4-21 研究の成果(2)
「ここって……」
階段を上った一行の目に飛び込んできた光景は、既視感のあるものだった。足元は水はけの良いタイル、少し先には大きな透明の硝子板が部屋の半分を覆っていて、その奥にはもはや見慣れた研究所の内装がある。隣にはベッド、そして手鎖や足枷のようなものもある。
加えて、本体を十字に斬られた鉄塊が転がっていて、近くには細い脚が転がっている。最初に遭遇した鉄蜘蛛で間違いないだろう。となればここは、右側にあった不気味な部屋の奥ということになる。なんらかの人型生物を拘束、監禁するための部屋だ。
「こっちにも扉があるよ。奥に行けるかも」
リンの言葉に従って部屋の奥を見てみれば、部屋の端に大きな鉄扉があった。最初ここに入ったときには、壁の角に隠れて見えなかった場所にある。左右に大きく開く仕掛けだが、壁全体に広がるその大仰さからいってエレベーターには見えない。ボタンもない。
「取っ手がどこにもないね」
「ちょっと待ってろ」
レネーが扉を調べだす。そして、ほどなくして女を呼んだ。
「こっちだ。ここに手を当ててみろ」
「あん? 危なくねえだろうな」
「いいから早くやれ」
再びボキボキと拳を鳴らすレネーに辟易としながら、女は壁に埋め込まれた小さな黒い硝子板へ手のひらを当てる。すると、硝子板の奥で極小の赤い光が数回瞬いて緑色になった。同時に扉の中で重たい何かが外れるような音がした。それから、ゆっくり、重々しく扉が無音で開いていく。
「な、なんでこれで開く?」
「さあな、お前が施設の管理者に登録されていたんだろ」
「管理者……。建屋の入口を開けるのと昇降機を動かせるぐらいしか出来ねえって聞いてたぞ」
「さあな、権限の管理が杜撰だったんじゃねえのか? 知らねえけどよ。おし、いくぞ。こんなデカい扉だ。こりゃ何かあるだろ。見に行こうぜ。おい、お前。いまさらビビってんじゃねえよ」
レネーは意気揚々と、怖気づく女の襟元をつかんで文字通り引きずるように中へ入っていく。一行も続いて入ると扉は自動的にゆっくりと閉じた。中は暗闇であったが、すぐに天井に埋め込まれたダウンライトが順次点灯していき、部屋の様子が明らかになっていく。
そこは意外にも小さく生活感のある部屋であった。まず瞳に飛び込んできたのは、簡素な鉄棒で組まれた枠組みに吊るされた、全身を覆う多数の黄色い作業着、いくつかの長椅子、そして壁に埋め込まれた多数の棚であった。
着ている服を脱いて壁の棚にしまい、黄色い服を着る場所であることは明らかであった。長椅子や棚は錆びて朽ち果てつつあるのに、黄色い作業着だけは真新しさが残っている。特殊な素材で作られた服であるようだ。
その奥には引き戸がある。ルイたちは慎重に進んで、戸を開こうとしたところ自動的に開いた。続いて現れた回廊は短くも異様な空間であった。長さは20メートルほどに過ぎないが、回廊のちょうど中間では壁全体が青く光っている。そのまた奥には、さらに扉がある。
「ねえ、ここって通っていいのかな?」
「大丈夫だと思う。行ってみよう」
「ま、待て」
そうリンに答えてルイが歩みだすが、ヴィクターが問いかける。
「何故、壁がこうも青く光っている? これはなんだ?」
「うーん。なんというか、うまく言えないけど体を清めるもので……」
タマはここを滅菌室だと予想していて、そうルイに既に伝えていた。先程の黄色い服は何かから身を守る防護服であり、青い光は紫外線だから、殺菌装置だと考えられた。リン、レネー、そしてマキナも今のでおよそ理解したのか、何も言ってこない。だが、ヴィクターだけは納得いかないようだった。
「清める? この光で? どういうことなんだ?」
「えーと」
ルイはどう答えるか僅かに思い悩む。細菌という目に見えない生物があって……などと説明している時間はない。ただ、レネーは冷静だった。
「そういう言い伝えがあるだけだよ。仕組みも本当かどうかも分かんねー。でも、通っても問題ねえことだけは分かってる」
そう言いながらレネーはさっさと通り過ぎてしまった。実際に目の前で証明されてしまったので、ヴィクターは押し黙るしかない。
青い光の洗礼を浴びて歩き、奥の扉を開くと、そこは深海のような闇が広がる部屋だった。ただ真っ暗というわけではない。照明は天井にこそないものの床にはいくつかあって、仄かに足元を照らしている。そして、浮かび上がる壁はみな黒い。これまで埃まみれで灰色の部分も多かったものの、病院のように白が基調であったのとは対象的だ。
異様な雰囲気が漂う施設の中、すぐに全員の興味を引いたのが部屋の奥にある4つの水槽であった。無機質な黒い壁の手前に、試験管を人よりも大きくした縦長の硝子瓶がある。容器の中には小さな光源があって、僅かな水の揺れを映し出すだけでなく、水槽自体を闇の中で浮かび上がらせている。
「ねえ、ルイ……」
部屋の奥に進んだリンが、手前に他より離れて置かれていたひとつの水槽を見て呟く。
「これってさ……」
下から上に絶えず気泡が沸き立っていて、それぞれが光を反射するから、水槽は一見して夜空に煌めく銀河のようだ。そんな美しさに誘われるようにそれを見たルイは絶句した。
水で満たされたその中には、大きな蜘蛛に似た生物が静かに浮いていた。胴体は細長く、硬い骨格に覆われた細い脚が四本伸びている。前脚の間には短く細い手のような脚がふたつ。全てを広げれば人よりもずっと大きい。
「血蜘蛛、だよね。記録で見せてくれた……」
リンの言葉を、ルイが無言で肯定する。光の乏しい薄闇の中でもよく分かる。全身の攻撃的な赤黒さ。致命傷を負った仲間を即座に喰らう貪欲さを持つ。煙の谷で遭遇し、ヤグラが斬り払い、サクヤが電撃魔法<荒稲妻>で焼き払い、ルイが撃ち抜いた危険生物。見間違うはずも無かった。
手が届く距離でないとお互いの表情が見えないぐらい暗い部屋の中で、血蜘蛛の標本だけが水槽内部から発せられる照明の光を浴びて朧げに浮かび上がっている。底から湧き出る気泡が尽きる気配はない。いったいどれだけの年月か分からないが、装置はずっと稼働していて、この死骸を新鮮なままに保ち続けてきたのだ。
「こっちを見ろよ」
脳の処理が追い付かず立ち尽くしたままのルイに声をかけたのはレネーだった。
「なんていうか興味深いぜ」
レネーは、少し離れたところに間隔を置いて並ぶ残りの水槽を覗き込んでいた。第二の水槽には、長身族の男性らしき標本があった。ただ、よく見れば、指先から手首までが硬い外骨格に覆われている。爪が変形してそうなっているようだった。さらに、まるで古代の肉食獣サーベルタイガーか吸血鬼のように犬歯が異様に伸びていて口から大きく飛び出ている。
また第三の水槽には、虫人間とでも呼べそうな生物標本が収納されていた。全身が硬い殻に覆われていて、もはや男女のどちらか分からない。手足の長さは普通の倍ほど。牙も長く30センチメートルに達する。死虫人を思わせるが、色や形がどことなく違う。
さらに第四の水槽に納められていた標本は、人面蜘蛛と言っても良さそうな怪物であった。もはや姿形は虫そのもの。四本の脚、顎から延びた針のように尖った手。首がなくなって肩と一体化しつつある毛の無い頭部には、人と同じ場所に目鼻口がある。
ルイは、自分でも驚くほど目の前の光景を自然に受け入れていた。論理を司る左の脳髄が「思考停止に陥りたい」と子供のように喚いたが、直感を司る右の脳髄が「何をいまさら」と優しく諭し、柔らかく退けてしまった。
ルイの心は急速に冷えていく。そう、これはずっと前から、本当はあの煙の谷で分かっていたことだった。分かっていながら、知らないふりをしてきただけだった。目を背けてきたことだった。あの時は思いもしなかったが、今になってみれば自明のこと。そう思えてならなかった。
血蜘蛛は、虫ではない。同胞だった。人の末裔であった。
だから、初めて血蜘蛛を殺したとき、忌み嫌う気持ちを抱いた。
だから、神聖法廷領で人を殺したときに忌諱感を覚えなかった。多くの血蜘蛛を屠ったことで、同胞を殺すことに慣れてしまっていたのだ。
「血蜘蛛は……うっ」
ルイは今考えたことを言葉にして紡ごうとするが、突然の吐き気に中断される。口に当てた手を離すことができない。頭では理解したのに、声で表すことが出来ない。
言葉にさえしなければ、こんな悍ましい考えは幻のまま。しかし、一度でも言葉にしてしまえば、変えられない現実となってしまう。ルイは突如として、そんな強迫観念に苛まれた。無理して逆らえば、心が頭脳から悲鳴をあげて遊離してしまう気がした。
そんな恐怖を和らげたのは、まったく気遣いのないレネーの無遠慮な呟きだった。
「次世代計画だったっけなあ、これ」





