1-2 黒岩燐と陳シェリー(1)
「はーい、起床! 起床! スヌーズは既に1回使っています。本日から新たな仕事ですよ」
「わかった、わかったって」
どうして新しい仕事の前夜だというのに、夜更かしてしまったのか。答えの無い疑問を振り払いながら、ルイは視界をこじ開ける。そこには半透明の黒猫が浮かんでいた。
「畏まりました。流石、寝坊できない日の深夜まで趣味の本を読み漁る方は違います。お言葉を信用して次のアラームは30秒後に音量30倍の超爆音で設定させて頂きます」
「タマ、やめろ。起きる、起きるって」
ルイは慌てて起きながら、人工知能がこんなに辛辣でいいのかと内心文句を言う。
目の前に浮かぶ黒猫は、最近になって使い始めた個人用知的サポート人工知能が室内に立体表示しているアバターだ。こうした人工知能はソフォンと呼ばれ、安くはないが一般的に使われている。
性格は皮肉を好む。そんな初期設定のままにしたことを棚上げして、ルイは少し気分を悪くしていた。
「身支度が終わる頃に車両を呼んでくれ」
「畏まりましたー」
ベッドの上で芋虫のように蠢く主人を横目に見ながら、タマは無人タクシーの手配を始める。そして、着替えが終わるであろう35分後にタクシーが住宅の外に到着するよう手配した。指示が曖昧でも、この程度ならタマは自由に判断する。
「ええと、上着は……あっ」
ルイは慌ただしく着替えていく。そのとき、ふとルイの脚がもつれる。
「……到着を5分遅らせます」
ルイはバランスを崩してお茶をこぼし、服を少し濡らしてしまっていた。
彼は自分の尻尾を踏まないよう咄嗟に避けた。アバターは幻想なので踏んでも傷つくことなどないのだが、まだソフォンに慣れておらず、つい動いてしまった。我が主人は少し抜けているが優しい性格。
どこか不自然ではあったがタマは状況をそう解釈し、ログに書き込んでから溜息をついた。
*
『右前方の搭乗口です』
アメノミナカ都市における第2軌道エレベータの一般向け搭乗ゲート前で、ルイは無人タクシーを降りる。それから骨伝導で自分にだけ聞こえるタマの案内に沿って静まり返った売店区間を通り過ぎ、業務用搭乗口へまっすぐ向かった。朝早いから、まだ混雑していない。
ルイは急いでいた。乗車中にルート変更命令が交通警察から入り到着が遅れていたからだ。当初予定してたルートで事故があったらしい。どの都市も人類の都として再構築途上であるため、よくあることだった。
歩みを早めて軌道エレベータに飛び乗り扉が閉まると、わずかな加速感に反して凄まじい速度で上昇していく。窓を見れば合金で埋め尽くされた都市がすぐに遠ざかり大地と海だけになっていく。それから、同時に闇が空から侵食してきて、続けて地上の光で隠された星々が空を埋め尽くしていく。
ルイはこの光景の変化が好きだった。だが今は、しばらく見ていたいという誘惑を振り払い、エレベータの扉が開くとすぐ降りて貨物輸送船発着口に向かった。
「――黒岩さん、だったっけ?」
『はい。黒岩燐が出迎えてくれる予定になっています。予定の時刻まで7分です』
ルイは歩きながら、今日会う人のことを再確認する。本日から正式に働く星間運送会社「草薙ロジスティクス」所属。自分と同じ第二級社員。名前は黒岩リン。機関士で女性。
彼女は――入社時に会った人事部の数名を除けば――ルイが初めて会う同僚だ。最初に失敗して悪い印象を持たれてしまうと大変だから気をつけよう。そうルイは気を引き締めながら、待ち合わせ場所に到着すると周囲を見渡し始めた。
「教育課程を終えて、すぐ草薙ロジスティクスに入ったってことなのかな」
『たぶん。ルイより1歳上ですが……っと、来ましたよ』
タマが示す方向を見ると、1人の女性が歩いてくるのが見えた。燃えるような赤い髪、大きくはっきりした瞳は勝ち気で野生的だ。一方で、頬のそばかすが少女の面影を残してもいる。服は動きやすく丈夫な人工革の黒スーツで、体型は健康的に絞られている。
ルイが声を掛けようとしたその時、彼女もまた探し人を見つけたようで話しかけてきた。
「ええと、あー、黒岩リンです。お待たせしてすみません」
「水上ルイです、今日はよろしくお願いします」
「あー、はい……あのー、大変つかぬことをお伺いしますけども、もしかして子供のころ近くの道場に通ってませんでしたか?」
「……え? あ!」
「やっぱりルイでしょ! 黒岩道場のリンよ」
瞬時、長く埋没していた記憶が鮮やかに蘇る。子供のころ近所には暇そうな総合戦闘術の道場があって、暇だったルイは掃除を手伝いがてら手ほどきを受けていた。その道場には勝気な赤毛の少女が父親と二人で住んでおり、ルイとは仲良くしていた。ただ、ある時に道場ごと引っ越してしまいそれっきりになっていた。
「急に引っ越して行ったから、もう会えないかと思った」
「ここアメノミナカだと、まーなんというか、ウチの道場は人気なくて。家賃払えなくて追い出されちゃったんだ。で、近接戦闘が流行っているところに行ったんだ」
「じゃ今、道場は――」
「それなりに。儲かってはいないけどね」
総合戦闘術とは、なんでもアリの白兵戦の技術だ。学校の必修科目でもあるからどの地域にも道場がある。黒岩道場もその1つだが近接戦闘を特に重視していて、普通は銃を使う中で珍しいスタイルだった。
戦闘術が学校の必須科目である理由は、異星系生物の襲来に備えるためだ。異星系生物の目撃例はないが、どういうわけか文明全体で備えることが決まっている。だから、誰もがなるべく実用的な戦闘術を学ぶ。
というわけで、近接戦闘術は人気がない。星々を行き交うこの時代に、射程が1メートル程度の刀や槍、格闘技を習って一体どうするというのか、というわけだ。
「それじゃ、近接は続けられているんだ」
「まーね。ねえ、またやってみない?」
「いや……もう相手にならないよ」
「そうかあ、残念。ルイは本を読むほうが好きだったっけ」
過去、ルイはリンとの訓練試合に何度も付き合わされたが、常に一方的な敗北に終わっていた。才能そのものに大きな差があった。そのうえ、ルイは銃を中心に習ってきたのに、リンは近接戦闘術を続けてきている。勝敗は戦わずとも明らかだった。ルイは安堵を隠しながら、別の思い出話に花を咲かそうとする。しかし、タマが待ったをかけた。
『ルイ、任務説明会の15分前です。』
「――っと、時間か」
「あっ、時間か。ごめん話し込んじゃったね」
リンもルイの様子を見て我に返り、早足でルイを案内し始めた。その後ろ姿を見ながらルイは思う。思い出のリンは小さいながら近接戦闘が本当に好きだった。リンは子供の頃から機動戦闘服を身につければ、そこらの大人でも太刀打ちできなかった。そんなリンは、近接戦闘を今でも続けているという。磨かれた体幹は、その賜物だろう。姿勢良く歩くリンの後ろ姿を見てルイは嬉しそうな表情を見せた。
それがルイにとって最後の平穏な日常だった。
[タマのメモリーノート]アメノミナカは葦原文明圏の首都であり、政治・軍事・経済の中心地。一方、リンが引っ越した地方都市タカミムスビは、芸術や武術が盛ん。