本を弾いて姿勢を崩す。
だが、巨大蜘蛛もやられてばかりではない。二振りしたヤグラの隙を残る脚で突き刺そうとする。ルイは急いで血蜘蛛との距離を詰めて叫ぶ。
「連射!」
ルイが引き金を引くと無数の細かな光弾が収束して放たれ、ヤグラを狙っていた脚を弾き飛ばした。よし、やった。そう思った瞬間だった。
「避けろ!」
誰が叫んだのかは分からない。ただ、次の瞬間にルイが理解したことは、何らかの強い衝撃によって自分が宙に吹き飛ばされていること、同時にライフルが弾き飛ばされたことだった。
直ちに機動戦闘服の制御補正が作動してルイは空中で難なく姿勢を直す。しかし、同時に無防備になるであろう着地を狙って、巨大蜘蛛が前脚を構えたのを空中でルイは見た。そして、このままでは地に足が接した瞬間に、串刺しの一撃が直撃すると直感した。
機動戦闘服は頑丈だ。一般的な銃弾や刃物で傷つけることは難しい。だが、巨大な質量を伴った攻撃となると話は別だ。どんな固い装甲や盾であっても、重いものが当たれば軽いほうが吹き飛ぶのが運動量保存の法則。いくら最新の技術でも、物理法則まで変えることはできない。
だが、死を間近に感じるこの瞬間において、ルイは冷静さを失っていなかった。先ほどライフルを超連射した反動で上体が少し後ろに下がったとき、腰の脇差が光を帯びているのを視界の端で見たからだ。
『白加賀、紅千鳥。起動済み。発動の符号は覚えていますか?』
「ああ!」
改めて腰の大小二刀が鈍く光るのを横目に見つつ、ルイは着地に備える。そこへ巨大血蜘蛛の前脚による突きが豪速で迫る。ヤグラが斬ったものとは反対の脚で、完璧なタイミング。着地と血蜘蛛の攻撃は同時、避けることは不可能。
「ルイ殿!」
どこかから目が覚めたであろうサクヤの叫び声が響く。それを耳にしながら、迫りくる巨大蜘蛛の刺突を前にルイが口を開く。
「渦捻り返し」
次の瞬間、ルイは剣に精通していなければ到底見えない速さで両刀を抜刀。そして、前に掲げた左手で脇差「白加賀」を巧みに捻り、着地と同時に迫った前脚の軌道を逸らした。微細で玄妙な、しかし急激な白加賀の捻りが巨大な刺突を横へ弾いたのだ。
さらに間髪入れず右手に持った長刀「紅千鳥」を背後に振りかぶると、そのまま全エネルギーを脚部に継ぎこんで巨大蜘蛛に突進しながら真横に振り抜いた。
長刀である紅千鳥は容易に人間を両断できる長さだが、巨大蜘蛛を斬るには甚だ心もとない。しかし、今や紅千鳥はその銘に相応しき刀身の数倍ある紅の光刃を放ち、一振りで巨大蜘蛛の脚と胴をまっぷたつに切り裂いた。ルイが長刀を完全に振り切った後、僅かな間をおいて形容し難い断末魔をあげ巨大蜘蛛が崩れ落ちていく。
『へー、蜘蛛なのに発声器官があるんですねえ。しかも人の可聴域で。ちょっと興味深いですね』
「はっ、はあっ。い、いまので倒せなかったら危なかった……のに! そこかよ、感心すんのは」
ルイがタマの軽口に辛うじて応えながら振り返り、残心の構えを取る。それは、黒岩道場で習った型そのものだった。ここまでルイの体は、黒岩流の理に沿いつつほぼ自動で動いていた。
そのまま、しばらくルイは倒れた巨大蜘蛛を観察し、完全に動かなくなったことを確認してから自分の意思で構えを解く。
『本当に凄いのはリンですよ。刀に型動作を記録し、崩し技から致命の斬撃まで繋げられるようにしてたんですから。しかも巨大生物相手に』
「……まーな」
黒岩リンから預かっていた二刀の白加賀と紅千鳥は、単なる武器であることを超えて内部に磨き上げられた剣術の型を保持していた。そして、動きを機動戦闘服への情報連携で再現する仕組みを持たせていた。深い理論と実践により磨きあげられた黒岩流の技術を、機動戦闘服を通じてタマが発動させたのだった。
「無事か」
ヤグラが近づいてくる。ルイは、なんとか軽く返事をしてそれに答える。
『ヤグラにも感謝しましょう。ルイが着地する直前、ヤグラが巨大蜘蛛の脚をさらにもう一本叩いていました。それがなければ、技が決まらず直撃を受けていたかもしれません』
「確かにもうちょっと早く攻撃されたら厳しかったな。……そういや直撃したら、やばかったのか?」
『機動戦闘服に結構なダメージが入ったでしょう。長く使いたいので避けたい状況でした』
「……そうか」
直撃しても死ななかったかもしれない。機動戦闘服が少し傷ついただけかもしれない。しかし、そんな状況が積もり積もるほど機動戦闘服の寿命がどんどん短くなっていき、少しずつ高天原で生存するのが難しくなっていくのは明らかだ。ルイは心底、ヤグラの支援をありがたく思った。
「お前のらいふるだ」
ヤグラが跳ね飛ばされたライフルを手渡す。ルイが手に取るとタマはすぐ簡易診断を行い、問題なく動作すると報告した。
「……よかった」
「そうだな」
ルイが溜息と共に吐き出した安堵に、珍しくヤグラが共感を示す。ただ、ヤグラが見せた僅かな笑みは、愛用の得物が無事でよかったという戦士としての感傷であるようだった。間違ってはいないのだが、見知らぬ土地で装備が傷つけば生存が困難になることからくる安堵感とは少し違うものであった。
「おい、こっちも終わったぞ。道案内、他に蜘蛛はいないか」
斥候長が声を掛けてくる。サクヤの術を受けても死んでいない蜘蛛の処理が終わったようだ。
『いませんね』
「……ああ。たぶん大丈夫だ」
「そうかい……。まあ、信用するとしよう。後続の軍には死骸を燃やすよう命令しておく。……櫛稲田の姫さん。お体はどうだい」
「大丈夫です……恐れ入ります」
岩の上で女斥候に助けられながらサクヤが半身を起こす。それを見たルイは大きく安堵の溜め息を吐いた。全員無事であることにルイは心底ほっとしていた。
巨大モンスターと戦う仮想現実ゲームなら、ルイも何度かやったことがある。しかし、命を掛け金とした実戦の緊張感は比較にならないものだった。
命はひとつ、失敗すれば終わり。自分など極めて不安定で、いつ消えてもおかしくない存在なのだとルイは心の底から理解した。
ふとルイは、先日葦原にて人類が不死を実現することはまだ難しいと言うニュースに接して、何故そんなに無理して生きるのかと思ったことを少し恥ずかしく思い出した。
命は軽いが貴重だ。ルイは、見知らぬ宇宙の果てで血生臭い戦いに巻き込まれる羽目になった運命を呪いつつ、生きて旅が続けられることに暖かく確かな希望を感じていた。
生まれたからには生きてやる。厭世的だったルイの心のなかで、新しい気持ちが強く目覚めていた。
そんなルイの背後では、斥候長がヤグラに小声で話しかけていた。
「とんでもねえな、おい。あの光る矢だけで数個部隊に匹敵するし、燃えて伸びる剣も持っている。あんな遺物、一体どこの遺跡で掘り当てたんだか」
「……」
「それに、あの動き。腕前も相当なもんだ。普段は素人って感じなのに、いざ戦いとなると見違える。不思議に思わねえか?」
ヤグラは答えず、背を向けて自分の石竜に向かっていく。ただ、その仕草は斥候長の疑問を雄弁に肯定していた。
電子機器としての銃や刀は当然ながら全員から強い興味をひいた。それはルイも予想していた。だが、それよりヤグラや斥候長が注目したのは、ひとたび戦いになるとルイの動きや判断が突如として歴戦の勇士の如く俊敏になることだった。
それは、人類の長い戦いの歴史で培われた戦闘術が支援ソフォンと機動戦闘服を通じて発現されているためだったが、そんなことは想像もできない。ただそれでも、彼らはその存在と価値を鋭敏な嗅覚で嗅ぎ分けていた。
「詮索は無用だ」
「やれやれ。まあ、そう言うと思ったよ」
斥候長もまた出発の準備を始めながら、以前見た光景を思い出していた。奴隷をクロスボウで射抜いた部下を見て、ルイの眼差しが一際厳しくなった時のことだ。
道案内は見知らぬ奴隷なんかに肩入れする甘ちゃんだ。あの時の眼は、こっちがギリギリの状況で生きてるってことを、奴隷なくしては国が破綻することを、奴隷にも奴隷であることを望む者が多いことを全く理解しない馬鹿な正義漢野郎のものだ。生きるか死ぬかの瀬戸際から目を背けながら、倫理や思想を語る愚かな平和主義者と同じ匂いがする。
だが、と斥候長は口角を上げる。
「結果だけみれば、割と従順で役に立つ。確かに今はそれで十分か……。おい、石竜の手当てを急げ!出発するぞ!」
部下に指示しながら、斥候長は上機嫌に笑う。
ルイの内面など、自身と家族と国家の存続の前にはどうでもよい。大事なのは結果。白猫でも黒猫でもネズミを取るのが良い猫。そういう意味では、ルイは連合帝国の良い猫だ。いまのところは。
斥候長は微かな笑みを浮かべた。
それをサクヤは見逃さなかった。そして、しばらく旅が円滑に進むこと、しかし得体の知れない大きな運命に巻き込まれたことを予感し、複雑な表情を見せた。
[タマのメモリーノート] 単純な危機回避と違って相手に実害を与える返し技の実行には本人の承認が必要となる。発生した損害について法的責任を問われる可能性があるためだ。
そのためルイは一定以上の声量で「技名」を符号として発することにより、ソフォンに意図を認識させる必要があった。





