quarter
#四題茶会
6月お題
・四半規管
・領収書をください
・雨
・霞の花
今日はきっとよく晴れているなぁ。
椅子に座ったままそんな風にぼんやりとしていると、不意に部屋のインターホンが叫んだ。
これは大音量で、設定できる最大音量。らしい。
小さい音では聞き取れないだろう。実際、晴れているなら喧しく外で鳴いているであろう鳥の囀りも、ごくうっすらとしか聞こえていないのだし。
僕は椅子から動かない。家の〔中〕に取り付けられたこのインターホンが鳴るのは、母が僕の部屋にやってきたからだ。驚かせないよう、事前に来訪を伝えるためだけの音。ノックの音じゃ聞こえない。
膝の上に置いていた手にそっと肌が触れた。
「どうしたの?」
「ごめんね。あなたに電話なの。どうしても直接と仰るものだから……大丈夫かしら?」
大丈夫なはずはないけれど。
イヤーマフのない状態で聞く音は反響して反響して、たったそれだけで酔いそうになる。だからできれば外したくない。
けれど仕方がないので「大丈夫だよ」と答える。
言いながら少しずつ目を開いた。急な明るさに眩まないよう、部屋の明かりは落としてある。
左側に母が居た。腰を屈めて、僕の耳元に顔を寄せて。
その手には子機が握られている。ああ、眩暈がしてきた。少し目を開けているとすぐこれだ。
電話を受け取って、イヤーマフを首に下げた。途端にキィンと高い音。
周囲の音が明瞭になる代わりに、待ってましたと言わんばかりの耳鳴りだ。
退室していく母を薄目のままで確認して、一呼吸おいてから外線を繋いだ。
「……もしもし。」
「初めまして。御免なさいね。電話なんてお辛いでしょうに。」
聞き覚えのない声だ、と、思う。
なにせ直に聞く人の声は反響して仕方がないから、あまり自信はないけれど。
「ええと……」
どちら様だろう。若い女性、いや、年配にも思える……か。
「お可哀想な御仁がいらっしゃると伺ったの。」
妙に畏ったような丁寧すぎる言葉遣い。やはり知り合いではなさそうだ。
どう対応するべきか分からないので、ひとまず黙っていることにした。
悪戯電話、ではないのだろう。母は僕の性質を知っているから、滅多なことでは電話なんて取り継がない。
「貴方、四半規管者でしょう?」
「し、はん?」
既に目を閉じているとはいえ、長い時間保護なしで過ごしていると体調が悪い。
だからこその聞き間違えかと、
「四半規管と言いました?」
そう確認してみる。
三半規管ではなく?
「ええそう。四半。三半じゃないわ。四半規管で正解よ。」
貴方のことよ。
ハウリングする声は言った。
「貴方のような体質……そうね、貴方が持っている性質をそう呼ぶの。
知らないようであれば、説明して差し上げましょうか。嗚呼、勿論、体調が優れなければすぐに本題に入らせていただくわ。
御免なさいね。四半規管者に電話はお辛いと思うけれど、直接お話しすることはできないの。」
「あの、大丈夫ですから教えてください。」
〔本題〕とやらも気になるけれど、これをそのままにはしておけないと思った。
「三半規管は知っておられるでしょう? 人間の、まぁ、身体の一部ね。
これが平衡感覚やバランスを掌るものだってことは貴方もご存知だと思うわ。
四半規管者はね、いわばこれが酷く未熟なの。三の次の数字だからか、上位互換だと誤解されがちね。
ほら、第六感なんて言ったりするものがあるでしょう? あれは、人間の五感になぞらえて言われるものよね。あちらは事実、上位互換。けれどこちらは下位互換だわ。
四半という言葉には、四分の一という意味があるわね。
つまり、通常の四分の一程度の能力しかないということよ。
四・半規管ではなく、四半・規管……と分けて考えていただいた方が掴みやすいかもしれないわ。
なんだか揶揄しているような呼び方よね。気を悪くさせてしまったら御免なさいね?
私が名付けたわけではないし、公的な呼び名でもないの。一先ずお許しいただけると有り難いわ。
さて。
四半規管者は能力が未熟ゆえに、いろいろなことができなくなるわ。
貴方にも覚えがあるのではないかしら。例えば、そうね……。
目を開けると眩暈がするから必要最低限目を閉じて生活している、とか。
耳鳴りが酷いからイヤーマフで保護している、とか。
平衡感覚が掴めずに立ち上げれないし歩けないから殆ど椅子に座ったままだ、とか。
だから、お可哀想な御仁と言わせていただいたのよ。」
気分が悪かった。それは聞いた内容の所為なのか、飄々とした声の所為なのか、それとも。
僕が〔四分の一〕である所為なのか。
酷い頭痛がして吐き気がする。彼女が説明する声にずっとノイズが被さっていた。
そして、このノイズこそが証左だと思った。僕が〔四半規管者〕である証左。
「……それで。」
「それで、僕にそれを教えてくれるためにわざわざ電話をしてきたわけではないんですよね?」
冷静に努めたけれど、声は震えていたかもしれない。心の中も頭の中もグチャグチャだ。
「勿論。実は私は小さなお店を開いているの。
それはそれは質素でね。売り物もたったひとつしかないようなお店なのだけれど。
今日は、そのたったひとつを貴方にお勧めしたくて、勝手乍らお電話させていただくことにしたのよ。」
店。売り物。つまりセールス……だろうか。
「その、売り物というのは?」
ふふ、と電話口が笑った。ような気がした。
「名前はついていないの。」
「でも、そう……良いものを見せてくれる物、かしら。
幻を見せてくれる物。希望を叶えてくれる物。そういうものね。」
少々お値段は張るのだけれどね、と続いた言葉にピクリと反応する。
僕はこんな身だから働くことなどできない。生活全ての面倒をみてくれているのは両親だ。
この人がどんな人なのか、どんな店なのか、どんな商品なのか、何一つとして分からない。
何も分からないけれど、その〔少々お値段が張るたったひとつ〕が安価ということはないだろう。
この後に及んでこれ以上、自分で支払うこともできない怪しげな買い物で迷惑をかけるわけには。
「あの。」
それでも。
欲しいと思ってしまった。
「領収書なんかは貰えないんですか。ええと、その、買うとしたら、きっと両親が支払ってくれることになるので……せめて。」
訳も分からず出費を強いられるよりかはいいだろうと。そんなことを考えるくらいには、欲しいと思ってしまう。
けれどそれは「御免なさいね」というもはや聞き慣れた言葉でにべもなく断られた。
「お店の名前をお教えすることができないから、そういう類いのものはお出しできないの。」
店名を明かせないと発行できないものなんだっけ。いやそもそも、店名を明かせないなんてことがあるのだろうか?
疑問はいくつも湧き上がったけれど、もう僕の耳も脳も限界だ。
正直話すのもやっとな状態で「じゃあ、ええと、ひとつ」と電話を終わらせたかった。
「お買い上げどうも有り難う。心配しなくても大丈夫よ、お代はきちんと頂くわ。」
言い残して電話は切れた。
翌朝。目が覚めると、枕元に覚えのない箱が置かれていた。クリスマスプレゼントには半年早い。
指先でそっと触れながらしばらく考えて、「ああ」と思い至った。
きっと〔商品〕が届いたのだ。宅配便ではないし、母が勝手に置いていくとは思えないし、どうやってこんな風に届いたのかは分からないけれど。
そもそもあの電話自体が可笑しなことのように感じる。これ以上考えるのはやめてしまおう。
起きたばかりだと特別体調が優れない。目では確認せず触って確かめてみることにした。
ベッドに腰掛けて両手で抱え込むようにしてみる。どうやらダンボールの箱らしい。包装紙やリボンは無さそうだった。
大きさは僕の両手に収まるかどうか……小さな一輪挿しくらいだろうか。長方形なこともあって、どうしても中身が花瓶かグラスに思えてしまう。
「そういえば実際に何なのかは教えられていなかったな……」
箱を開けてみる。小さな紙と、緩衝材に包まれた……割れ物?
紙は丁寧にも点字で書かれていて、
『御注文を有り難う。からりと晴れた日より、湿度の高い雨の日の方がよく効くわ。』
とあった。
使い方の説明はないらしい。どういう物かもほとんど分からないのにきちんと扱えるのだろうか?
とりあえず緩衝材を解くと、中身はガラス製らしいオブジェだった。
せっかくなので少しずつ目を開いてみる。起き抜けよりも少し体調はいい。
かくして。手の中にあるのは五枚の花びらをたたえた花だった。
どうせならばと一週間ほど雨を待った。
その日は、部屋の中にさえ水の匂いが満ち満ちていた。念のため確認しようと窓へ向かう。
狭い部屋を壁伝いに歩いて窓を開いた途端、ぐっと気配が濃くなった。湿った土と草の匂い。重苦しい埃の匂い。
外に手を伸ばすとしっとり濡れた。
雨だ。今日は雨が降っている。ようやくこの季節らしい天気になったらしい。
花の置物を手に椅子に腰掛け、さてどうしようかと考える。僕は使い方なんて教わっていないのだ。
これが例の商品だというならば、この置物に何か……。
からん。
初めは、外で何かが鳴っているのだと思った。
からん。しゃらん。
風鈴のような、グラスに入った氷のような、涼やかな音がする。
音は決して大きくない。けれど止まることなく鳴り続けていた。
「いつもの耳鳴りじゃ、ない。」
耳鳴りじゃない。雨音じゃない。
探っている間にも音は止まない。からん。しゃらん。からん。しゃらん。
まるで呼んでいるみたいだと思ってすぐ、音はこの手の中から聞こえているのだと気付く。
歌うように何かを呼ぶ音は、ガラスの小さな花から響いているのだ。
僕はその高く澄んだ音をもっと聞いてみたくて、イヤーマフを外し花を耳元へ寄せた。
こんなに小さな音がイヤーマフ越しに聞こえるはずなんてないのに、そんな些細な不思議はどうでもよかった。
ただ、ただこの音を聞いていたい。
目を閉じたまましばらくそうしていた。と、急に周りの空気が重くなったような気配がする。
湿っている、というか。
恐る恐る目を開いてみれば、僕の周囲は白く霧のようなものに覆われていた。
窓はぴったり閉じている。だとしたらこの霧はどこから、
「……これだ。」
耳に寄せたままの置物が煙って見えた。よくよく目を凝らして見れば、霧自体が花から出ているのだと分かる。
さすがに少し気味が悪くなって身体から離そうとする前に、僕は気付いてしまった。
こんなにしっかり物を見ているのに、
「眩暈がしない。」
初めての感覚につい感動して動作が止まった。そして、隙をついたようにそれは始まる。
例えるならシャワーの時。うっかり耳に水が入ってしまったような。
形のない何かに耳を侵される感覚。冷たくも熱くもない。しかし確かな存在感で、ただそれが在る。
どろどろとぬるぬると霧は侵入する。不快感はなかった。払い除けようともしなかった。
いっそ全て受け入れてしまおう。こんなにも穏やかな空気は、生まれて初めてだから。
眠っていたのか気を失っていたのか、目を開けた時にはもう陽が落ちかけていた。外はまだ雨らしい。
僕は今朝から椅子に座ったままだったし、持っていたガラスの花はぽとりと絨毯に落ちていた。
割れていなくてよかった。どうやら霧は止まっているみたいだ。
あれ。
なんだか違和感がする。何かが決定的に違っている感覚。頭にしこりがあるような居心地の悪さ。
原因を突き止めようと周囲を見まわした。
部屋の入り口。雨に濡れた窓。ベッドと椅子だけの家具。床に落ちた花の置物とイヤーマフ……。
「あ。」
眩暈が、しない。耳鳴りも。
ぐるぐる目玉を動かしても、保護なしで音を聞いても、身体になんの影響もないのだ。
もしやと思い立ち上がってみる。
「ふらつか、ない……。」
脳が揺れない。視界が揺らがない。暗転しない。
もう一度椅子に腰掛ける。今度は勢いよく立ってみた。
なんともない。なんともならない。
歩いてみる。まっすぐ歩けた。壁に伝ってもいないのに。
窓まで歩く。椅子まで戻る。転ばないしふらつかない。転ばないし、ふらつかない!
「なんで……。すごい!」
嬉しくて嬉しくて、年甲斐もなく飛び跳ねた。
すごい。すごい! こんなことは初めてだ!
「母さん」
母さん、見て。僕治ったみたいだ。
廊下を走る。母は二階にいるようだ。階段を駆け上がる。
バタバタと有り得ないはずの足音を聞きつけたのか、慌てた様子で廊下に出てきた母とでくわした。
「母さん!」
母は僕の様子を見てすぐに事情を察してくれたらしい。
口元を覆い持っていた洗濯物を落とし、「どうして」とポロポロ泣き出した。
「僕、治ったんだ。さっき目が覚めたら、眩暈も耳鳴りもないんだ。
どうしてかわからないけど、立っても歩いても走っても平気なんだ。
母さんの声だって、イヤーマフなしに聞いたって全然平気なんだよ!」
僕を抱き締め、顔を撫で、「本当に平気なの?」と何度も訊ねる泣き濡れた母を見ていると、なんだか僕まで泣けてきてしまった。
ああ、母さん。
貴女はそんなに綺麗な声音だったんですね。
そんなに優しい顔をしていたんですね。
どうか泣かないで。
きちんと開ける僕のこの目で、大切な貴女の笑顔が見たい。この耳で、明るい貴女の声が聞きたい。
今までの恩返しを、これからたくさんさせて。
そうだ。雨が上がったら一緒に散歩へ出掛けよう。
僕はもうどこにだって行けるから。
「今日は雨ね。」
「彼はアレを使ったかしら。」
「幸せな夢を見られていればいいのだけれど。」
「四半規管者がみる幻は、いつだって大抵似たようなもの。」
「きっと彼もそうなのでしょうね。」
暗闇の中で声がする。会話をしているようでいて、声は一つしか聞こえない。
年齢が読めない女性の声。口調は丁寧なのにどこか不遜だ。
「それにしても可哀想な御仁だったわね。」
にゃあ。
返事をするように、やはり暗闇の中でひと鳴き。
「不幸であれば対価なしに救いが訪れるはずだと信じてらっしゃるのかしら。」
「嗚呼、若しくは、全ての対価は金銭であると思い込んでおられるのかも。」
「なにせ領収書、ですものね。」
にゃあ。
「今までの人生を底の底から覆してしまうような幻を、そんなに簡単に見られるはずもないのに。」
にゃあ。
「けれど……そうね。私は今回もいいことをしたはずだわ。」
「彼が、霞の花の中でなら幸せであるのは真実だものね。」
「それにしてもあんなことを仰るお客様は初めてだった。」
にゃあ。にゃああ。
「ふふっ。だってどうやって書いたらいいのか分からないわ、領収書だなんて。」
「未来を奪って運命を削り取るお支払いを、なんと書いたらいいの?」