3-14 コウとシロとクロ(1)
早朝、高天原の太陽が地表から姿を出す少し前、空が少し明るくなってきた頃、ルイは自然と眼を覚ました。目をこすりながら、厚く固く重たい毛布の中から抜けて出て――布団が重たいと安心するのは何故だろう――部屋の隅にある瓶から柄杓で水をすくって口をゆすいだ後、先行宙域調査船の洗面所から持ち込んできたブラシで歯を磨く。
この世界にも歯磨きの習慣はある。動物の毛らしきブラシ、指に巻き付けて歯を擦る麻のような布、それに爪楊枝を使うのが主流だ。すべてを時間を掛けて使えば、それなりに歯を綺麗にすることができることは分かっている。だが、ルイはどうも慣れなかったし面倒だったので、これまで葦原文明の歯ブラシを使ってきている。
歯ブラシをよく見ると随分と長く使ってきた為か、少し毛の先がへたってきている。本来であればそろそろ替え時だが、残り本数が少ないのでギリギリまで使い続けている。長期に渡る宇宙旅行用のブラシであるため耐久性はかなり高いが、それでも無限に使えるものではないため、いつかは使用に耐えられなくなる。その時これはどうしたものだろう、とルイは歯ブラシを見て少し考えた。
この歯ブラシの毛や柄は、おそらく高天原では生産することのできない物質で出来ている。そこらに捨てても、タマの調査によると地表のバクテリアには未知のものが多いものの、その働きは葦原と大差ないそうだから、そのうち自然分解されるらしい。だが、時間は掛かる。拾われたところで簡単に解析されるとは思えないといえども、無暗に葦原文明の痕跡を残すことはどこか危険に思われた。捨てるときには焼却するか、地面の奥深くに埋めたほうがいいだろうなとルイは思う。
そんなことを考えながら眠気を頭に残しながら部屋を出て、ルイは停泊した宿の前に立った。起きた時よりも、だいぶ朝日の力強さは増している。
「なんか、随分と朝型になってきたな……。葦原にいた時よりずっと長く寝ているはずなのに、まだ眠いけど」
ルイが眠気を振り払うように、欠伸をしながら伸びをする。
『夜になると灯りが消えてしまいますからねえ。もう、これからずっと毎夜毎夜、趣味で夜更かしすることは諦めたほうがいいかもですねえ』
「どうも調子でないな」
人には夜型と朝型がいて、それは天性のものであり変えることは出来ない。環境の変化、あるいは本人の強い意志で表面的に変更したとしても、本来とは異なる生活習慣では十分な調子を発揮するには至らない。
この真偽不明の説は昔から唱えられているものの、現代においても証明はされていなかった。いずれにせよ、ルイは自他ともに認める夜型であり、夜に地球時代の娯楽作品を見ることを概ね毎日の日課にしていて、朝はギリギリまで寝るのが常だった。
しかし、高天原に来てからというもの生活習慣は一変させざるを得なかった。
タマに頼めば仮想現実で様々な作品を視聴することは可能であるが、エネルギーを余計に使ってしまうのであまり無駄遣いはできない。また、限られたデータベースのほとんどは生存に必要な情報で占められているので持ち込めている娯楽作品は極僅かだし、相部屋や野宿では他人の目があるためそもそも見る機会がない。そのため、太陽が沈んでしまえば出来ることは非常に限られる。
昨日は、ガナハの手配により個室に宿泊できていたから久々の機会ではあったのだが、タマによる高天原言語の学習に時間を奪われてしまい、疲れもあったため結局早めに就寝することになった。ルイの生活は葦原では想像もしなかったほどの早寝早起きになっていた。
「それにしても、あの2人、よくやるよなあ」
『半刻前から、あんな感じです』
ルイの目の前には小さくも激しい旋風があった。どこから持ってきたのか、ヤグラとジャミールが棒を持っての打ち合いを行っている。ジャミールの棒は長く槍を模していると思われた。一方、ヤグラの棒は太目だが短く、いつも使っている板のような大剣に比べると半分ほどの長さであり、長めの棍棒に近い。随分と使い勝手の異なる武器に見えた。だが、ヤグラは十分に慣れているようで、素早く繰り出されるジャミールの刺突を片手に持った棒で素早く打ち払っていた。
『よくやると言えば、ルイも昨日は随分とご活躍でしたねえ。ご高説、感服いたしましたー』
「嫌味かい」
『いえいえ、悪くなかったと思いますよ。』
タマの声色は明るく、表情も嫌味なものではない。ただ、もともとタマは双子の塔を通ることには反対していたので、あまりそのことを今は気にかけていないような雰囲気であるのがルイは少し気になった。そんなことを思って少し迷いのある表情になりつつあったルイの心中を察したのか、タマが補足する。
『どうみても危険そうな双子の塔を通るのは、今でも反対ではありますけどね。ほら、ガナハってギルドの男も言っていたじゃないですか。お前らの話は双子の塔を攻略しないことには絵空事に過ぎん、って』
ガナハの台詞を引用する時の、タマはモノマネ芸人のようだった。タマ本来の声ながら、雰囲気をガナハによく似せていた。ルイは改めて、タマの器用さに内心で感嘆した。
『あの言い方だと、これからしようとしていることが解放なのか攻略なのか、ともかく相当難しいと思いますよ。今からでも、皆を説得して引き返してほしいですけどねえ。でも、ルイはどうせ言う事を聞かないでしょーから、だったら少しでも成功確率を上げるためにギルドの協力を引き出すほうが良いと思いましたんで』
バルタンがギルドに業務委託する案を言い出したのはルイだった。葦原周辺の星系における輸出入の仕組みを元に、自らアイデアを提示したのだった。これならば、酒場はギルドからバルタンへの能動的な貸し出しということになって所有者も住民も動くことはないから、メンツも立つのではないかと思ったのだ。
葦原人類の版図では、葦原星系の本星である紀ノ国こそ政府直属の組織が船や荷物の出入りを管轄しているが、他の星系では民間が運営している。施設も民間が作り、政府と利用者に利用料を請求していることが一般的だ。様々な星があり、それぞれ細かく事情が異なるため、すべてを政府が行うとどうしても非効率になってしまうからだ。そこで、政府は大まかに制度の要諦を決めたうえで、細かな部分は業者の提案に沿って細則を定めたうえで、船や荷物の検査、そして手数料や税の徴収業務の全体を民間に委託していた。
発注における技術論になるが、細則を提案する設計会社と、運営を行う運営業者は当然異なる。一緒にしてしまえば、どこまでも自分に都合の良い方法しか民間業者は提案してこないからだ。委託先を2つに分けることで、相互牽制による適度な緊張が生まれ、それが利用者の満足度向上と事業費圧縮に繋がっていく。そして、政府は結果責任を負う。
ルイは、ここ高天原でも本来であれば同じように委託先を2つに分けるべきだと思っていた。それが、この手の事業における鉄則だと習っていたからだった。しかし、ルイはそこまでを求めなかった。流石に、会社という概念も希薄なこの世界では無理だと思ったからだ。その分、相互牽制の効果は弱まってしまうが、細則の設計については自分――というよりタマ――がなんとか頑張ればいいと思っていた。それで最低限のところはなんとなかなるだろうという考えだ。
そんなルイの考えをどこまで読んだのか、ともかくガナハとの交渉の間、タマはルイを様々に支援した。金融業における代理店の考え方を応用することを提案したのもタマだった。そのおかげで、ルイは慣れない業界の話をする羽目になったが、タマが分かりやすく――というよりそのまま言えばなんとかなるように――情報を提示したため結果的にボロは出なかったし、交渉も良い方向に進んだ。
「まあ、なんというか助かった」
『いーえいえ、ソフォンとして当然のことです。櫛稲田における私たちの立ち位置があまり盤石でないことも分かったので、こういった形で他に基盤を築いておくのも悪くありません。そのためにバルタンにタマを設計役として食い込ませる狙いだったのでしょ?』
「……あ、ああ」
『嘘です、そこまで考えてはなかったですよね?』
「……ソフォンって嘘がつけないんじゃないの?」
『今のは冗談だから、いーんです』
「……」
タマにやり込められてしまったルイは再び正面のヤグラとジャミールの打ち合いを見る。2人とも、動きは軽めで本気とは程遠い。それでも、しっかり見ても全部は目で追えないほどの速さだった。きっと、タマの支援がなければ、機動戦闘服の力をかなり使ったとしてもルイだけでは勝てはしないと思われた。
ルイは2人の力強さと軽快さを見て、自分の非力さを感じ取っていた。戦闘においても交渉においてもタマの支援がなければ覚束ない。そして、リンが残した刀と戦闘データがなければ、これまでの道中において無事に済んだかはかなり怪しい。大けが、あるいは下手すると死すらありえる場面も少なくなかったはずだ。
周りはルイを一目置いているようだが、ルイ自身の認識では、自分の力は他人の借りものばかり、というものであった。そんな状態がルイには少し口惜しい思いだった。
『……それにしても、ルイはどう思ってあんな提案を? 単に安全を確保したいなら、ジャミールともっと相談すれば良かったはずですよねえ。ここまで大掛かりな話にする必要は必ずしもないはずです。ルイはここで何をしようとしているんです? 生活基盤を作るという目的より少し大きなことを狙っていたりしません?』
「えっ」
ルイはタマに心を見透かされたように思い、つい驚きの声をあげてしまった。
『まあ、今はいいですけどね。でも、そういうのはちゃんと言語化してくださいよ。目的や目標が不明瞭だと、ちゃんと支援できませんからね』
「――分かってる」
なんとかルイは返事をするが、何故自分がここまで動揺したのか、ルイ自身でも良く分らなかった。無力だから力を見せたかった、そして褒められたかったのだろうか。そんなことは――無かったとはたぶん言えない。これまで活躍してきて、周囲の目が変わったのはルイにとって戸惑いの原因ともなったが、仄かな優越心の拠り所となったのも確かなことであった。そのことで、自分が自信を持てるような感じを得られたのは正直心地よいものだった。だが、もっとちやほやされて褒められたい、というのが自分の最上位の想いであるかと問われると、それも少し違う気がしていた。
(僕は本当は何がしたいのか……か)
なにかをここで起こしたい。そういう言い方のほうが合っている気がしていた。だが、何を起こしたいのか。それは、心の中で煙の中に燻る火種のような感じになっていて、ルイには良く分らなかった。





