一章……(4) 【追い付ける内に】
「……ハァっ……ハァ。
あの様子なら、まだ神波鳴さん、そんなに遠くには行ってないと思うんだけど……なっ!」
校舎から出て来て、孝は荒い息を吐きつつ辺りを見回してみる。数分前のチャイムが経過した時間の目安。五分から十分といったところ。体感的にもそう時間は経っていないので、美歌がまだ学校の敷地内か近所に居るのではないかと判断する。
「あーあ、始めての早退をしちゃったよ。
まぁ授業より優先したいと僕自身が思ったんだから、別にいいけどさ」
孝は先程の一件の後、保健室から職員室に向かい担任の女性教師に美歌と自分自身が体調不良で早退する事を伝えた。
「急ごう、まだ、追い付けるうちに……!」
――今から追えば、まだ美歌に追い付けのではないか? と。保険室でそう思い立ったから。そのまま教室にも寄らずに全速力で走ってきた。
手のひら返しのようだが。
獣の尻尾と耳を生やした美歌は、孝の中でただのクラスメイトという枠組みから、並々ならぬ好奇心や興味を抱かせる対象へと変化していた。彼女は、孝の嫌いな【人間】というカテゴリーから外れている存在かも知れない。知りたい。すごく知りたい、研究したい。
だけど、普段は面識が少ないから。
彼女の体調不良を口実に、途中まで送ってあげたりして“お近付きになれる”切っ掛けを作りたい。そんな不純な理由だけで、孝は早退をしてまで美歌を追っている――。
(違う、違うんだ。そうじゃない!)
――訳では、ない。
孝は頭を振って、妙な考えを散らす。
「やっぱり、しっかりと神波鳴さんには謝らないといけないんだ。ちゃんと話しておかないと。それも、なるべく早いうちに。僕は彼女と理解し合わないと。彼女が、万が一にでも壊れないように!」
そう口に出して言う。
切り替えた頭の中で浮かばせるのは、授業中に巡り合った、あの哲学者の言葉。孝が共感した言葉。そして現状のシンプルで純粋な動機。
孝は、認める。
美歌への興味と共に歪んだ感情を抱いたのも確かに事実ではあると。彼女を情緒のシンボルにしてみたい。所有物のようにして好き勝手してみたい。そんな思考をしてしまった。こんな大嫌いで、醜く愚かしい自分が居る“事実”を全く否定できない。
けれど、違う。
そんな自分を認めた上で。ぐちゃぐちゃな頭の中の思考で。欲望と偽善の矛盾で相反しても最終的に帰結する結論で。心の中に仕舞っていた信念を信じて。自分自身を諭す。
「……だって、だって、なんだよッ!
神波鳴さんの、あんな姿を見せられたらさッ!
見ちゃったらさ……!」
単純に。ただ、彼女の事を個人的に放って置けなくなってしまったのだ。彼女がどの様な存在なのかとかは、この際に関係ないから。ただ、彼女の事を何一つ知らない自分が“おこがましい”話しかも知れないが、少しでも泣き叫ぶ程の苦しみから救ってあげたい。助けになりたい。そう思ったから。
――自分を含めた人間が大嫌いでも。
ずっと昔は、誰かの為に必死になれる人間になりたかった。今みたいな都合の良い人形じゃなくて……。中身の有る人間だった。
「ハァハァ、今日、あの時、あの瞬間まで、神波鳴さんは僕にとってただのクラスメイト。赤の他人だったっていうのに。感情移入のし過ぎかもしれない……」
走りながら、そう言葉をこぼす。
「……だけど、だけどね」
――孝は先程。一人残された保健室で、握り拳を作りながら、美歌の取り乱し具合を客観的に思い返してみたのだ。
仕組みと理由は解らないが、獣の尻尾と耳の生えた。又は生える身体の少女。
(獣に、転じる、女の子っ!)
――普通に考えて、周囲の人間には絶対にそんな事は秘密にしているだろう。それを体調不良のせいか、不注意からか、自分に見られて握られてしまった。その結果が、彼女のあの取り乱し具合と絶望したような表情だったのか?
(他人との違いに、
苦しんでるのかも知れない女の子……)
考は出会ってしまった。知ってしまった。
(――ならさっ!)
なら、自分はどうするべきか?
……そんな事は決まっている。
(――放って、おけないじゃんかっ!)
自分勝手で、自己中心的、浅はかな自覚は有るんだ。でも普通の人間に疎くて、普通の人間が怖くて、普通の人間が嫌いで。常に他人に都合の良い人間である自分ならば。【変わり者】の自分なら、普通とは違う彼女を理解する事ができるのではないか。そう思い立った末の行動が、今現在の行動理念であり、孝の意義。そう思考は帰結する。
(……あっ! 居た、神波鳴さんだ!)
孝は校門の前まで来ると、ちょうど門の壁に寄り掛かるよう立っていた美歌を発見する。これは幸い。彼女に足早に近づいて行った。
すると。どうだろう、
「ケホッ……狩仁くん。さっきチャイム鳴ったし、とっくに授業が始まってるはずだけど……どうかしたの? まだ私に用かしら?」
彼女は、美歌は、足音を立てながらの孝の接近に気が付いていたのか。その場で少し待っていたような素振りをし、鋭い瞳を孝に向けて質問してきた。
「はは、実は今日は寝不足でね……少し体調が悪くなってきたんだ。だから僕も早退する事にしたんだよ! ハァ、ハァハァ……!」
正直に追って来たとは言えず。その場で適当な出任せを口に出す孝。その割には元気良く走って来たのだし、息も荒れている。まるでツッコミ待ちのギャグにしかなっていない。
「……そう」
孝から瞳を反らす美歌。
あんな事があったのだ、当然か。
「フラフラなんでしょ? 途中まで送るよ。……あ、もちろん無理強いはしないよ。僕の同行に神波鳴さんがオッケーくれたらだからね?」
「はぁ……送る? 私を?」
「そうそう、僕が!」
美歌は孝の唐突な言葉に、目を丸くして心底に意外そうな顔をしてから聞き返した。口にこそ出さないが「さっきの一件を覚えてないのか?」とでも言いたげに。
「僕、がんばってエスコートするから。
神波鳴さんに……伝えたい事もあるし」
「ッ……伝えたい事……?」
微かにだが、美歌の身体が緊張したようにビクッと震える。それは恐怖か、驚愕か。彼女は無理をして孝と対峙しているようだ。孝は言葉選びを慎重にする。
「僕の申し出、どうかな? ……嫌なら、ちゃんと断って欲しいな。それなら、僕は居なくなるから。もうキミに干渉しないから」
「…………」
それから数秒間。
「…………」
「…………」
美歌は睨みつけるよう、孝に鋭い瞳を向け続けて視線を合わせた。考は拒否される可能性の方が高いとは理解している。それでもこの行動には確かな意味があった。寧ろ美歌に孝が“伝えたい事”が有ると“伝える事”が本命。ここで大きな意味を持つ。どんな風に受け取られても。
「……勝手に……していいわ」
「え、あれ? そう? やった!」
しかし、案外簡単に了承される。
「じゃあ、しばらく帰り道ご一緒するよ。紳士的に格好良くエスコートは、残酷ながら僕じゃ期待できないけど。すごくがんばるよ」
返答を聞き。ならばと、孝は先導するよう先に校門を潜り抜ける。
「ほら、行こうよ!」
振り返って、美歌を急かすようにそう言ってみる。彼女の、何かを、変えられるのなら……。そう不器用に願って。